第十八章『続続続・連合艦隊1941』
第一次世界大戦の直前に『高千穂級』を送り出して、世界を瞠目させた日本の
巡洋艦だが、その後しばらくは主に予算の制約もあり、おとなしくせざるをえなかった。
だが、英海軍のアリシューザ級や米海軍のオマハ級といった新鋭巡洋艦の刺激を受け、
駆逐艦の性能向上が著しいことからも、水雷戦隊の指揮艦として近代的巡洋艦はどうしても
必要であった。
こうして、五千五百トン級と呼ばれる『球磨型』軽巡洋艦五隻が建造された。
十四センチ砲七門、魚雷発射管八門、三十六ノット…は要望を満たしていたが、
防御力や居住性にはかなりの改善が必要であるとされた。
イギリスのように世界に広がる植民地の警備のため…とまではいかないが、
巡洋艦には戦艦の代理という意味を含め、長期間の行動力やプレゼンスといった
ものも求められる。日本近海での迎撃戦用には充分な能力を持つ球磨型だが
第一次世界大戦の結果獲得したマーシャル、カロリンなどの海外領土をそれこそ
『巡洋』するために一段高いレベルの艦が欲しいところである。
しかし、軍縮条約や震災の影響もあり巡洋艦の建造は後へ後へと回された。
とりあえず、『高千穂』『穂高』の装甲巡洋艦二隻を練習巡洋艦に改装して、お茶を
濁すことになった。二十センチ連裝砲四基をとっぱらい、折から新開発された、
十五・五センチ砲三連装砲塔を前後に一基ずつ搭載し、魚雷発射管や高角砲、対空機銃
などの兵装も追加あるいは新しいものに換え、新時代の士官養成にそなえた。
一万トンを越える大型艦なので水上機のカタパルトも余裕で取りつけられ、
居住施設や司令官室などは立派なもので、国際情勢が良かった頃は訓練の他
親善航海にも多用された。
その間に各国では次々に巡洋艦が建造されていた。軍縮条約では各国が保有できる軍艦の
トン数の総枠と戦艦の最大トン数(三万五千トン)、主砲の最大口径(三十八センチ)
および建造期限…1925年まで…が決まっているだけだが、
だからといって補助艦艇のデザインが『自由奔放』になったわけでもない。
二万トンの低速艦に魚雷をどっちゃり積んだり、千トンの船体に一門だけ二十センチ砲を
載せたりしても『使えねえ』艦になることは明らかだから。
多少の試行の後で大同小異のものになっていくが、その小異の部分にそれぞれの国が持つ
事情が反映されて個性になる。大きさ、攻撃力…砲力、雷撃力、防御力、速力
そして航続力や航洋性などの組み合わせで個性が出てくるのだ。
それはおおむね、二つのタイプ…重巡洋艦と軽巡洋艦に収斂していく。
重巡は八千〜一万トンの船体に二十センチ砲を搭載、軽巡は五千〜八千トンで
十五・五センチ未満の砲を装備し雷装を持つことが多い。
米英は制限された戦艦の補助という意味もあり、続々と重巡を建造していく。その数は
条約の期間内でアメリカ海軍が十五隻、イギリス海軍に至っては十八隻にも達した。
そんな中で、日本の新型巡洋艦は『古鷹』からスタートすることになる。
設計者の平賀譲造船中佐は、これまであふれる才能がエキセントリックに流れがちで、
できるだけ小さな船体に強力な武装をほどこすなどという、日本海軍の常道からは
異端とされる設計が多かった。軍艦がその機能を最大限発揮するために必要な乗組員の健康や
福祉といったものを置き忘れていると判断されたのだ。
一部に熱心な信奉者はいたものの、高い評価を得るまでには至らなかった。
それが、年齢とともに成熟したものか、軍縮条約を前にした1923年頃からたて続けに
名作と言ってもいい艦を生み出していく。
古鷹は九千トンの船体に、十五・五センチ砲を三連裝で三基九門を搭載し、三十四ノットを
出した。余裕のある設計で、主要部分の装甲は自艦と同等の砲の命中に充分耐えられると
いうものであった。『加古』『青葉』『衣笠』と同型艦が建造され、用兵側の評価も上々で
平賀の名は海外にも知られるようになった。
二十センチ砲を搭載する…重巡の要望がなかったわけではないが、海軍は軽巡をもって
巡洋艦戦力を統一することにした。理想とする重巡を造るとなると、一万五千トンを越える
大きさになり数を揃えるのが困難とされたからだ。
この頃から巡洋艦の命名基準が山、もしくは川の名前…と幅が広がった。
巡洋戦艦の計画が無くなったことで、山の名が余ることが予想されたためもある。
こうして生まれたのが条約時の日本巡洋艦の決定版といわれた『妙高型』である。
一万一千トン…後に改装され一万三千トン、十五・五センチ砲三連裝を前後に二基ずつ
十二門搭載し、速力は三十五ノットである。
一部分だが二十センチ砲弾にも耐えられるとされた防御力は関係者を狂喜させた。
まず『妙高』『那智』『足柄』『羽黒』の四隻が建造された。
妙高型は好評であったが、司令部機能を持たすにはスペースが若干手狭であった。
そこで艦橋を拡大した『高雄型』…『高雄』『愛宕』『摩耶』『鳥海』が造られる
ことになった。
条約の枠にはまだ少し余裕があったが、ここでひとまず巡洋艦の建造は
打ち止めとされた。多数の空母をかかえた新時代の艦隊編成というものの
模索をしなくてはならない時期に来ていたのだ。
新たな巡洋艦建造に向けて日本海軍の尻を叩いたのは、条約明けというより
想定外の国際情勢の緊迫化であった。ルーズベルト大統領の対日敵視政策と
おそるべき大量建艦計画が否応無しに日本の軍事予算も増大させた。
バルバス・バウを採用した、改妙高型の『最上』『三隈』『熊野』そして
『鈴谷』…樺太にある川の名…が相次いで竣工した。
その他には『司令部巡洋艦』として水上偵察機六機を搭載する『利根』『筑摩』が建造された。
開発が進む電探を初めから装備し、司令部機能をさらに拡充した『大淀』『仁淀』の二艦も
着工している。
特筆すべきは、航空機の脅威にそなえる『阿賀野型防空巡洋艦』十隻の建造計画だ。
七千トンの船体に、連裝高角砲六基十二門を装備した阿賀野型は秋月型直衛艦…後述…と
ともに艦隊防空の要として期待されるが、1941年秋の時点では阿賀野と二番艦『能代』が
竣工間近といった段階である。
いずれにしても、第一次世界大戦以来の地道な造船施設の拡張がなかったら、とてもかなわない
急激な建艦計画ではある。
『航海の安全を祈る』
沖縄西方の東シナ海、訓練をかねて付き添っていた巡洋艦最上が旗流信号を揚げ
駆逐艦とともに遠ざかっていく。客船氷川丸の船上からそれを見送った外務官僚吉田茂は、
そばに立つ長身…百八十五センチはあるだろう…の青年に話しかけた。
「引っ返してくれたか…あんなのに付いていられちゃ、米艦に出会ったとき悶着の
タネだからな」
「後は無事にスペインまで着けることを祈るだけですね。その先、スイスに
たどり着くのも大変でしょうが」
青年…白州次郎が軽く笑いながら答えた。ケンブリッジに留学、元祖カーマニアの
実業家は語学力と日本人らしからぬ交渉力を見込まれ、吉田に引っ張りだされたのだ。
「日米開戦となれば敗戦は必至です。東京の奥…多摩にでも引っ込んで
自分と家族の食う分だけでも畑を耕すつもりでしたがね」
「ふ…この時点で私を国外に出すというのは日本はやる気だよ。
満州の油田は諸刃の刃だ。あの『御使い』にのせられてる感が強い…
君は、あの椿という男をどう思う?」
「ことを楽しんでいる…でしょうか」
さすがに鋭い。その通り! 椿は楽しむために来たのだから…
「わしらを今のうちに欧州へ送り込むというのもあの男の示唆らしい。
交渉の窓口を作っておくというところからして、先が見えないわけじゃなさそうだが」
そういいながら吉田は、少し離れて立っている男達を見た。
商工大臣岸信介の弟であり鉄道省の官僚だった佐藤栄作と、大蔵官僚の池田勇人が
並んでいる。
「戦時中の交渉というより、戦後の処理や再建のためかもしれませんね」
「戦後か…私はいつか特高か憲兵にぶち込まれるのを覚悟していたが、
今は日本全体が見えない檻にぶち込まれているようなものだ。
いつになったら出られることやら…」
氷川丸もまた、別の戦いに向け航海をしていくのであった。
つづく
某NHKの大河ドラマの再放送を見ていたら、武田の武将、板垣信方の討ち死にシーンをやっていました。千葉真一がウンウンりきんで辞世まで詠んでいましたが、ここはどうしても『板垣〜死すとも〜自由(武田でも可)は死せず〜』とやって欲しかったです。