第五章『いそがない、いそがない』
1906年、世界の海軍関係者は英国海軍が送り出した戦艦ドレッドノートに
驚愕した。武装、速度とも従来の戦艦とは比べ物にならないほど強力だったからだ。
イギリスがドレッドノートを建造したのは、欧米列強…特に大艦隊創設に狂奔し始めた
ドイツに圧倒的な差を見せつけることよにより、あわよくば競争から『降ろさせる』
意図があったという。
結果は正反対でドイツを始め各国はド級、超ド級戦艦の建造に突っ走った。
世界最大にして『ツーパワー・スタンダード』…自国に次ぐ二大国の戦力を
合わせたものを保持するという方針の英国海軍は、とてつもない建艦競争に
巻き込まれてしまった。
膨大な従来艦…前ド級艦を更新するのにかかる費用は、いかに当時の超大国
イギリスといえど看過できるものではなかった。他国にとってはなおさらである。
さて、大日本帝国海軍はというと…
日露戦争に勝利したものの、戦艦三笠、初瀬、八島と装甲巡洋艦日進、浅間を喪失。
イギリスから三笠の準同型艦の『鹿島級』戦艦二隻を購入して、なんとか太平洋随一の
海軍力を保持していた…この時点でアメリカは太平洋に装甲巡洋艦一隻を持つだけだった。
1908年、そんな日本を衝撃が襲う。前年、世界一周の親善および恫喝の航海に出た
アメリカ海軍のグレート・ホワイトフリート…艦体を白く塗っていたのでそう呼ばれる…が
やって来たのだ。
前ド級艦ばかりとはいえ、新造の戦艦、巡洋艦十六隻は脅威である。世界一周といいながら
太平洋で目立つ存在となった日本に対する恫喝が主な目的であるのは衆目の一致する所だ。
『白船来航』…ペリーの黒船にかけてこう呼ばれた米艦隊の来航は日本の朝野を震撼させた。
内外問わず『日米戦争』を予想した者も少なくなかった。大統領セオドア・ルーズベルトに
『日本の出方によっては十パーセントぐらいは可能性がある』といわせたほど、緊張に
満ちた『親善艦隊』の来航であった。
とりあえず、日本側の大歓迎によって無事に白船は去っていった…日清戦争の前に
同様の目的で清国北洋艦隊が来たときも『とりあえず大歓迎』で引き取って頂いたことがある。
これが海軍力増強の必要性の認識という面で追い風になったことは間違いないが、
なんせ先立つものがない。『民力休養』はしばらくの間、絶対的な命題とされていた。
地道にやるしかない…椿は明治時代を去る前に、山本権兵衛はじめ海軍指導部に
ドレッドノートの情報を与えておいた。とは言っても、すぐ同じものが造れるほど
日本の建艦技術は進んでいない。大型艦建造の経験を積むため『筑波級』準ド級艦の
建造は…即旧式化することがわかっていたが…行われた。ただし、次の『河内級」は
中止される。
アメリカの脅威をイギリスにすり寄ることでかわそうと考えた日本は、次の主力艦…
超ド級艦『金剛』を1913年に購入し、それを参考に『比叡』『霧島』『榛名』と巡洋戦艦を
建造していく。
また、その前…1910年に竣工した『高千穂級』装甲巡洋艦二隻は世界の海軍関係者を
瞠目させた。一万四千トンの艦体の中心軸線上に、四基八門の二十サンチ砲をのせ
二十六ノットを出すこの艦は大型巡洋艦のスタンダードとして認知された。
それは負けず嫌いのアメリカが、すぐに同様の艦を倍の四隻も造ったことからも
うかがえるだろう。
『扶桑級』戦艦が予算待ちしてる間に、ユトランド沖海戦が起こる。
驚いたのは、比較的小口径の砲弾により大型艦がボカスカ沈んだことである。
砲熕技術の発達によって砲戦距離が長くなったことが原因となり、大角度で
落下する砲弾がこれまで軽視されてきた薄い水平防御を貫いたのだ。
この戦訓に基づき、ポスト・ユトランド型に設計変更された『扶桑』と『山城』は
大戦が終わった1919年に相次いで竣工する。
基準排水量二万九千トンの巨体に、主砲は金剛型と同じ十四インチ…三十六サンチ砲
連裝四基八門、二十七ノット(公称二十五ノット)の重防御、軽武装、高速の
真の超ド級戦艦の誕生である。
貧乏国日本の戦艦は簡単に沈んでもらっては困る。ともかく生き延びて、敵に手傷を
負わせれば巡洋艦以下の補助艦艇をもってとどめをさすこともできるだろう。
これが日本海軍の戦術ドクトリンであった。
扶桑型をさらに重防御、高速化した『伊勢級』の建造にとりかかろうか…と
いうときに英米から呼び出しがかかった。
ワシントン軍縮会議…である。
つづく
史実でも架空戦記でも、役立たずか沈められ役にされることの多い扶桑級戦艦をいじってみました。この性能ならもう少し活躍できる…かもしれませんね。