第二十四章『思えば遠くに…』
アメリカ合衆国議会はドイツおよび日本に対する宣戦の権限を大統領に与えることを
決議した。
もっとも、ルーズベルトが意図したそれとはやや違ったものであった。
まず、ドイツと日本は同盟を結んでいるわけでもないし、事情も違うのであるから
両国に対する決議はそれぞれ別に行うべきである…という提案が出された。
これは採決の結果7対3で否決され、日独一括での決議が行われたが結果は
賛成多数であったものの、やはり7対3で『満場一致』とはほど遠かった。
さすが市民国家の代表…というべきだろう。もちろんこれは国論の分裂にはつながらない。
いざ戦争が始まれば一個の巨大な機械として動き出すのだろうが…
忸怩たる思いをかみしめながら、それでもルーズベルトは合衆国による正義の戦いと
世界平和建設への決意を語り国民の団結と協力を求めたのである。
日独に対する最後通牒の期限は、日本時間で十二月八日未明…
『お約束通りか…やはり歴史は手強いのう』
総力戦研究所分科会連絡会議、略して『総連』…どこかの政党の支持母体みたいだが…の
席にいる椿は心の中でつぶやいた。『そのとき』まで十二時間を切っている。
御前会議から流れてきた東郷外相、東条陸相達の顔に疲労とともに諦観といった色が
浮かんでいる。海軍の実戦部隊の長である山本五十六連合艦隊司令長官は、すでに日吉の
司令部に詰めっきりである。
「ドイツの電撃的なポーランド侵攻以来、戦争の手順と言いますか…概念が変わったように
思っていましたが、こうしてお互いに最後通牒を突きつけあって開戦を待つことに
なるとは妙な感じすらしますな」
東郷の感想はもっともだろう。いきなりの宣戦布告と同時に攻勢をかけたドイツの優勢を
見ていれば、第一次世界大戦のような時代がかったいまの状況は妙に思える。
さらに、結果がどうなろうとその過程で万単位、いや十万…ことによれば百万単位の
『氏名が未記入の死刑執行状』が効力を発揮するときを『待つだけ』というのは…
「椿さん、我々としてはできるだけのことをしてきたつもりです。助言されたことも
可能な限り応えました。『御使い』の目から見ていかがですかな」
「よくやって頂きましたよ東条さん。マーシャルを手放すなどかなり難しいかなと
思っていましたがね」
「我が軍…日本には『転進』という伝統があります。片々たる領土や面子に
拘ることなく、なにが帝国の利益になるかを考え引くべきときは引く…という
ことです」
はは、日露戦争で旅順要塞攻撃に失敗しかけた乃木希典指揮する第三軍を面子を
つぶすことなく任を解くための方便が『伝統』になっているとは…
「もし米軍が独立国マーシャルに侵攻すれば、彼らの標榜する正義は失われます。
そうしなければ、たとえ英領ギルバード諸島を利用するとしても我が国の勢力圏に
近づくには常に長距離の移動を強いられます。少なくとも短期的には米海軍に
多大な負担を負わせることができますからな」
呉鎮守府長官から軍令部に移り、この会議のメンバーになった豊田副武中将である。
後の連合艦隊司令長官と目される…史実ではその通りになる…彼には山本に
代わって海軍とのパイプ役になってもらおう。史実と違い陸軍が少しはましなことで
極端な『陸軍嫌い』でもなさそうだし…
椿はこれまで助言してきたことに、いくつか補足と確認をした後で早稲田の自宅に
戻り『そのとき』を待つことにした。
世界中の人間が同様にそのときを待っている…といっても、国際情勢という情報に接し
その影響を直接受けるのは、人口比率からいうと十パーセントにも満たないだろうが…
残りの九十パーセントは、その日の食を得ること、生み育てることおよびその準備行為に
精一杯で世界がどうなろうと知ったこっちゃないのである。
忙しくなるであろうこれからに備えて二人の女中、セツとサチにたっぷりとマッサージを
させた椿はこたつで寝酒を飲みながら、いまさらながら妄想にふけっていた。
モスクワでは激烈な市街戦が行われているという…史上まれな寒気の中、帰趨がどうなるか…
結果により、日本がどうすべきか一応の助言はしてあるが…
それより太平洋だ!…静か過ぎはしまいか?
サプライズは無いのか?…妄想戦記的には、かつて明治の日本を震撼させた
グレート・ホワイト・フリートに少尉として乗り組んでいたウイリアム・ブル・ハルゼーが
エンタープライズ以下の空母部隊を率いて東京に迫っているところだが…
対策はとっている。だが予想外、想定外のことが起きるのが戦争であり、歴史という
ものである。それを考えると椿の顔は紅潮し、身体はゾクゾクとしてくる。
いよいよここまで来た…ゾクゾク
平成の世を旅立ってから幾星霜…とまではいかないが、長い時間をかけてここまで来た。
さあ、妄想の限りをつくした戦争が始まるのだ…ゾクゾク
どうも変だと思ったら、風邪を引いたようである…ゾクゾク
七度八分もある…ゾクゾク
そういえば、遠足とか運動会とかいうと、よく熱を出したなあ…ゾクゾク
『想定してしかるべき』事態の内に『そのとき』はやってきた。
つづく
よーうやくここまで来ました。実際では、酒を飲みながら妄想していますとここに至る遥か前に寝てしまいます。次にはまた少し前から初めて、ちょっと進んでは寝ちゃう…ということの繰り返しです。次章から本格的戦記が始まる…のでしょうか?