第二十九章『レイテ沖海戦…2』
椿がさかんにフィリピンに行ったのは、マルコス大統領とイメルダ夫人がたたき出される
『アキノ革命』の前後だった。マニラでもリゾート地でもM−16を持ったガードマンが
そこら中にいてとても怖かった。
海岸ではもぐりの射撃屋がピストルでもライフルでも撃たないかとしつこく勧めるので、
コルト・ガバメントをワンマガジン撃つことにした。五メートルほど先の空き瓶に
簡単に命中するので『ピストル強盗にあったら絶対に逆らわないでおこう』と思った
ものである。
その際、『統治者…という名のこの強力な拳銃は、今世紀初めごろ新しい支配者に反抗する
君らの祖先に手を焼いたアメリカ軍が、反抗者を一発でしとめるために開発したものだよ』と
言ってみたかったが、そんな英語力は無いので黙って料金を払った。
リゾート地の浜はどこもホテルの占有になっていて、現地の人々はフェンス…というか鉄条網の
向こうの岩場で遊んでいた。中にいるのは白人と、当時は日本人ばかり。ヤシの葉影で飲む
ウエイターに持って来させたサン・ミゲールビールはうまかったが、まだ魔王でなかった
『小日本人』の椿には少しばかり気後れがする情景だった。
平成十年代、彼の地にあふれているかもしれない中華大帝国のプチブル達なら
そんな感慨は抱かない…かな。
フィリピンとマレーの間で哨戒にあたっていた潜水艦『伊−19』と『呂−41」により
相次いで発見が報告されたのは、シンガポールを出撃した英東洋艦隊である。
指揮官はもちろん?サー・親指トム・フィリップス中将。率いるは座乗している旗艦の
戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』、巡洋戦艦『レパルス』、重巡『エクゼター』
駆逐艦四隻。少し後方に空母『インドミタブル』『ハーミス』が軽巡『シェフィールド』と
駆逐艦二隻に守られて付いている。また、前方には米海軍の重巡『ヒューストン』
軽巡『マーブルヘッド』と駆逐艦五隻が進んでおり、一時的にフィリップスの指揮下に
入っていた。
相当な戦力である。この艦隊と正面からやり合って勝てる海軍はそう多くない。米海軍と
…日本海軍だけであろう。
軽巡『デ・ロイテル』以下のオランダ艦隊、オーストラリア海軍の軽巡『パース」を
連れてくるという選択肢もあったがフィリップスは外すことにした。合同訓練をしたことが
ない他国の艦隊との指揮の複雑さ、困難さを考えると、数が増える有利さよりマイナス面が
多いと判断したからだ。米海軍とだって使用する用語などに微妙な違いがあり、いざという場合
迅速な対応ができるか一抹の不安があるのだから…
元々フィリップスは今回の出撃は考えていなかった。日本軍がフィリピンに取りかかって
いる間に、インドにいる艦隊…旧式戦艦のR級が中心だが…を呼び寄せマレーの防衛に
あたるつもりであった。だが、そこに首相直々の命令が届いたのだ。
ドイツとの戦いがアメリカの助力抜きには不可能なことは確かである。しかしチャーチルは
『おんぶにだっこ』ではないことを『元植民地人』に見せようとしたのだろう。
『日本軍を撃滅せよ』ではなく『攻撃を加えよ』という命令の言い回しに、その辺りの
感情が見え隠れしていた。
『一撃離脱しか無いな』…フィリップスは自艦隊の性能と練度の優越を信じてはいた。
同時に、英海軍の直系の優秀な『弟子』である日本海軍の主力と激突して勝てると
思うほど夢想家でもなかった。
二隻の空母に搭載されている三十九機の『フェアリー・ソードフィッシュ』攻撃機によって
レイテ湾にひしめいている日本軍輸送船団に『夜間攻撃』を加えたのち、すみやかに帰投する。
…それでフィリピン救援のために放たれた一矢という、東洋艦隊の役目は果たされるはずだ。
「先ほど傍受した無線は日本潜水艦のものと思われます…発見されましたかな」
ウェールズ艦長、リーチ大佐の言葉にはまだゆとりがあった。
「これだけの規模の艦隊だからね。それに日本人は勤勉と聞く、『タラント』のときの
ようにはいかんだろう」
昨年十一月、イタリアのタラント軍港に対する奇襲攻撃では戦艦三隻を大破着艇に
追い込むという大戦果を挙げていた。日本海軍に真珠湾攻撃のインスピレーションを
与えたのも、このタラント空襲だったといわれる…やらなかったけど…
「日没時にレイテまで四百キロの地点で攻撃隊を発進させよう。気になるのは
日本の空母部隊だが、情報はあるかね?」
「一昨日までフィリピン全土に空襲を繰り返していましたが…おそらく一旦後方へさがって
補給をしているものと思われます」
艦艇、特に駆逐艦は戦闘行動を続けるとすぐ燃料が欠乏する。大艦隊であるほど
その補給には時間がかかるのだ。
「来襲した艦載機の数からすると、日本空母の全力だろう。いまがチャンスだ」
英空母…新鋭の正規空母であるイラストリアス級は、甲板に装甲をほどこした代償に
二万トンを越す大鑑でありながら搭載機が四十機に満たない。
その感覚から言えばフィリップスの判断は妥当なものであった…が。
「小型機が接近中。方位十五、距離八十、高度五千」
レーダー室から報告が入った…『レーダー』はアメリカ軍の用語で、イギリスでは
当初『RDF』と呼ばれていたが、煩雑なのでレーダーに統一しておく。
「シー・ハリケーンを上げます!」
約十分後…
「艦載機か…速いな、ハリケーンがなかなか追いつけんぞ」
東洋艦隊の上空に現れたのは、できたてほやほやの新型機『二式艦上偵察機』である。
六百キロの最高速度はハリケーンとほぼ同等、なかなか追いつけまい。
「敵機は無線を発進しています」
「日本海軍はどれだけ空母を持っているのだ?…ともかく我々は敵の攻撃範囲に入って
いるということだな」
作戦の前提が崩れたいま、今後どう動くか…だが、まずは対空戦闘の準備をしなくては
なるまい…
つづく