第百一章『我は百万ありとても』
1943年の秋…樺太およびその周辺に漂着したソ連のボート・ピープルは
二千人近くまで増えた。ボロ船が途中で沈んで行方不明になった者もかなり
いたらしいが詳細はつかめていない。
ソ連当局に逮捕されたり、射殺された者がどれほどいたのかは当然わからない。
その他、ソ満国境を越えた『武装強盗団』三百人あまりが、警備隊に集団で
投降して逮捕されていた。
難民と強盗団は、密入国あるいは国境侵犯の容疑で収容所に入れられた。
ソ連からの引き渡し要求に対し、日中両国…満州は中国領…は、取り調べと
処分が決定するまでは応じられないと返答した。逆に再発防止を要求したが
返答は…なかった。
収容された彼らは、ほとんどが四十歳以上の中年や老人で若者はいない。例外は幼児と
その母親が数組といったところである。
『若者』は軍隊にとられてることもあるだろうし、ロシア革命以降にものごころが
ついて、共産主義教育にどっぷり浸かって成長した世代はまだまだ忠誠心が厚いと
いうことだろうか。
収容所で最初の食事…白パンと肉入りのシチュー…を与えられた彼らは、一様に涙を
流さんばかりに喜び、ソ連側に引き渡さないよう懇願したという。
東京…
「謀略とかスパイ…といった感じではなさそうですね」
「ロシアの人民は歴史的に見て、困苦には慣れていて我慢強いはずですが…限界を超えつつ
あるということでしょうか」
「ドイツの侵攻が第一の原因だとしても、ソ連が宣伝してきた『労働者の天国』が虚偽で
あったことが実証されましたね」
「喜んでばかりもいられませんよ。これくらいの人数ならなんとかなりますが、
椿閣下の言われるように、数十万…百万といった数になったら大混乱になりかねません」
「確かに…ソ連との関係も決定的に悪化するでしょうし…」
「それをいえば…アメリカが『難民』の受け入れを検討する用意があると言ってきたのには
少々驚きました。それこそ米ソの関係悪化につながると思うのですが…椿閣下、そのあたりは
どうなんでしょうか?」
合衆国はオーストラリアの在日臨時公使館…日豪の停戦により双方に臨時公使がおかれた…に
樺太の難民の調査を依頼した。日本もそれを許可し、難民と認定されればオーストラリア経由で
合衆国への亡命が実現する可能性が出て来た。
収容所での生活や、医療が良かっためか日本に残りたがる者もかなりいるようだが…
「米ソの関係で言えば、アメリカが強い立場ですからね…多くの枢軸軍を引きつけている
ことの価値は認めるにしても、必要以上の遠慮はしないかもしれません。戦争の体制が
整ってきたいま、アメリカはたとえ自分一国だけでも対枢軸戦に勝利する自信を持ち始めて
いるかもしれないのです。それと……」
「それと…?」
「アメリカ国内の共産主義に対する見方が変わってきてる感じもします」
戦前のアメリカ政府、とくに外交を担当する国務省を中心に共産主義にシンパシーを感じる者が
相当の数いたとされる。
別にソ連共産党の手先とかいう意味ではなく、大恐慌の傷跡が癒えず貧困にあえぐ国民も
多い合衆国において、理想主義的な官僚の中には共産主義、社会主義的政策で国家を
立て直そうという動きがあったということだ。
だが、彼らの真情とは別に国家は、とくに外交は大きな影響を受けた。
顕著な例が中国問題である…前にも述べたように中国共産党を圧迫する国民党政府と
日本に合衆国が向けた険しい顔はその方面から見るとわかりやすい。
ルーズベルト大統領のニューディール政策自体も、資本主義とは相容れないような
国家主導の大規模公共事業が中心であったから、政府部内に彼ら共産ロビーが活動する
素地があったともいえる。
これにアジア市場を支配するという目的も加わったのだから、対日政策に妥協の余地は
なかった。
『英雄』マッカーサーの反共演説がどこまで力があったかはわからないが…
「アメリカの指導層の中には『次の敵』を模索する動きが出て来てるのかも
しれませんね」
「次の…? 枢軸国や、わが日本の次という意味ですか?」
「ええ、人工の国家ともいえる合衆国は国家としてのまとまりを保つために、常に大きな
目標か敵を求める傾向があります。対枢軸の次は対共産主義…その次は対イスラム教の
十字軍なんてことまで考えているかもしれませんよ」
「…では、仮に独ソ同盟なんてことになってもかまわないと…」
「1941年では困ったと思いますがね。ですが、参戦して二年…本格化した軍需生産は
イギリスと二国だけで、他の全世界を相手取っても勝算があるというところまできたと
いうことでしょう。これがホラでもハッタリでもないのが困りものなんですが…」
「わが国は…日本はその怪物国家を敵にしてるわけなんですな」
「オーストラリアを介してでも対話ができるようになっただけ救いがありますが、
その代わり対ソ連の警戒を強める必要が出て来ましたね」
「陸軍は戦時動員の師団がようやく揃いました。訓練期間もそれなりにとれましたので
何とか使い物になると思います。満州と北海道…樺太の戦力はいそぎ増強します」
「これで歩兵師団が総計四十五個…九十万ですか…頑張りましたね」
「砲兵旅団や機甲師団、航空隊を合わせても百万ちょいですから…独ソ戦の規模などを聞くと
心細いですが、わが国としてはこれが精一杯です」
中国との戦争をしていないこの世界の日本は、陸軍の規模…人数はそれほど大きくはない。
日露戦争からの推移をざっと見ていくと…
三十数年前の日露戦争を常設十三個師団、二十万人で始めた日本陸軍は戦時動員で
二十個師団にまでふくれあがったが、戦後ロシアとの緊張が緩むと十三に戻った。
常設師団を増やそうという一部幹部の動きを日露戦の英雄、児玉源太郎がおさえたのは
前に述べた通りである。
国力が増したこともあって予算はそれなりにとれたので、砲や機関銃などの装備や弾薬の
備蓄に困ることはなかった。将兵の給与や待遇も史実と比べれば少しましだった…これは
軍の暴走をおさえるのに力があったと分析されている。
第一次世界大戦の影響で師団数は十八に増えたが、これは人数の増加を意味しない。
それまで四個連隊で一個師団を構成していたものを、三個連隊基幹に変更して師団数を
増やしたのだ。
大戦後の軍縮時代は師団数はそのままで、兵員の数を減らした。ただし下士官や下級将校と
いった実戦での戦闘力の中核となる人員は減らさず、むしろ若干増やした。
これにより、いざという場合は増加した兵員の訓練期間だけで戦力を強化することが
できるというわけだ。
三十年代に入り国際情勢がきな臭さを増す中で、五個常設師団が順次増やされる…
それが可能な国力がついたということだ。
他にも戦車を中核とする機甲師団や砲兵旅団、航空隊も新設や増強がなされてきた。
歩兵師団も移動に自動車を使用するようになり、満州の五個と北海道の二個、九州の三個師団は
完全に自動車化された。その他の師団にもかなりの数の車両が配備されている…ノモンハンで
ソ連陸軍とそれなりに戦えたのは、こういった装備の充実が大きいだろう。
ノモンハン事件と欧州大戦の勃発により、日本も軍備の一層の増強を迫られることになる。
まず三十個への増強計画が立てられ、日米関係の悪化を受け四十五個師団へと修正された。
徴兵制による豊富な予備役と、前述の下級指揮官の充実がこのはなれわざを実現させた。
国民皆兵制度のもと、健康な日本成人男子は二年間の兵役を義務づけられている。
二年後には一部の職業軍人になる道を選んだもの以外は一般社会に戻るわけだが、
彼らはいざという場合に予備役として動員され、戦力増強に充てられることになる。
体もなまっているし、家族…妻や子を持つ者も多いことから精神的にも現役の兵士と比べて
戦闘力は落ちるが、新装備の訓練などを経た後はそれなりの戦力として期待できる。
銃剣突撃はできなくても…この世界の日本軍はほとんどしないが…機関銃の引き金を引いて
弾をばらまくことはできる。
史実の太平洋戦争ではのべ三百万の兵士が動員されたというが、その内の百万は中国戦線に
縛り付けられていたのだ。この世界にはその戦線は…ない。
さらなる動員計画もあるが、軍需に限らず生産力が落ちてはなんにもならないので
慎重に進められている。各生産現場でのベテラン…熟練工とよばれる者たちは招集から
外すよう指示が出されていた。
工業製品の品質を維持するには彼らが必要なことはこの世界では絶対的な常識となっている。
しろうとや女子学生を動員して作らせても、似て非なる劣悪な製品しかできないのだ。
開戦二年目の43年、各種生産はそこそこの品質水準を保ったままピークを迎えた。
配慮はしても、動員の影響は皆無ではない…来年からは緩やかであっても下降線をたどる
ことが予想されている。
少しはましだけど貧乏国に変わりない日本は、あるだけのもの…と魔王艦隊で戦っていかなければ
ならない。
インドネシア独立(準備)政府のたからかな宣言が出されたのは大晦日のことであった。
つづく