第八十六章『リサールでござーる…2』
マニュエル・ケソンもまたフィリピン独立の英雄である。
早くから政界で活躍、第一次世界大戦中の1916年に自治権を獲得することに成功する。
そして34年には『十年後』の独立をアメリカに約束させたのである。
史実では日本軍のフィリピン占領に伴いアメリカに逃れ亡命政権を樹立、マッカーサーが
レイテ島に上陸する直前の44年八月に病死してしまう。1949〜76年まで首都だった
ケソンシティ…後のマニラ首都圏ケソン市…は彼の名にちなんで付けられたものである。
「あと二年足らず…待てないのかね」
「閣下も忘れてはおられないでしょう。独立には『それに耐えうる国家体制』の建設が
条件となっています。現状はとてもそれを満たしておりません…44年に独立が
かなうはずがないのです。いつまで引き延ばされるかわかりませんぞ」
「戦争だからな…原因は日本にあると思うが」
「…とアメリカにです。我が国がアメリカ領であること以外に、日本と戦う理由など
無いではありませんか。そして我々は戦争が始まって一年間、そのアメリカから見捨てられた
も同然の状態でいます」
「現在おもに我が国民を殺傷しているのは日本軍ではありません。なるほど彼らは航空機に
よって道路や橋を破壊し、バターン半島やコレヒドールの要塞の爆撃を続けています…
ですが直接の人的被害はほとんど出ておりません」
「では誰なのだ! 日本軍に示唆され援助を受けた共産ゲリラか?」
「ゲリラは中国やインドシナから持ち込まれた武器を使用しています。日本は強烈な
反共産主義の国家です…手を組むとは思えません」
「確かにゲリラは国家を食い荒らす害虫です。ですが、その撲滅のためには
日本との戦争を終わらせ、国全体で取り組む必要があると考えます」
「戦争を…終わらせるのは合衆国が日本を叩きつぶすという形でだろう」
「我々は合衆国の力も…その恐ろしさもよく知っています。いずれはそういう結果に
なるでしょう…ですが、何年かかります? 残されたのが荒廃しきった国土とゲリラとの
内戦による数百万の死骸ということになって、我が国に未来はあるのでしょうか」
「日本との講和など…どんな過酷な要求を突きつけてくるかわからんぞ。それに合衆国は
絶対に許しはすまい」
「…レイテの日本軍司令部と非公式な接触を持ちました。彼らは独立国フィリピンに
何も要求するつもりは無いでしょう。講和が成立し中立条約を結べばレイテ島からも
撤退するはずです。領土的野心が無いという日本の言葉は信用してもいいのではないですか」
「そこまで話を進めているのか…だが、合衆国はどうする!? 中立国にでもなれば
在比米軍は置いておけない…我が国を守ってくれてる彼らに出て行けというのか、
日本軍の捕虜にでもなれというのか?」
「閣下…先月のことですが…ゲリラの根拠地になっているというある村を米軍が攻撃
しました」
「………」
「結果的に誤報でした。村からは一丁の銃もひとかけらの爆薬も見つかりませんでした。
米軍は幾振りかあった山刀を武器だとしましたが…その結果二百人近い村人はほとんど
皆殺しにされました……数人の娘は…集団で暴行を受けたあとにです」
「馬鹿な!米軍がそんなことをするわけが…」
ある…のは多少でも歴史を知れば常識に近いことである。自分達の本来の日常と比べ
はるかに劣悪な環境に長く置かれ、自分達が『守ってる』はずの存在から攻撃される
理不尽さ…こうしたことが積み重なれば組織はモラル・ハザードを起こす。
それを起こした軍隊がどんなことをするか…『どこの軍隊』でもそれは変わらないのだ。
「我々はその証拠も証人も持っています。どうやら類似の事件はこれまでにも起きている
ようです…今回我々をこうした直接の行動に踏み切らせたのはこの情報に接したからです。
もはや米軍は我が国民を守る存在ではない…と」
「閣下、マッカーサー将軍を説得して頂けませんか。うまくすれば事を荒立てることなく
済むかもしれません…日本軍との交渉の中で出て来たアイデアなんですが…」
遠く爆音が聞こえる…もちろん米軍やフィリピン軍のものではない。台湾かレイテ島から
来た日本軍機が、まるで演習ででもあるように整然とした編隊を組んで飛行している。
…実際日本軍は新人搭乗員に『一応の敵地』を飛ばせることで経験を積ませようとしていた…
マニラ市街に爆弾が降ってくることは無いので、いつしか市民達は頭上を飛ぶ日本機を
当たり前の風景として見るようになっていた…一年は長いのである。
「…やってみよう。ただ、結果がどうなるか分からんぞ」
「有り難うございます…それから今後、米軍が我々に対し敵対行動に出た場合は先ほどの情報が
内外に向け発表される手はずになっています。そうしたくはありませんので、よろしく
お願いいたします」
「………わかった」
東京、総連会議室…
「米軍将兵の取り扱いですが…」
「捕虜にしたあと、今次の戦争中は対日戦に参加しないという誓約書にサインさせたのちに
本国に送還する…というのが妥当ではありますが…椿閣下はどう思われますか」
「マッカーサーは誇り高い…尊大な人物です。その条件では呑まないでしょうね。
ここで気を配る必要があるのはアメリカの政府というより国民感情です。どうせなら
太っ腹に逝きましょう…大向こう受けするように思い切り派手にね。もちろん無条件という
わけにはいきませんから、こういうぐあいに…」
椿の提案は奇抜なようにも当然のことのようにも思えた。
「わかりました。その線で準備を進めましょう…あとは吉田さんの交渉次第ですが」
「それと、それ相応に流す必要のある血の量次第でもありますがね」
スイス、ジュネーブ…
吉田茂は秘書の白川二郎とともにオーストラリアの外交官と会談していた。
「仮の話ですが、そうなった場合太平洋を横断して直接送り届けるわけにもいかんのです。
なにしろ太平洋はなにかと物騒ですからな」
「ハハ…そこで我が国に仲介、もしくは中継の労を執れとおっしゃるのですな」
「そのためには我が国と貴国の間の戦争状態をなんとかしなくてはなりません」
「前にも申し上げた通り講和は…」
「我が国としては講和が望ましいのはいうまでもありませんが、期間を定めた休戦または
停戦という形ならどうでしょうか」
「期間を…? で、いつまでを望まれるのですか」
「本国からの指令は1945年八月十五日…までです」
「ずいぶん細かいですな…何かその日付に意味でも…?」
「さあ…ただし、私の個人的意見ですが、そんな先まで戦争をしていたくありません。
結果がどうであれ…ですよ」
「いつまでも戦争をしたくないのは同感ですが…」
オーストラリア外交官は考えた。確かにこれは我が国の地位を引き上げるのにいい機会かも
しれない…オーストラリアは欧米各国からそれほど敬意を払われているわけではない。
第一次世界大戦、そして今度の戦争にも英連邦の一員として積極的に参加し多くの犠牲も
払っているが、何かといえば『流刑囚の造った国』という蔑視にあうことも少なくはないのだ。
『ヨシダの経歴からは信頼すべき外交官と判断できる。彼が示した各種の条件に嘘はあるまい…
だが、しかし…だ』
「これも私の個人的意見とお断りしておきますが、貴国の申し入れは魅力的であると考えます。
ああ…ですが、ご存知の通り我が国は強大な米軍によって守られています。
『彼らが存在する限り』この話は夢想で終わるのではないでしょうか」
吉田と白川は軽く目を合わせた。彼…オーストラリアの言わんとするところは……
会談後、吉田は日本へ送る報告の暗号電の中でその言葉をそのまま伝えた。
『彼らが存在する限り』
つづく