第二十二章『やめられない、とまらない』
貨客船『対馬丸』はトルコからの帰途、マラッカ海峡で英艦艇から臨検を受けた。
英米艦艇のいやがらせは常態化していたが、日本側の自重でこれまでは大きな問題は
起きていなかった。今回も数時間の浪費で済むはずであったが…
対馬丸の航海長は英語が堪能の上にけんかっ早かった。臨検員の発言に激高した彼は
もみ合いとなって殴打され、その傷がもととなって死亡することになった。
日本の朝野は速やかに、そして激しく反応した。
事件の発端は『ジャップ』という差別発言にある。
英国政府に陳謝と補償、加害者の引き渡しを含む実態の解明を求める。
十日間の期限内にこれが行われない場合、大日本帝国は独自の行動をとるであろう。
日本が大々的に発信した『最後通牒』は、ほぼ同時にアメリカが同様にドイツに対し突きつけた
『Uボートによる米艦艇への攻撃に対する謝罪として、戦争行為の停止および全占領地からの
即時無条件全面撤退』と比べれば可愛いものであった。
アメリカの白い家
「ドイツは米艦艇への攻撃を命じたことはない…と型通りの返答です」
「こちらの要求に応じることはないということだな」
「事実解明のための話し合いを持ちたいと、言ってきておりますが」
「必要なのは言葉ではなく行動である…それも七十二時間以内の…と言ってやれ」
「それにしましても日本はどういうつもりでしょう、本気で英国のみと戦争を
始める気なんでしょうか?」
「思ったよりプロパガンダが巧みですな。人種問題は一種のアキレス腱です…
我が国にとってもですが」
アメリカ合衆国はおそらく地球上に出現した中で、もっとも世界国家に近い存在だ。
だが、残念というか当然というか差別問題とは無縁ではあり得ない。
彼らが国是とする自由と個人の権利にしても、白人のキリスト教徒以外では無いか
制限されたものに留まっている。黒人、メキシカン、カリビアン、アジア系などは
アメリカ国民ではあっても、真の市民ではなかったのである。
もっとも…と椿は思う。完全に差別…定義をどうするかにもよるが…のない平等な
世界なんてあり得るのだろうか。他人と同様にしたいとする反面で、他人との差異に
自己の存在意義を見いだす人間という厄介な生き物において…である。
「欺瞞だという印象を持たせるよう情報を管制しょう。中国民衆を虐殺している
日本にそれを言う資格はない…とな」
「大統領閣下、私見ですが日本は『後回し』でもかまわないのではありませんか?
戦力の集中ということもありますが、ナチスドイツさえつぶしてしまえば、後から
いかようにでも…」
「戦力と同様に国家の意思というものも集中が必要なのだよ。ここぞ!
というときにやってしまわないと、事態はどう転がるかわからないからだ。
それに、日本には二十五パーセントの戦力で充分対処できるという計算が
出ている。極端な戦力の分散にはあたらんと思うがね」
「向こうに最初の一発を撃たせる形にできないのは残念ですが」
「やむを得まい、日本に対しては国務省から最終的な勧告…中国大陸からの撤兵を
うながす…を出して我が国の平和的努力を示しておこう。後は議会対策だ」
…大西洋と太平洋で同じことをしては、いくら何でも露骨すぎるからな…
「失礼します」
急ぎ足で入ってきた国務省のスタッフに、ルーズベルト大統領は既視感を覚えた。
また、何かとんでもなく意外な報告か?…その通りであった。
ハル国務長官が今回は、はっきりと動揺を面に出して言った…
「報告は二つです。ドイツ軍の一部がモスクワ市内に突入しました。駐ソ大使館からは
現在ソビエト政府への連絡は途絶してるといると言ってきています」
もう一つの報告は…
「マーシャル諸島ですが…日本政府との協議と了承の上で共和国として独立を
宣言いたしました。その『ラジオ放送』によりますと同諸島にある日本の資産はすべて
共和国に寄贈され、現在マーシャルにいる日本人は外交官と技術援助のための民間人のみ…
軍隊はすでに撤退した…とあります」
つづく