第三章『近代史の事件簿2』
中国では袁世凱が国号を『中華帝国』と改め、自ら皇帝に即位したかと思ったら
即死んでしまった1916年以降混乱の渦中にあった。
各地の軍閥が対立抗争を続ける中で、蒋介石率いる国民政府…
国民革命軍が南京を中心に勢力を伸ばし、北京の北方軍閥、張作霖と
対抗するという図式が出来つつあった。
日本は張作霖を支援する立場を取っていた。なるべく距離をとり両者を戦わせるままに
しておこうという考えが支配的だったからだ。だが、それを消極的として『満州を
中国から完全に切り離し、さらには中国本土にも地歩を築くため政治、軍事の介入を
行うべし』という意見が中堅将校の間で出始め、徐々に勢力を広げつつあった。
隣国の混乱に乗じての勢力拡大は常道ではあるが、やりすぎは没義道に
なるのではないか、道を外せば『罰』を受けるのではないか…そういった『御使い』の
伝説を知る年寄り連中の声はかき消されがちになっていった。まあ、当然のことではある。
日露戦争からすでに十五年ほども立ち、当時は若輩で中央のことなどあずかり知らぬ立場だった
現在の佐官クラスにとっては、そのような『世迷事』を信じろという方が無理であろう。
大戦景気によって飛躍的に伸びた産業の販路の確保も必要だ。さあ、いこう!
支那には四億の民が待つ…といった所に『関東大震災』は起こる。
椿は敢えてこのことを予言しなかった。位置的に、また地学的に自然災害大国であることは
変えようがない。ならば、時々『痛い目』に会わなければ対策も進まないだろうから…
よって、史実通りと思われる損害を出したし、デマ、パニック、朝鮮人や中国人、はては
方言のきつい沖縄県人まで暴行、殺害されるという悲惨な事件も起こった。
大陸への介入は沙汰止み、少なくとも先延ばしされることになった…『平将門の怨霊』より
恐ろしい『御使いの罰』説が、政治や軍部の上層で実感を持ってささやかれていたからだ。
その後しばらく日本は帝都復興のかけ声のもとで内需中心の政策がとられる。将門の本拠地近く
筑波の地に大学を移転し文教都市を造ろうというシャレのような計画も立てられ、
『首都機能移転』がはやり言葉となって土建業界は空前の活況を迎える。
そのための資源確保が重要課題となり、満州の利権保護の名目で『関東軍』の増強も行われる。
1928年、国民政府軍に押され気味で蒋介石との手打ちを模索していた張作霖が、
乗ってる列車ごと奉天の近くで爆破されるという事件が起こった。これは関東軍の謀略とされ
天皇が激怒、粛軍の嵐が吹き荒れることになった。
1929年、アメリカ発の『世界大恐慌』は日本にも襲って来たが、内需と満州開発とで
影響を最小限に抑えることができた。また、安くてそこそこの品質を持つ日本製品は
不況の中でも輸出が堅調だった。これは史実より十年早く制定された工業標準(JES)が
大戦を通して磨かれ、産業の底上げがされていたことが大きい。1921年に工業規格(JIS)
となり2005年にデザインが変更されるまでおなじみとなるマークも誕生する。
三十年代に入ると中国では国民政府と毛沢東の共産党軍の争い…国共内戦が激しくなる。
日本はその国策から国民政府に接近、共産軍との戦いに支援を申し出る。まさに手のひらを
返したわけだが、蒋介石は武器など物資援助に限って受け入れた。
関東軍にこの方針に逆らう力はなく、満州権益の防衛、対ソ連への備えという
本来の役目のみに従事することになる。
『柳条湖事件』も『満州事変』も起こらず、もちろん『満州国』がこの時点で建国される
こともなかった。溥儀や板垣征四郎、
石原莞爾などといった名前も出てこない。
日中の関係はしばらくの間、同盟とはとてもいえないけれど、ゆるーい協調といった状態が
続いていく。それを遠く海の向こうから苦々しく見る目があった…
そう! あの! はた迷惑な超大国である!
つづく