第六十一章『六月の七日間…2』
1942年六月の初旬、世界の強大国が相争う大戦争は一つのクライマックスを
迎えていた。太平洋のここかしこ、ロシアの平原、地中海、アフリカ大陸…
地球の表面を這い回る人間共は各々が手にした武力というおもちゃを振り回しながら
空に、陸に、海に科学的反応および人体を構成するさまざまな物体をまき散らしていた。
どこの戦いにもそれなりの意味がある…無いといえば無い…のだが、人命という
スケールならば独ソ両軍によるモスクワ攻防戦である。ウラルに疎開させた軍需工場が
ようやく生産を軌道に乗せた兵器や弾薬を冬から春にためこんだソ連軍は、それでも
不足する分を人間の数で補うべく三百万の兵を投入した。
『戦場の神』重砲がうなりを上げ、カチューシャロケット砲が火の雨を降らす。
制式化間もないT34中戦車の群れがドイツ軍前線に殺到し、背後から督戦隊の銃口を
突きつけられた歩兵の大集団がひたすら突撃を繰り返す。
守るドイツ軍の兵力は反共産党のロシア人兵などを加えて百三十万…計四百三十万という、
一戦場においては史上空前の陸戦が繰り広げられた。
五月下旬に始まった攻防戦は六月六日に最高潮を迎え、以降急速に終息する。
一つの機銃座に一万人が突入するなどといった戦法? でドイツ軍前線に食い込んだソ連軍は
この日、はるかにクレムリンの尖塔…ドイツ軍占領時の激しい市街戦にもかかわらず残っていた
…を望むところまで進出して力つきた。
航空戦力は機数、性能とも双方互角だったが、パイロットの技量の差でソ連空軍が駆逐されると
後方への空襲で兵站が崩壊した…モスクワという交通の要衝を押さえられてるソ連軍には、
もともと三百万の将兵に円滑に補給をする兵站能力などなかったのだが…
米英から援助されるはずのトラックなどの汎用車両が、不利な戦況の影響から予定された数が
届いていないことも痛かった。最後の一週間、ソ連兵の多くは飲まず食わずで戦っていたのである。
そのため、捕虜になってから衰弱で死ぬ者が相当数出てしまったというから悲惨の極み。
精強をもってなる日本軍兵士でも『泥水すすり、草を食み』戦えるのは三日ぐらいとされている。
あ、それは史実の軍歌の中での話で、この世界の日本にはそんな無茶な軍歌は無いので念のため…
T34の高性能は確かにドイツ軍を驚愕させ、機甲戦力にもっていた自信を大きく揺るがせる
ことになった。卓越した戦術運動と通信能力、アフリカでの戦訓による88ミリ高射砲の
対戦車砲への転用が行き渡っていなかったら損害はさらに増えていただろう。
もっとも今回投入されたT34は三百輌ほどで、おのずとその打撃力には限界はあったのだが、
千単位で投入してきた場合を考えると慄然とせざるを得なかった。三号、四号戦車がドイツ
機甲戦力の主役を務める時代は急速に終わろうとしているのだ。
ともかくこの戦線でソ連軍は約百十万の戦死者と捕虜を出した。ウラルに戻ったのは約百四十万…
うち五十万は負傷者…残りの五十万はどこへ行ったかというと、どこかへ行ってしまったので
ある。行方不明?脱走?色々言い方はあるだろうが、ソ連共産党の頑強な支配体制にも崩壊の
兆しが見えてきたともいえる。
ドイツ軍は十二万の戦死者と同数の負傷者を出した。キルレシオはともかく、人的資源に限界の
あるドイツにとり小さな損害ではない。未だ優勢を保ってはいるが『西』にも備えなくては
ならないドイツは明らかに息切れを始めていた。とはいえ、ソ連の反発力を削ぐため南方の
資源地帯コーカサスへの大規模な進撃の準備が進んでおり、その方面で勝利できれば東部戦線に
めどが着けられるのではと期待されている。
ロシアでは同じ時期にもう一つの戦闘があった。陽動の意味かやはり占領下のレニングラードに
二十万ほどの兵力が攻撃をかけた。この地域のドイツ軍を拘束する効果は確かにあったが、
その代わりにこの練度の低い軍はほとんど帰らなかった。ここではドイツ軍と歩調を合わしている
フィンランド軍が小兵力ながら悪鬼のごとく戦い、恨み重なるソ連軍を殺戮したという。
数少ない枢軸側の参戦国フィンランドの近世以降の歴史はロシア帝国、ソ連の侵略と
それに対する小国の抵抗の歴史である。長くスウェーデン王国の支配下にあったフィンランドが
公国として自立したのは十六世紀のことであった。しかし、十八世紀からナポレオン戦争を
経てロシア帝国の支配下に組み込まれる。日露戦争の頃はロシア総督のもと自治権も奪われ
激烈な、そして絶望的な抵抗運動が行われていた。ここの人々がロシアと戦い負けなかった
東洋の小国日本に尊敬とあこがれをもつようになったのは言うまでも無い。感動のあまり
自分の子供に旅順や奉天の英雄『タツミ』の名を付ける者が多くいたほどだ。
…史実だと『ノギ』なんだが、この世界では椿の出現させた軍の名目上の司令官である
立見尚文の方が知られているのだ。
第一次世界大戦とロシア帝国の崩壊によって独立を果たしたフィンランドであったが、
それもつかの間、より厄介な敵…共産主義ソ連の脅威に直面することになる。
第二次大戦の勃発のどさくさにソ連から仕掛けられた「冬戦争』において善戦はしたものの、
国土の一割を奪われてしまった。独ソ戦によりその失地を回復したが、この先負けたら
どんな目に遭うかわかるだけにフィンランド軍は必死にならざるを得ない。
日本がモスクワ攻防戦の詳細な結果を知るのはかなり後になってからだが、広域暴力団同士の
仁義なき殺し合いは、とばっちりが来ない限り日本にとって判定『良し』である。今後とも
双方できるだけたくさん死んでくれるとうれしい。ロシアの人口が一億人をきったりしてくれれば
もう言うことはないくらいうれしい。
つづく