第七十五章『42年夏物語』
太平洋と比べてヨーロッパ、アフリカ、ロシアはこの夏とてもにぎやかである。
1942年、八月十九日…ドイツ占領下のフランス、ディエップ海岸に奇襲上陸作戦が
行われた。本格的な大陸反攻ではなく、一定時間での撤退を前提にドイツの西部戦線に刺激を
与えようという限定的な効果を狙ったものであった。
英連邦のカナダ兵五千を中心に英コマンド部隊二千、新鋭のチャーチル重戦車を投入した
作戦はものの見事に大失敗、五千名近い死傷者を出す結果に終わった。
ドイツ軍の防備が薄いだろう…という見通しのもと、ずさんな計画によって行われた作戦の
唯一の成果は、大陸反攻には多大な犠牲が必要であるという教訓だけであった。
地中海では六月以降もイタリア海軍が制海権を維持している。海戦の勝利による士気の高揚も
あったし、インド洋で英艦隊が壊滅したというニュースが安心感を与えていた。英本国艦隊が
ジブラルタルを通って来ない限り、イタリア海軍は地中海最強なのだから…
その恩恵によってドイツアフリカ軍団は、エルアラメインで受けた損失を回復する以上の補給を
受けることができた。九月半ば、ロンメルはスエズに向かっての進撃を開始する。
対するモントゴメリーは戦力の回復がほとんどできていなかった。地中海を押さえられ、
ただでさえ時間を食う喜望峰周りの航路も、日本海軍の脅威によってほぼひと月近く麻痺
させられていたからだ。
冷厳な戦力の差によって英軍の戦線は突破された。チャーチルはアレキサンドリアを焦土と
化しても死守するように命じたが、モントゴメリーは『歴史的遺産を破壊した将軍』の汚名を
着ることをきらってスエズへの後退を選んだ。…もっともこれは、首都であるカイロで
エジプト人将校らによる反英武力闘争が起こったことで、アレキサンドリアは孤立する恐れが
あり、どのみち確保できないと判断したためでもあった。
王族と結んで国民を搾取しつづけてきたイギリスが力を失いかけている。それに乗じて反乱が
起こるのはある意味では当然であったが、その指導部の中心にナセルという大尉がいた。
史実では後にエジプトおよび一時成立したアラブ連合の大統領になる人物である。
…余談だが『為せば成る 為さねば成らぬなにごとも』の後に『ナセルはアラブの大統領』と
続ける人はだいたい五十五歳以上と思って間違いない。
ロンメルは英軍にスエズでの防衛線構築の時間を与えずに攻め寄せた。ここで完全に戦力を
うしなうわけにはいかないモントゴメリーはやむなくパレスチナまで後退していった。
米英は十一月に予定していた北アフリカ上陸作戦『トーチ』を繰り上げるべく準備をいそいで
いたが、その上陸部隊を載せた船団が十月十日フランス領モロッコの沖に姿を現したときには
すでにスエズ運河は枢軸軍の手に落ちていた。インドとヨーロッパを結ぶ大英帝国の動脈は
機能を喪失したのである。
ロシアの平原では黒海とカスピ海の間…コーカサスへのドイツ軍の進撃が始まっていた。
マンシュタイン元帥が指揮する南方軍集団の目標はソ連最大のバクー油田である。
すでに制圧していた黒海の水運を利用することで補給に不安のないドイツ軍は快調に
南下を続けた。この頃になると、未だ中立を保っているが元来ドイツびいきのトルコが
連合国の目を気にしつつも、こっそりと船舶提供などの強力をするようになってきていた。
すでに穀倉のウクライナを失い、いままた近代戦に不可欠の石油の大部分を失うことになれば
ソ連の継戦能力は決定的に低下する。スターリンはヴォルガ川を利用して、なけなしの兵と戦車を
送り込みつづけた。それは第二次モスクワ奪回作戦の遅れを意味したが、背に腹は替えられない。
ヴォルガとドン川の合流点にソ連の独裁者の名を冠した都市があった。マンシュタインは
そんな都市に興味はなく、一部の部隊を押さえに置いただけでひたすら南下を続けた。
九月半ば、カスピ海沿岸とカフカス山脈を越えたトビリシの二方面からバクーに迫っていた
マンシュタインのもとにドイツ参謀本部からの指令が飛び込んできた。
「スターリングラード方面に強大な敵兵力が集中しており、南方軍集団の後方を扼そうと
している。現地の第六軍に協力、かの都市を攻略せよ…か。例によって現地の情勢を知らない
お方と取り巻きが出した指令だな」
広大なコーカサス平原を完全に遮断することなど困難だし、黒海が利用できる以上過敏に反応する
必要などない。おおかたソ連の独裁者の方が第六軍の威力偵察に過剰に反応して、バクー方面に
送るべき兵力を自分の名がついた都市の防衛に回したのだろう。敵の愚行に付き合うのはさらに
愚かではないか…だが、指令を無視するわけにも…
マンシュタインの苦衷を一つの報告が救った。
「先遣隊がバクーの手前五十キロの地点でソ連軍に接触しました」
軽装備の自動車化部隊の一部を偵察のため先行させていたのだ。
「本国にいってやれ…『すでに我が軍の先鋒はバクー守備隊と戦闘に入れり、攻撃を続行したし』
…とな」
本国からの返事を待つ間にも進撃を続けたマンシュタインに届いた電文には『了承する。後方との
連絡を密にせよ』とだけあった。
九月下旬、はるかに望んだバクーは数千メートルもの黒煙を上げて燃えていた。
スターリンの命令は『死守か、敵に渡さないための完全な破壊』であった。北と西からドイツ軍の
攻撃にさらされた現地守備軍の司令官は容易な方を選択したのだ。
ヒトラーの命令は『占領か、敵の継戦能力低下のための完全な破壊』であったから、ドイツ軍も
一応の目的は果たせたわけである…独裁者は似た者同士!
これでソ連が石油を獲得する方法は北極海や北太平洋をわたってくる米英のタンカーや
イランからの鉄道で運ばれる援助に頼るしかなくなった。シベリヤの油田はまだ開発が
始まったばかり…極東では稼働し始めた満州の油田から中国企業を経由してわずかばかりは
入手が可能だったが…
スターリングラードではドイツ第六軍があやうく無意味な消耗戦に引き込まれるところだった。
ソ連軍は市街戦に老人や子供、女性まで大量に投入してきた。戦闘力はほとんどなくとも、
敵の疲労や弾薬の消耗を誘うことはできる…食料不足解消のための口減らしの意味もあったと
いわれる…
南方軍集団と中央軍集団の救援が間に合って、ソ連軍をいったん押し返したすきに第六軍を
後退させることに成功したが、十万を越える死傷者を出すことになった。
ソ連軍の損害は百万近いといわれ、再度攻撃すればスターリングラードの完全占領も可能だと
されたものの、秋の長雨がロシアの大地を泥濘に変え自然と戦闘は終息せざるをえなかった。
なお、この世界ではソ連の救国の英雄になるべきジューコフ将軍は、昨年のモスクワ陥落の折に
最後まで踏みとどまり行方不明となっている。残っているのが共産党べったりの無能な将軍が
ほとんであることもソ連軍の衰退に拍車をかけていた。
九月三十日…
衰退…というか悲惨の極みにある、忘れられた土地から一人の将軍がアメリカ合衆国に帰国した…
極東航空軍司令官のブレリートン少将である。
つづく