第三十八章『我が辞書に…』
椿五十郎は二杯目のゴール…ブレンドをすすりながらいった、
「太平洋艦隊にもまだチャンスは残されています。いますぐ『転進』をして
ハワイか米領サモアにでも向かうことです」
「その場合は…第一艦隊は追いきれませんから、一機艦による追撃ということに
なりますか」
「そうです。むろん戦果は上がるでしょうが、日米双方にとってもっとも
人的および物的損害の少ない結果になるでしょう」
「キンメルはそれを選択しますかね」
「合衆国…ルーズベルトが、というべきかもしれませんが」
兵棋盤…と、ついでにそばの眼鏡っ子…を見おろす。
ギルバート諸島北西と北方で停まっていた二つの駒が…給油を終えて動き始め、
一点に集結しつつある。
……戦艦ノースカロライナ
「撤退など論外である。我が艦隊は一隻たりとも喪ってはいないではないか。
充分な戦力を持ちながら逃げるなど合衆国海軍に許されることではない!」
海兵隊が上陸した日、ルーズベルト大統領はたからかに『勝利への第一歩』を宣言し、
太平洋艦隊に祝福を送ってきていた。
『合衆国はトーキョーに向け着実に断固として歩を進めるであろう』…あえてフィリピンには
触れなかった演説は国民の士気と大統領の支持率を跳ね上げたはずだ…それから十日もたたずに…
そう、許されることではない。
キンメルの怒声に立ちすくむ補給士官にスミス参謀長が励ますような視線を送り
発言を続けるよううながす。
「ジャッ…日本軍機は給油艦、タンカーを集中的に狙いました。最終的に船団の
損失は九十パーセントにもなりましたから、いずれにせよ同じことだったかも
しれませんが、ともかく艦船用、航空機用を問わず燃料は一滴も届きませんでした。
遠からず、太平洋艦隊は『どこにも行けなく』なります。…さらに、無一物の陸軍兵士が
増えたことにより二週間後には食料事情が飢餓線上に達することが予想されます。
糧食を積んだ船も全滅でしたから…」
たどり着いた船に乗せられていた物は…バーラック(簡易兵舎)の資材、ブルドーザー等の
土木機器、重砲と砲弾、M-3スチュワート戦車など、近代戦に必要で重要な物資では
あったが『腹が減っては戦はできぬ』のは古今東西を問わない。ついでに医薬品も
海の底で…熱帯の過酷な環境により、強靭な肉体を持つ海兵隊員の中にも罹病者が増えている
ことを考えると、備蓄が切れた後の事態は想像もしたくないところである。
「言うまでもないことだが、合衆国は我々を見捨てはしない。可能な限りすみやかに
補給船を送ると言ってきている」
『それは、言ってはくるだろう』
スミス参謀長はふくれあがってくる不安を押さえきれずに、だが表面上冷静な顔を
保ちながら考えた。
「問題は必要な時期に、必要な物が、必要な量だけ届くかだ。合衆国の力は
八十パーセントが大西洋に向けられている。船舶も然りだ…現在太平洋にある輸送船を
かき集めて送ろうとしても、充分な数揃うのか?仮に揃ったとして護衛艦艇は?
Uボートは確かに脅威だろうが、駆逐艦の大多数は大西洋艦隊に属するかイギリス海軍に
貸与されている。裸に近い船団がどれだけの確率で無事にギルバートまでこられるか…』
……東京
「一年半…いや一年後でも米軍は、有り余る輸送船舶と護衛艦艇を持つでしょう。
だが、『いまだけ』は彼らがやろうとした侵攻作戦には非力である…というわけです」
もちろんそれは相手…日本軍との力関係もある。椿は史実のマリアナ戦を思い出す。
戦闘力だけでもイヤんなるぐらい差があって、超常的な何かでもない限り架空戦記にも
できないような力関係…そしてマーシャル諸島を策源地に押し寄せる五百隻以上の
輸送船団…
1942年初頭は史実でも日米の戦力がもっとも接近していた…つまり、勝負になった
時期である。まさにいま、米軍は『所要に満たない』可能性大の戦力を投入してきたのだ。
ここは徹底的にやるしかあるまい。それもただちに…艦隊はたとえ燃料を補給しても
いつまでも作戦行動を続けられるわけではなく、艦も人も疲れがたまって、その能力は
低下していく。完全な『干し殺し戦術』を成功させるには日本の戦力も不足だから
多少の無理押しもやむを得ない。そしてその方が、身のためかもしれない…
……空母エンタープライズ
「作戦は予定通りだとお!?」
ハルゼーの怒号に参謀長ブローニング大佐が、少し首を傾げながら答える。
「いまギルバート方面で必要なのは戦闘艦艇ではなく輸送船ということでしょうか」
「フレッチャーのやつがトラックで下手をうったというし、俺がいかなくちゃ
どうにもならんのと違うか?」
「大統領閣下は華々しい勝利を、それもいくつもの勝利を望んでおられるようです。
ドウリトル少佐は作戦実行に自信を持てるレベルになったと報告しています」
「…いくしかないか」
……ギルバート諸島北北西四百キロ、空母レンジャーの索敵爆撃隊に属するドーントレスは
右から二番目の索敵線を飛行していた。
「機長!左を見て下さい…大編隊です」
「…遠くて機種まではわからんが百機くらいはいるな」
「敵機でしょうか?」
「おい、リチャード…この空域に俺たちとジャップ以外の何がいると思うんだ」
「母艦に敵発見の連絡を入れますか?」
「…敵の接近はレーダーでわかるだろう。それより敵艦隊の発見を優先しよう…
奴らが来た方向にいるはずだからな」
ほどなく、その望みはかなえられた。水平戦上に彼らの艦隊に匹敵するような大艦隊が
姿を現してきた。太平洋艦隊の上空に飛来した偵察機以外で初めて目にする『敵』だ。
「いた!戦艦十隻…空母もいるぞ!」
「機長!敵戦闘機です』
「反転して雲に逃げ込め!だいじょうぶだリチャード、おまえと俺はどんなピンチに
陥っても必ず逃げ切れる」
レンジャーに打電しながらキンブル大尉はなぜかそう確信していた。
キンブル機の報告とレーダーにより敵機の接近を知った太平洋艦隊は、ありったけの
戦闘機…七十機のF4Fで迎え撃った。ヨークタウンの戦闘機を率いるサッチ少佐は
トラック島航空戦を生き延びた数少ないパイロットの一人だった。
「いいか、敵の方が多いと入っても半分以上は爆撃機や雷撃機だ。戦闘機はこちらが
多いんだから恐れることなんかない!ただ、ジークはF4Fより機動性がいいようだから
ドッグ・ファイトは避けろ。振り切って爆撃隊にかかればいい…どうしてもジークを
相手にするときは単機ではなくペアで戦うんだぞ」
機上無線のマイクに向かってどなりながら、サッチは『ヨークタウンのパイロットにだけ、
それも口頭の説明だけで実際の訓練もしていない戦法がどこまで実行できるか』という
不安にさいなまれていた。数で押し切るしかないかも…
日本機は上下二段、それぞれ五十機以上の編隊で近づいてくる。
…と、その中の数機が反転して遠ざかっていく。
『敵前逃亡?…んなわけはない…!?」
上段のジークが降下をして襲いかかってくる。視界をよぎる敵機になかば威嚇で機銃を
乱射しながら、フルスロットルでその群れを突き抜けたサッチの眼前で下段の敵編隊が
散開する…それは重い爆弾や魚雷をかかえた航空機の機動ではなかった。
「こ、こいつらは!?」
つづく