第百八章『虎が奔る』
「生温い風が吹いていますねえ…父親がよく言っていましたが、こんな夜には
天変地異が起こることがあるから注意しろ…って」
女中のサチが、椿の腰を揉む手をふと休めると、縁側の向こうの暗い庭に目をやりながら
言った。
昔の日本家屋を知らない人のために説明しておくと…当時の一軒家の造りはこう…
畳敷きの部屋の外側に『縁側』とよばれる板敷きの通路が通っている。
お年寄りが猫とひなたぼっこをする場所だ。
部屋と縁側を仕切るのは木の骨組みに紙を貼った『障子』である。
縁側と外との間には『ガラス戸』および『雨戸』があり、その外側に張り出した
『濡れ縁』がある。
昔の中流以上の家はスペースを贅沢に使っていたものだよなあ。
それはともかく、三月中旬とは思えない…桜が散ってしまった頃のような
『ぬる〜い』風が吹き込んでくる。
「ああ、それは私の親もよく言っていた…人間も自然の中に生きてるわけだから
『常ならぬ』状況には何かを感じるということかもしれないな」
腰にあたるサチの指先が熱く感じる。セツが休みをとっているので、今夜はサチだけで
無意味にでかい椿の体をマッサージしてるのだ。熱が出るほど大変なのかも…
「…サチもそろそろ縁談が来ておかしくないなあ…って、こりゃセクハラか?」
「せくは……??」
「あ、いや…はやく私の世話から解放してあげたいけど、戦争が終わらないとね…」
「閣下のお世話をするのは全然苦じゃありません。色々と刺激的ですし…
まだ嫁に行きたくなんかありません。それとも閣下の方でわたくしを『解放』
したいんですか?」
「んぐっ(ツボを強く押された)…いや〜、そんなことはまったくないんだが
親ごさんたちが心配しはじめる頃じゃないかと思ってね」
「お気遣いは無用ですわ。もちろん父なども閣下の詳しいことは教えられていませんが、
お国にとってとても大事な方ということぐらいは知っているようです。わたくしが
お仕えしてるのを誇りに思っているでしょう。それに…」
「…ん?」
「この前のお休みに帰ったとき、マッサージをしてあげたら涙を流して喜びました』
「お父さんもお疲れか…たしか東京都のお役人だったね」
これは史実通り、43年七月に東京府と東京市が廃止され『都』になっている。
「はい、いつ帰っても『いそがしい、いそがし〜』って、もっともこれは昔からの
口癖ですけれど…」
…などと、ぬるい会話をしているところに別室で鳴る電話のベルが聞こえてきた。
ややあって、遠藤中尉がふすま越しに声をかける。
「朝鮮とソ連の国境で大規模な衝突が起きたという報告です。至急総連の方へ
おこしくださいと…」
「……サチ、昔ながらの言い伝えも馬鹿にできないねえ」
総連会議室…
「韓国軍からの連絡によりますと…『張鼓峰』の付近で越境していたソ連軍と遭遇、
発砲を受けたので反撃した…と」
「武装強盗団…ではないのかね?」
「それが、まだはっきりしませんで…衝突時は現地は夕刻でしたし、視認が困難だったかと」
「衝突の規模が大きくなったのはなぜかな」
「しばらく前から、かなりの数の『強盗団』出没の情報がありまして…
警備隊だけでは不安ということで『虎』の一部が近くに移動してたようです」
「…『虎』が!? う〜ん、奴さんたち張り切りすぎなけりゃいいんだが」
「ウラジオから百キロほどですからね…ソ連大使への連絡は?」
「つきましたが、事実確認をするとだけで、その後はまだ…」
朝鮮…大韓帝国とソ連の国境は、大きく張り出している満州と日本海にはさまれた
三十キロほどの長さしかない。
史実では1938年、ノモンハン事件の半年ほど前に張鼓峰をめぐって日本軍と
ソ連軍の衝突が起こっている。もちろんこの世界ではなかったことだが…
大韓帝国の軍備には以前も触れたが、北…対ソ連をにらんだ陸軍が中心である。
歩兵師団が七個、内二個が自動車化されている。
装備は、小銃が三八式からライセンス生産の九十式に更新途上といったところで、
重火器はやや旧式化した日本製のものを格安で購入していた。
戦車連隊が二つあり、やはり旧式の日本戦車八九式を装備していたが、ここにきて
日本が一式に更新した分の九六式改が回ってきている。
航空隊は九六式戦闘機をはじめ、地上襲撃機や偵察機など日本陸軍のものである。
これも一部で『隼』の導入が始まっていた。
海軍は水雷艇、駆潜艇を自前で造っているが、沿岸航路防衛用の域を出ていない。
日本海軍まかせ…ということだ。
共同作戦をとる必要上、日本陸軍では士官学校、陸軍大学への留学生を受け入れており
将校はほぼ日本語を話せる。
日本側でも英語をはじめ朝鮮語、中国語をマスターすることが
昇進に有利なシステムになっているので、満州東部に配置されてる部隊では
かなりの数の将校、下士官が朝鮮語を理解する。
留学生はライバル意識もあるのか成績優秀者が多く、彼らは帰国後は精鋭部隊である
大韓帝国第一師団…通称『虎師団』に配属されることが多かった。
『平和的民族』と自称することもある、かの国民だが勇猛でないとは、けっしていえない。
史実のベトナム戦争での、韓国軍の戦いぶりがそれを証明している。
戦争前の日韓合同演習での『虎』の勇猛さは、日本側を驚かせるとともに喜ばせた。
『沿海州方面はまかせられる…したがって日本の負担が軽くなる』からである。
だが、ここでは勢いにまかせて戦火を拡大してもらっては困る。
日韓安全保障条約では大韓帝国…以下、韓国…が戦争状態になったときは日本の参戦が
義務づけられている…その逆はない片務条約である。
もちろん事前の協議が必要であり、共同作戦をとる場合は日本側に最高指揮権が
ゆだねられることになっている。
国境紛争など突発的な武力衝突では、韓国軍に判断がまかされてはいるが…
「駐ソ大使からは?」
「それが、こちらからの問い合わせを確認した後、連絡が来ておりません」
「………」
「椿閣下、どう思われます?」
「ほかの…ソ満国境での動きはどうなんです?」
「警報は出しましたが、ソ連側の大きな動きは報告がありません」
「ふう…いくつか可能性が考えられますが、いずれにせよ不可解な点が多いですね」
「…といいますと?」
「あ、韓国大使館から連絡が入りました! …『虎』はソ連軍を撃破、国境線の
向こうまで追撃したあと、捕虜を連れて韓国領に戻りつつあるとのことです」
「ソ連軍の逆襲は?」
「…報告されていませんが」
「ん〜、微妙ですね。韓ソ戦争の勃発による日ソ開戦というシナリオが
書かれてるかとも思いましたが、それにしてはどうも…」
「そんな…シナリオをだれが書くと…」
「ああ、それはもちろん米英ということですが…ともかく、警戒態勢でもう少し情報が
集まるのを待つしかないようです」
情報が集まるまで、少し余談を…
平成の世でなにかと問題になる『竹島』だが、この世界では日韓の国境策定で
しっかり日本の領土になっている。
椿は政府に竹島のアシカ猟の全面禁止および保護を了承させている。
あそこは史実で絶滅した『ニホンアシカ』が最後…1975年に目撃された場所である。
50年代には『数百頭』が棲息していたというから、いま(40年代)から絶滅の
原因である乱獲を禁止すればなんとかなるかもしれない。
絶滅危惧種…いわゆるレッド・データでは絶滅種に入っていないが、単に最終目撃から
五十年が経過していないというだけである。
椿は『トキ』や『コウノトリ』『アホウドリ』についても同様の助言をした…別に野生動物に
特別の思い入れがあるわけではない。
ただ、完全に『手遅れ』になってしまってから、自己満足のための大騒ぎでむだに税金を
使われたりすることに『むかついていた』からである。
『御使い』の一言が効くのなら、言っておいてもよかろう…ということ。
つづく