第十章『少しはまし…ということ』
『総力戦研究所分科会連絡会議』と、よくわからない仮の名称がつけられた会合に出席
するため、差し回しの車に乗った椿の横には秘書役の高倉青年が、前の助手席には
自前のSPである護衛小隊の大山中尉が私服で座っている。中尉は格闘技の達人という
設定で『おろちどっぽ』ぐらい強い。この名前に心当たりのない人は別に調べる必要は
ないけれど、とにかくすっごく強いのである。
今回の護衛小隊は、こうした格闘技以外にも炊事や縫製のスペシャリストを含む
五十人の精鋭である。四年分の俸給、被服、食費込みで使用ポイントは百三十万…
残りは…九百九十九億九千八百六十八万九千五百ポイント
車列は三台で、先頭の車には案内役の本間が、後尾のにはいずれも大山並の力をもつ
下士官が三人乗っている。なにしろ物騒な時代なのだ…前の明治時代の方がよほどのんきで
時代感覚は『平成』に近かったかもしれない。
これまで知った限りでは、この世界の大日本帝国は史実のそれより政治、経済、軍事
いずれの面でも『少しましな』状態にある。中国大陸での泥沼の戦争はしておらず、
底上げされている技術基盤と樺太の石油が地道だが堅実な経済成長を支えている。
第二次世界大戦の勃発により中止されたが、1940年に開催予定だった
東京オリンピックの準備は史実よりずっと進んでおり、道路を中心に首都圏のインフラ整備も
かなりなものになっている。『弾丸列車鉄道』…新幹線の計画も具体化し、まず東京と副都の
筑波を結ぶ路線が着工してたりする。考えようによってはすごく変わってるともいえるが、
それらの見かけの変化は、この国が穏やかでお金持ちで平和主義の民主国家になってると
いう意味では全然ないのだ。
銃と人斬り包丁を持った軍人は幅を利かせており、憲兵や特別高等警察は市民に
監視の目を光らせている。福祉にまわす金より軍事予算の方が多く、小作農は貧困に喘いでいて
不作が続けば娘を売ることも珍しくはないのだ。政治家が財閥や特権階級と癒着してないとは
お世辞にもいえない…この辺は別にこの時代に限ったこっちゃないが。
ただ、この少しまし…というのが未来を大きく左右する場面もたくさんある。
極端な話、一円の金が足りなくて不渡りを出せば会社は倒産する。一円の重みが
国家とその国民の運命を違ったものにする可能性は決して小さくない。
史実の昭和二十年までの日本人がすべて侵略思想に染め上げられていたとはいえないし、
同時に、一部の軍部や扇動者達に引きずられてしまった犠牲者だともいえないだろう。
国家でも一個人でも進む道の選択は微妙なバランスの上にある…民主国家だって
つまるところは51対49で運命は変わるのだから。
どの世界でも、自分たちだけが正しいと信じきって、阻害するものを力ずくで排除しようと
する者達はいる。いない方がおかしいので…百人が百人とも同じ思考を持ってるなんて
ことは、強制の上の見せかけでなければ、とても不自然で気持ち悪い。
また、大小によらず組織ある所に派閥ありであり、ときには外敵よりそちらの方が
厄介だったりする。抗争に敗れた、あるいは不利な派閥に属する者が
『自分にとって益のないものならば、いっそ滅びた方がよい』などと考えるのも
少し歴史を知ると事例が山ほど出てくる。その際自分たちの行動を抽象的な美辞麗句で
飾るのも、どーしてそんなに簡単なの?…と言いたくなるほど共通である。
そうした陸海軍の不満分子やそれと結びついた政治、経済界のある部分が行動を
起こしたこともある。首相の犬養毅は海軍将校によって暗殺された…が、その後の強烈な
粛軍と『少しましな日本』が彼らの行動を否定し、同調者を減らした。
椿が知ってる…母親も巻き込まれた…2.26事件と呼ばれるクーデター(未遂)は
この世界では起きなかった。陸軍軍務局長の永田鉄山は相沢三郎中佐の兇刃を間一髪で
かわし、顔に傷こそ残ったが次期陸相候補として健在である。
椿の乗った車はそうした日本の夜道を走っている。
『御使い』が必ずしも歓迎されるとは限らない…そのためのSPである。
なにかがあって、それが怒りのツボを刺激すればミッションは後回しにしといて、
日本(の一部?)を敵に回して能力ポイントを使うことだってありうるのだ。
椿はそちらの方向の妄想に燃えた時期があって、正直いって今回の設定でも
迷ったのだが…『日本征服』のあとで、やっぱり『対米戦』ということになると
『なじみのない世界度』が高くなりそうなので却下した。
窓の外は、明治時代よりは灯りの数も増えたけれど平成とは比べ物にならない暗い道…
「銀座のネオンはきれいだそうですね」
隣りの高倉青年の若い声がうらやましくもある。
この時代の盛り場と言って思いつくのは銀座か浅草ぐらいしかない。
(少なくとも秋葉原にメイドカフェがないことだけは確かだし)
落ち着いたら遊びにいくのも悪くないか…銀座のカフェの女給さんに会いに。
もしかすると数年後にはネオンの代わりに、炎がこの東京の夜空を染めることになるかも
知れないからその前に…
車は広い敷地を持つ料亭に入っていった。
つづく