第百二十五章『船中閑あり』
客船『氷川丸』はスエズ運河を航行している。
「帰りもこの船か…ヨーロッパに向かってから三年半、こうした形で
日本に帰れるとは思ってもみなかったよ」
スイスにおける日本外交の代表を担った吉田茂は、さすがに感慨深げである。
そばに立つ秘書の白洲次郎や池田勇人、佐藤栄作といった部下たちにしても同じような
思いであったろう。
「こんどは英海軍の護衛付きですからねえ。もっともインド向けの輸送船団の護衛の
ついででしょうが、隔世の感がありますよ」
日本政府は駐イギリス領事…大使、公使はまだだが…の派遣と交代させる形で吉田たちを
呼び戻したのだ。吉田は帰国と同時に外務大臣に任命されることが内定している。
スイスから南フランスのマルセイユを経ての『脱出行』は安穏としたものではなかったが、
ともかくここまでは無事でこられた。
「この運河は今のところエジプトが実行支配しているはずだが、英国となんらかの取引をして
折り合いがついたようだな」
「戦争が終わるまでは…ですね。アラビア半島のむこうまでソ連軍が侵攻してる状態では
妥協を積み重ねていくしかないでしょう」
「……それで思い出したが、君たちは『シオニズム』という言葉を知っているかね?」
「なにか…ユダヤ人に関係したことだと記憶していますが」
「そう、二千年の昔にローマ帝国によって国を失ったユダヤ民族による祖国再建の
運動だ。この船の左側の陸地が『シナイ半島』で、その先に『パレスティナ』と
よばれる地域がある。『イェルサレム』という彼らの聖地を中心に国を作ろうと
いうんだな」
「二千年の悲願ですか…気持ちはわからんでもありませんが、現にそこに住んでるのは
ユダヤ人ではないのでしょう…彼らにとってはえらく迷惑な話ですね」
「ユダヤ人もおるが、大多数はアラブ人だな。実際に国づくりをしようとすれば
混乱は避けられんだろうがね。イギリスが…前の大戦でユダヤ資本の援助と引き換えに、
建国に支持を与えているんだよ…密約だったが。ところが、同時にアラブ人たちにも
将来の独立の約束を与えて対独戦に協力させていたんだ」
「イギリスの実際的な性質はきらいではありませんが…そこまでやると方便の域を
越えてしまっていますね」
「今度の戦争でも英米にはかなりのユダヤ資本が貢がれたはずだ。まあ、知っての通り
ナチスドイツはユダヤ人を激しく弾圧してる。ドイツ打倒のためには金も出すだろうが、
戦後の国家建設への支持もより強固にしたいんだろう」
「しかし、当分それは実現しそうもないですね。その…パレスティナのすぐそばまで
ソ連軍が迫っているのでは…帝政ロシアの時代からユダヤ人迫害については年期が
入っていますから」
「…たしかにユダヤ人は気の毒だ。けれど、世界には気の毒な民族は山ほどいるからな。
将来もっと情報の伝達が容易になってくると、それまで知られてなかった『気の毒』が
たくさん見つかるだろうね」
「わが国も一歩間違えれば、とても気の毒になっていたかもしれないですよ」
「ああ、わたしは焼け野原の日本の再建のために帰国することを覚悟していた。
思いのほか…というより奇跡に近い形でうまくやったようだ」
「あの『御使い』のおかげもあるんでしょうね」
「うむ、たしかにあの男の助力があったからだろう。日本は中程度の大国として
生き残った…ただし、負わされる責任も大きくなったがね。揺りかごのような
四つの島に引きこもって自分のことだけ考えてればいい…というわけにはいかなく
なってしまったわけだ。たとえこの戦争が終わっても世界にもめ事が絶えるはずはない…
否応なしに日本は引っ張り出され、それに関与していかなくちゃならん…」
「…明治維新で国家が誕生したと考えれば、これまでの日本は少年期だったかも
しれませんね。これからは真の大人として世界と付き合う時期に入っていくと
いうことでしょう」
「状況はそうだ…民族が大人になっているかはさておき…だがな」
「アングロサクソンから見れば『十歳児』ぐらい…かもしれませんね。
いずれにせよ、世の荒波は静まることはなさそうで…」
氷川丸が通ってきた地中海では、この先の国際情勢に大きな火種となりそうな
事態が起こっていた…イタリアの分断である。
ローマの北百キロ付近で戦線は完全に膠着していた。主力を向けられない連合軍は
幾層もにわたる頑強なドイツ軍防御陣地を突破することができず、幅三十キロほどの
無人地帯を挟んで対峙を続けている状態だった。
そうこうしているうちに『イタリア共和国』が独立宣言をしてしまったのだ。
首都はミラノ、首相は…ムッソリーニである。
当然『イタリア王国』がそれを認めるわけはなかったが、実際問題として武力解放が
できるまでは『半島の分断国家』が存在することになる。
イタリアは日本やドイツと同様に近代的中央集権国家への移行が遅くなった。
数多くの王国、公国、都市国家、教会領などがひしめき合い、勢力を争っていたのだ。
明治維新とほぼ同時期にサルジニア王国を中心に統一国家が誕生したのだが、
ドイツの中核となったプロイセンほどの強い求心力はもちえなかった。
そしてここに…一時的かもしれないが…ふたたび分裂という事態を招いたのである。
実は、工業や商業の盛んな北イタリアと農業中心の南イタリアでは二十一世紀でも
経済格差が顕著で対立もある。事態が長引けばどう転がるかわかったものではない。
氷川丸がこれからむかうインド洋も平穏ではない…アラビア海にソ連潜水艦が
出没してるといううわさは…その性能と、日本やイギリスが捉えているソ連海軍の
動向の情報から信憑性は限りなく低いが…
インドはイギリスが提示したかなり具体的な独立へのスケジュールによって、
反英闘争こそ沈静化しつつあるが、代わって内部での権力闘争が激化し始めている。
ガンジーやネルーの国民会議派が主流であるとしても、ヒンズーの支配を嫌う
イスラム教徒による分離独立の動きやセイロンの独立運動が混乱に拍車をかけていた。
イギリスにいわせれば『ほれ見たことか、いわんこっちゃない』というところだが、
『どのような結果であろうと、インドのことはインド国民が責任を負えばよいことである』
…というガンジーの主張の前には遠吠え以上の意味を持たなかった。
マレーやインドネシアから先の東南アジアは日本の影響下で一応の平穏を保っていた…
国境や民族、宗教にからむ国家同士や内部での紛争が表面化するのはまだ少し先に
なるかもしれない。
とりあえずは食うことで手一杯だし、独立国家建設という初めての『遊び』に夢中に
なっている段階だからだ。
吉田茂は英艦の艦長から贈られたハバナ産の葉巻に火をつけると一同に船室に
入るよううながした…そろそろお茶の時間である。
つづく