第六十八章『銀座の獅子』
『日劇』や『服部時…店』は確かに記憶にある通りなのだが。周りの建物が
まるっきり違うのでともすれば違う街を歩いてる気になってしまう。
めずらしく総連の会議が早めに終わった七月の夕方、椿は高倉青年、副官の遠藤中尉を連れて
『銀ブラ』としゃれ込むことにした。もちろん少しあとからは大山中尉以下四人のSPが
ついてきている。
二月の東京初空襲の直後は少しの間客足の遠のいたこともあったらしいが、銀座の人波は
戦時中をあまり感じさせない。かなりの暑さもこれから行く場所を考えると楽しみを増して
くれる。
中央通りを新橋の方向に歩くと『松…屋百貨店』の先に、お目当ての店がある。
平成の世で椿も何度かかよった『ライ…ン・ビヤホール』だ。
「閣下、あれはマチコ女史ではないでしょうか』
万事にはしこい遠藤中尉が、ビヤホールの看板を見上げてたたずんでいる女性を目で示した。
眼鏡をかけたやや大柄な女性…そういわれれば総連の兵棋盤フロアにいる『眼鏡っ子』のようだ…
しかし、服も違うし髪も勤務中のアップではなく後ろで束ねている…よくわかったものだ。
椿にとってはビールで頭が一杯で、そこに女性が立っている事自体が意識の外であったから、
それがあの『ちょっと気になる』彼女…久保マチコという名前は兵棋盤のことで質問にいった
遠藤中尉が聞き出し、椿も知ってはいた…とは気がつきもしなかった。
一事が万事、長い人生で女性にもてたことが無い理由はこんなところにもあるのだろうが…
ともかく遠藤中尉に声をかけさせてみる。
一瞬驚いた彼女だが、見知った総連のメンバーと知って少し安堵し、中に実質総連のボス格の
将官…椿がいることでまたかなり緊張をしたようだ。
「以前、身内とよく来たもので懐かしがっていたんですの。入りたい気もありましたが女一人
ではちょっと気後れしまして…」
「よろしかったら私らとどうです。今日はビールがうまいでしょう…ああ、勤務外ですから
気遣い無しということで…」
遠藤中尉に眼でうながされて椿がそうもちかけると、意外とあっさり受け入れた。
七月の、立ってるだけで汗ばむ夕方のビールはそれだけ魅力があるのだろう…
外観はともかく内装は平成の頃そのまま…って話が逆か…
もうかなりの客が入ってにぎやかだ。喧噪の中で飲むものビヤホールの魅力だが今回は
二階の個室をとることにした。SPはご苦労だがドアの前で警備…ただし一人…中山少尉だけ同席
させる。こういうときは交替で同席させることにしている。もちろん余り飲めないが、
椿との同席は彼らにとりなによりの光栄であり、喜びになる…そう言う設定だから…
大ジョッキとローストビーフ、フライドポテトという医者がいい顔をしないだろう組み合わせで
まずは乾杯…暑い日のよく冷えたビールのひとくち目(ゴクゴクの数で言うと七ゴクぐらい)は
この世でもっともうまい物であると思う。プールで泳いでサウナに入ったあとなど死んでもいいと
思うくらいで『さあ殺せ!』と叫ぶこともしばしばである。
話題はどうしても紅一点、マチコ女史に集まる。まさか軍事機密を話題にもできないし…
「女学校を出たあと親類の紹介で夫と知り合い結婚いたしました。ここには新婚の頃二人で
数寄屋橋で待ち合わせたあとよく来ていたんです。二児を授かりましたが、夫はノモンハンで
戦死しましたので実家に戻りました。夫は三男でしたので孫はもう必要がなかったようです。
実家はいま母だけですし多少の蓄えはあっても暮らしは大変なものですから、夫の上官だった
方の口利きで総連で働くことになりましたの」
話をまとめると以上のようになる。二十代前半にしか見えないし、二人の子持ちの未亡人とは
思わなかった…高倉青年など不しつけにも意外さを隠さず口に出している。
亡くなった夫の名前がハルキというかどうかは聞きそびれた。
ハキハキした口調だが口数は多くない彼女も、酒が進むにつれ少しずつ舌が滑らかに
なっていった。
「ときどき自分が怖くなるときがあります」
「………?」
「兵棋盤で動かしている駒が、生きている人の集まりだということを忘れそうになるんです。
たくさんの人が死んだり傷ついたりしてるというのにそれが実感として伝わって来ない…
軍の中枢におられる方はみんなそうなんでしょうか?」
やや上目遣いで顔を見られた椿は、その挑戦的とも思える質問にどう答えよう…などとは
ちっとも考えていなかった。なかなかいいキャラクターだが、このままでは見たまんまで
ありがちだ…もうひとひねりあるともっと魅力的になるのだが…と品定めをしていたのである。
それでも彼女が言外に述べていることはわかる。『自分の夫の死も兵棋盤上の駒の一部として
たんなる統計の数字にしか感じられなかったのだろう』ということだ。
「指導する立場にある者はそうでなくては勤まらないという面はありますね。一と九十九の
どちらかしか助けられないときは、ためらわず九十九を選ばなくてはなりません。ごくまれに
一の方が将来的に千万を救うと判断することもあるでしょうが、例外を基本にするわけには
いきません」
…もちろん私はその基本からは外れてるけどね。楽しむために戦争をしてるんだから…
「人間が争うことなく、助け合って暮らす…そんな社会はできないものでしょうか」
遠藤中尉と高倉青年が顔を見合わす。反共産、反社会主義の帝国では聞きようによっては
かなり危険な発言だ。
「旧石器時代…日本でいえば縄文時代の中期あたりまではそんな社会でしたよ。
身分や貧富の差はなく、男女の差別もなかった…集団の全員が力を合わせその日の食を、
あるいは冬を越すための食を得なければならなかったから、争っている暇なぞなかったでしょう。
…『原始共産主義』というやつですね。だが、人はその状態にいることをよしとしなかった。
平均寿命が三十歳というような状態から脱するために農耕や牧畜を始め、必然として身分差や
貧富の差が生まれてきました。二千年かかって日本人の寿命は三十年ばかり延びましたがね」
「その代わりに、戦争をして寿命を縮めてるわけですね。先ほどは話に出ませんでしたが。
私には弟が一人いて海軍におります。まだ結婚もしていません…あ、戦時中にめずらしい話で
ないことは承知しています。でも異議の一つも申し立てたくなるのですわ」
「誰に対してですかな」
「こういう社会…世の中に…です。閣下がおっしゃったように多くの人がいまの状態を
よしとしなければ、いずれは変わっていくのではありませんか」
「なるほど、そういうことでしたら確かに…この戦争で死ななかったら、私はともかく
あなたは生きているうちに『変わった社会』を見ることができるでしょう」
「本当に?……閣下は変わったお方ですね。失礼な言い方とは思いますが、ちっとも軍人らしく
見えませんし…そう、劇とか物語とかを作ってらっしゃる方のように感じられますわ」
これには少々驚かされた。まあ、軍服を着てるわけではないし、今日も黒地に白で『闘魂』と
入ったTシャツだから軍人に見えなくても不思議はないが…
眼鏡越しにキラキラ光る眼で見つめられるとちょっとドギマギしてしまう。
しかし、この話はこれ以上あまり発展しない…と思う。どういう方面に?と聞かれると困るが、
椿はいそがしいのだ。この場のことは一夕の座興として戦争に話を戻そう。
同じ頃…インドネシアのジャワとスマトラの間のスンダ海峡を抜けて、椿五十二郎が指揮する
魔王艦隊はインド洋に姿を現した。そして、マレー半島とスマトラの間…マラッカ海峡を
抜けたアンダマン海にも強大な艦隊が進撃していた。イギリスの海インド洋に対して一時的では
あるが超強烈な打撃を与えるべく、作戦名『征西の艦隊』が開始されたのだ。
つづく
今回は疲れました。こういうシュチュエーションは自分には無理かも…です。まともな?戦争の話に戻りますのでよろしく。