第八十五章『リサールでござーる…1』
南洋の島々は、当たり前の話だが楽園ではない。
戦前の、あるいは椿達三丁目世代がイメージする南洋は美しい自然の中で
人々は一年中裸で、たわわに実る果物を食べてのんびり暮らしてるというものだった。
おそらく『冒険ダン吉』を初めとするまんがや物語の影響なんだろうが…
まあ、全部が間違いというわけでもないけれど。
日本でいうと一つの県ほどもある面積を持つ島に、千人程度の原住民しかいないことの意味は
その島の自然がそれだけの人間しか養えないということである。
そこにいきなり二万人もの人間がやって来たら…彼らが開拓農民であったとしても、
最初の収穫までは食べるものを外から持ち込まなくてはならない。
『空襲と敵艦隊の砲撃により揚陸した物資のほとんどを喪失した。食料と医薬品の欠乏は
危機的状況にある…食料は十日で飢餓線上に達し、医薬品は現時点ですでに負傷者の治療に
困難をきたしている。至急…大至急物資を送られたし』
上陸部隊指揮官バンデクリフトが、かろうじて生き残った無線機で発した救援要請はほとんど
絶叫に近かった。
だが、本来の後背地であるニューカレドニアには物資はあっても、船も航空機もなくなっていた。
エスピリッツサントも同様、敗残のハルゼー艦隊がむかっている米領サモアは三千キロの
かなたである。
オーストラリアでは船団の準備が急がれていたが、とりあえず四十機のDC3輸送機による
空輸が行われた。飛行場が壊滅…いや、たとえ無事でも戦闘機用の滑走路には降りられないから
パラシュートを付けて投下するしかない。三十機のP38の護衛のもとガダルカナルに向かう
編隊は、コースト・ガードにとってかわってソロモンの島々に居座っている陸軍別班によって
きっちりと捉えられた。
ガダルカナル手前五十キロで二百機もの零戦に襲われた輸送隊のDC3は二機を残して壊滅した
P38も八機しか帰って来なかった…もちろん物資はひとかけらも届けることはできなかった。
やはりまだ奴らはいるのだ。強大な日本艦隊が付近に存在する限り船団の派遣など悪いジョーク
でしかない。
窮余の一策として、B17やB24を動員しての夜間空輸が行われる。さすがに日本機の妨害は
なかったものの、夜間のパラシュート投下では行方不明になる物資の方がはるかに多く、事態を
少しだけ先延ばしすることしかできない。
また夜間に二千キロを超える飛行を繰り返せば、一機二機と故障による脱落機や行方不明機すら
発生してくる。当面補充のめどが立たない貴重なパイロットと機体が着実に失われていく。
1942年十一月末…ハルゼー艦隊が敗北し、二万のアメリカ兵が南海のジャングルで飢えと
マラリア、アミーバ赤痢にさいなまれているこの状況は『ノーベンバー・クライシス』…
十一月危機…と呼ばれる。もっともこれは、同じ時期にアフリカで起こってた事態も含めての
ことであるが、その話はまたいずれ…
十二月中旬になり、ようやく日本艦隊が立ち去ったことが確認され、物資の空輸と船団の
到着によって事態は改善されるかに見えた。日本軍の攻撃による戦死者とその後の病死者を
合わせても損害は二千名に届かなかった。だが、生き残った者のほとんどがマラリアか
アミーバ赤痢に罹患しており、飢餓と合わせてその惨状は凄まじいものであった。
長期にわたる『垂れ流し状態』ほど人間を心身とも痛めつけるものは少ない。
ほとんど廃兵に近い兵士達で基地の再建など思いもよらない…結局、彼らは本国に送還、
作戦は中止するしかなかったのである。
さて、その少し前…開戦一周年の十二月八日。
二万人の合衆国青年が島流し状態にあっているもう一つの場所…フィリピンのマニラ…
「クーデター…かね?」
フィリピン独立準備政府の大統領マニュエル・ケソンは『リサール同盟』と名乗って
面会を強要した国軍将校達にそうたずねた。
「いいえ、我々は閣下に準備政府ではなく『独立政府』の大統領になって頂きたいのです」
長くスペインの支配下にあったフィリピンで独立運動が本格化したのは十九世紀の末に
なってからである。ホセ・リサールはその中心となった闘士であった。
リサールは1896年にスペイン当局に捕えられ銃殺刑に処せられるが、フィリピン人民から
英雄として讃えられマニラ市にはその記念公園がある。椿も若い頃フィリピンに旅行したおりに
記念像の前で衛兵の交替など見たものである。
その後でガイドに戦争記念館に連れて行かれ、太平洋戦争の説明を受けた。
あらかた知っている椿は一応説明にうなづきながらも『ああ、レイテ沖…あそこで栗田艦隊が
反転しなければ』…などとあらぬことを考えていたものである。
リサールは1888年には来日もしており、東京の日比谷公園には記念像があるとか…
1898年にスペインとアメリカの戦争が起こると、アメリカはフィリピンの独立運動を
支援して、六月には独立宣言が出された。ところが、翌99年のパリ条約でアメリカ領と
されてしまう…いかにも十九世紀の帝国主義らしい、がさつで露骨なやり口であった。
激しい反米闘争が起こるが鎮圧され、六十万におよぶフィリピン人が虐殺されたという。
そのとき鎮圧軍のために開発されたのが大威力の自動拳銃、コルト・ガバメント…というのは
どこかで話した気がするが…
その英雄の名を冠した将校団は国軍のエリート達であり、国への忠誠心もアメリカに対する
信頼感も高いはずであったが…
「ケソン閣下の尽力で、我が国は44年には独立が約束されています。ですが、それまで
待っていては独立以前に国が滅びかねないのです!」
つづく
章の切り方が中途半端だったかと思いますが、長かったソロモン海戦が終わりました。書くことは山ほどあってどこから手をつけていいものやら…とりあえず『忘れられた戦場』に行ってみましょうか。