第四十二章『安愚楽鍋』
半徹夜の数日を総連で過ごした椿は、ひさしぶりに早稲田の自宅に帰った。
風呂に入り座敷に戻ると七輪の上で牛鍋のしたくができている。
椿が二人の女中に味付けを仕込んだもので、砂糖を使わない牛鍋だ。
だしと醤油でつくった少し辛めの汁でネギと豆腐を煮込み、肉にさっと熱をくわえ
色がピンクのうちに食べる。甘辛い割り下でつくるすき焼きも嫌いじゃないが、
酒を飲むにはこちらの方があうと思っている。シラタキが品不足で入ってないのは
ちと残念だが仕方あるまい…
今日の相伴は高倉青年とセツとサチ、牛肉は高価だからそうそう庶民が口にできないが
椿はけっこうもらってる俸給を他に使うところがないので、ほとんど飲み食いに使っている。
その辺は平成の世でもあまり変わらなかったけど…
日中戦争というとんでもない長期消耗戦をやっていないこの世界では、民需用の物資も
まだ余裕がある。さすがに開戦後はそれまでのガソリンなど戦略物資に加え、主食の米から
マッチなどの日用品に至るまで配給や価格統制といった制限がかせられ始めている。
だが、史実と比べれば雲泥の差で、金さえあればまだ大概のものは手に入れられた…
酒でも肉でもXXでも…
「おつかれさま」
ビールのグラスを合わせ流し込む。久しぶりの上に湯上がりだからたまらなくうまい。
毎晩酒を欠かさない椿も、さすがに総連に泊まり込むときはステンレスのケトルに
詰めていったウイスキーをひとくち仮眠の前に飲むぐらいだった。
「ご主人様、南の海での戦いは大勝利だったとか…おめでとうございます」
「サチ達が家を守ってくれるので職務に専念できる。お礼を言いますよ」
「とんでもありません。国を背負ってるご主人様にどれだけのことをして
差し上げられるのかと考えると、至らないことばかりで…」
「一仕事終えて、二人のマッサージを受ける楽しみが私の活力源だよ」
うれしそうに笑う二人…ご主人様もこれでけっこう気を使うのだ。
「しかし、町は意外と静かでしたね。祝賀の雰囲気は全然ありません」
「それは高倉さん、日本の軍艦も沈んだり傷ついたりして亡くなられた兵隊さんも
少なくないとラジオや新聞で知ったからですわ。ご家族のことを思ったらうかれる
わけにはいきませんでしょ」
「私たちもカルタでよく知ってる、戦艦長門も沈んだと聞けばなおさらですわ」
「お買い物にでたときですけど…小学生の男の子が、貯金箱をかかえて巡査に
聞いてるんです。新しい戦艦のために寄付をしたいけど、どうしたらいいかって…
『大和』をたくさん造って欲しいって」
「いい話ですね、椿閣下」
「うん、もともとアメリカと日本じゃ大人と子供以上に力が違うんだ。
その相手に五分以上に戦っているのは、とても大変なことだよ…
本当の勝利…戦争が終わるときまで、セツの話に出た子供のように必死さを
持ち続けることが必要だ…祝賀はそれまでおあずけだね」
我ながら、学習まんがの解説のようだったな…と椿は思った。
間違いではないが面白くないというやつだ。
セツとサチに念入りに腰をマッサージしてもらいながら、なかばしびれた頭で考える。
『こういう…日本国民の反応を招くためにあえて第一艦隊を突入させたわけで、
それは成功してるようだ。なんとなく…すんなりすぎて、つまらなくもあるがね…』
三日前…『南太平洋海戦』の大戦果による興奮が一段落した後…の総連の情景が思い出される。
皆…特に海軍のメンバーは一種の虚脱状態に近い状態だった。
無理もない…日露戦争後に太平洋を挟んで対峙する強大国が最大の仮想敵国になって以来、
営々と準備を重ねてきた決戦に勝利したのだ。
近代国家総力戦は『そうではない』と理解してはいても、頭のどこかに
『これで戦争そのものが終わるのではないか』という期待、あるいは願望の
ようなものさえ浮かんでいただろう。
じっさい、その損失に耐えられる国家は地球上に二つとないだろうと思えるような
勝利だったからだ。だが、相手はその『唯一』の国家であり、戦争はこれからが
本番なのである。
「…霧島は消火が困難で、機関部への浸水もかなりあったということで
自沈のやむなきにいたりました」
「長門と合わせて戦艦二隻の喪失か…武蔵と信濃の修理も大分かかりそうだな」
「本土に戻ってから詳しく調べないとわかりませんが、仮に大和と同程度と
すると戦列に復帰するまで四か月から半年は…」
「巡洋艦の喪失が四隻…『加古』『古鷹』『神通』『大井』…駆逐艦も七隻か…
もちろん第一艦隊の上げた大戦果の評価を下げるものではないが、損傷艦を計算に入れると
やはり大損害だなあ。潜水艦も三隻が連絡を絶っている…正面きっての殴り合いをすれば、
勝っても無傷で済むなんてあり得ないと頭ではわかっていても、現実を突きつけられると
衝撃を受けますなあ」
「椿さんはどう読まれますか。米軍が戦力を立て直して再度攻勢に出てくるのは
いつごろになるでしょう?」
「厳密に言えば、すぐにでも…ですが」
「………!?」
「もちろん、洋上艦隊を押し立てて本格的攻勢に出るのは、早くても来年でしょう。
43年の秋までにはノースカロライナ級の改良型が五〜六隻、空母も大小合わせて十隻以上が
…新型の航空機を載せて…就役してくるはずです。むろん巡洋艦、駆逐艦も新造艦がたっぷりと…」
「…それまでにこちらも態勢を強化しておかなくては…ということですね」
仮に『それ』に勝ったとして、それから…とは誰も聞かないし、椿も言うつもりがない。
だが、予見できる範囲での未来図に一同が粛然とした…『無敵皇軍』などという言葉は
どこをつついても出てきそうもない。
『南太平洋海戦』には第一艦隊を突入させないという選択肢もあった。
空母部隊に残された陸用爆弾でも駆逐艦や輸送船は沈められるし、巡洋艦に打撃をあたえる
ことはできる。戦艦を中心に取り逃がす敵も多かっただろうが、こちらの水上艦の損害を
ゼロに近い『完勝』にもっていくことはできたはずだ。
しかし、椿は完勝を望まなかった。どれほど口で『勝って兜の緒を…』と言いつづけても
完勝は人の心に、指導部層から末端の兵士、国民全体におごりを生まずにはおかない。
それは日本にとり悪い影響しか与えないだろう…戦争に限らず、この国と国民が
のぼせあがったときどうなったか…を椿は多少なりとも知っている。
何度も言うようだが、この世界の日本は『少しまし』なだけであって、そんなものは簡単に
ひっくり返るものなのである。だいいち、『御使い』を軽んじるような風潮が出てきては
やりにくくてしょうがない…
よって、戦果の拡大と引き換えに戦艦を含む損失を承知の上で突っ込ませたのだ。
報道は戦果と損失のバランスをとるように指示した。
敵艦多数の撃沈、捕虜、ギルバート諸島の一時的占領…
長門級、金剛級の喪失、少なくない死傷者…
その上で大和級の情報の一部開示…写真付き
史実では非常識なまでに厳重な秘匿が行われ、国民の大多数が戦後まで存在すら知らなかった
大和級だが、この世界では多少緩い。レイテ沖海戦と今回で敵へのお披露目も済んでいるので
戦意高揚のために『我に新戦艦あり!』とやらせたのだ。
大和級とノースカロライナ級の撃ち合いは、かつての椿のような軍事少年の胸を熱くする
ことだろう…貯金箱の少年はきっとそうだ。
史実で誇大、虚偽の代名詞のように言われている『大本営発表』だが、全くのでたらめを
言ってるわけではない。報道の中でいくら皇軍将兵が勇戦敢闘していても戦場が本土に
近づいていることを見れば…行間を読めば…敗色濃厚なことはわかるようになっていた。
ただ、指導者達が『これは私の責任ではない』とするためのレトリックを駆使するので
結果として意味不明になることが多かったらしい。
完全な虚偽にならない程度での情報管制はどこの世界…国でも共通である。
ある程度の自己保身が含まれていることも…
それにしても疲れた…やること多いよなあ…これも『魔王の軍』出現をより盛り上げるための
演出なんだが…問題はいつ……とりあえず…寝よう
つづく