壱ノ参
御大、何してんですか回。
真昼の綺麗なお屋敷での生活が始まって、すでに一月が経とうとしていた。
真昼はいつものように、朝食に出された白い米粒をゆっくり咀嚼しながらそっとため息をつく。
小鳥の愛らしい囀りで目覚め、食べたこともないような美味しい食事をし、やわらかい布団にくるまれながら眠る。真昼が一日のうちですることと言ったらそれくらいで、後は一日中ぼうっとしているしかすることがない。時折、小さな瓶に『こんぺいとう』を詰め込んで伊青がやって来るのだが忙しいのか、一言二言、言葉を交わすだけでまたあの明るい笑みを見せ去って行ってしまう。あれから一度だけ青蘭が嫌悪の表情を隠そうともせずに着物を持ってきたが、それ以来青蘭が顔を見せることもない。――満月みたいな瞳をもつ、あのヒト離れした綺麗なひとが真昼のもとを訪ねてきたことは、一度もない。
伊青以外誰も訪ねてこないのはともかくとして、『なにもしなくていい』というのは真昼にとって未知のことであった。あの冷たい場所にいたときは、ただ檻に入れられていただけとはいえ、真昼は『主人』を怒らせないよう細心の注意を払っていたし、真昼には『主人の命に従う』という仕事があった。しかし、ここでは真昼に命令をする人も、失敗した真昼を殴る人もいない。本当に何もすることがないのだ。せめて自分の着るものや食べるものの準備くらいはしようと思うのだが、朝起きれば新しい着物が用意され、食事も決まった時間になると音もなく『彼女たち』がやって来て準備を済ませてしまう。そこに真昼が手を出す余地はなかった。
日に三度の食事を運んでくるのは、白い小袖に緋袴を着たのっぺらぼうたちだった。目も鼻も口も、おそらく耳もないであろう彼女たちは初めのうちこそ真昼を怯えさせたが決まった時間に食事を持ってやって来て、真昼が食べ終わるのを部屋の隅でじっと待ち、食べ終わったら膳を下げるだけで、真昼の存在に気付いてすらいないとわかるとその恐怖も薄まった。彼女たちが異形なのか、はたまた顔を盗られたひとなのかはわからなかったが、カラクリのように仕事をこなすだけなので真昼には関わりようがなかった。
今日も今日とて、彼女たちは膳を真昼の前に並べ、いつものように部屋の片隅で息もなくたたずむ。しばらくの間部屋の片隅から動かないことを確認してから、真昼は目の前の膳に意識を戻した。
小鉢にぽつんと置かれた赤いものを見つめ、真昼はごくんと唾を飲む。ふにゃりとしていて、びっくりするほど酸っぱいそれが真昼はあまり得意ではない。けれど、毎日のようにのっぺらぼうはその赤が乗った小鉢を持ってやって来るのだ。それはいらない、と伝えようにも耳のない彼女たちに真昼の言葉は届かない。ならば、残してはどうかとも思ったのだがそれも無理だと諦めていた。
初めのうちは、あまりの量に食べきれず膳の半分以上を残したことがあったのだが、真昼が箸を置くのを見るなり部屋の隅にいたはずの彼女たちがずらりと真昼を取り囲んだのである。半ばパニックになりながら、再び箸を持つと彼女たちはするりと元の位置に戻る。膳のものを全て食べない限りのっぺらぼうたちが立ち去らないことに気付き、真昼は時間をかけてでも膳を空にすることに努めた。つまり、どれだけ苦手であってもこの赤を残している限りはあののっぺりした白い顔たちは真昼を取り囲んで動かなくなるわけで、真昼は毎日この赤をちびちびとお茶で流し込みながら食べるしかなかった。
「真昼! 起きてるかー?」
たたたっという軽い足音と共に開け放たれた襖の先に立つのはいつものように小さな瓶をからから揺らす伊青である。掃除の途中で抜け出してきたのか、たすき掛けをぺっぺっと雑に解きながら伊青はもそもそと食事を続ける真昼を呆れ顔で覗き込んだ。
「なんだ、おまえまだ食ってんのか」
「わたしには、すこしおおくて……」
口の中に残る米粒をこくんと飲み込んで、真昼は困ったように眉を下げた。
「多いって、おまえ食わねぇからそんな細っこいんだぞ」
わしゃわしゃと真昼を頭を掻き撫でながらも、伊青はひょいと小鉢に盛り付けられた青菜のおひたしを口に放り込む。お、うまいなと笑う伊青に良ければどうぞと真昼は小鉢を差し出す。
細っこい、細っこいと言われ続けている真昼だが、ここに来て一か月で随分肉がついた。骨と皮ばかりだったからだが最近ほんの少しではあるけれどやわらかさが見えてきた。ただ、問題は足に繋がれた枷だった。今まできついと感じたことがなかった足首の枷が最近ほんの少し痛い。幼い頃からさして大きさも変わらずにつけられていた枷が、真昼の成長に合わせて大きくなるわけもなく。これ以上太くなってしまえば、枷が足に食い込んで更に痛みは増すだろう。やはり、自らの足のために何かしなければならない、と真昼は意を決して口を開いた。
「……なにか、することはないですか」
「うん?」
遠慮なくひょいとおひたしを口に放り込んでいた伊青は真昼からの珍しい言葉にこてりと首を傾げた。
伊青から見た真昼は、それはそれは大人しい少女で、吹けば消えそうだと半ば本気で思っている。伊青の知る『少女』という生き物はみな一様に姦しくて、伊青の言うことなど聞きやしない。あいつらの方が数倍強いくせに、こちらが何かしかけるとすぐにやれ弱い者いじめだ、やれ卑怯だと騒ぎたてるのだ。けれど、真昼は年頃の娘の賑やかさもなく、伊青の言うことに一つ一つ頷く内気な少女だった。そんな真昼が自ら何かを主張するなんて珍しい。伊青は水色の瞳をぱしぱしさせて、今度は反対側に首を傾けた。
「仕事をしたいのか?」
「……しごと」
「あー、働きたいんだよな?」
「はたらく……、はい」
あまりに語彙が乏しい真昼のために言い換えてやると、やはりいつものように噛みしめるように繰り返してから真昼はこくりと頷いた。
「そりゃ暇だよなー。この部屋なんもねぇし」
ぐるりと見回すが、真昼が寝起きしている布団があるだけで本当にこの部屋には何もない。これだけ広いのだから何か暇を紛らわせるものでも置いてやればいいのにと思うが、ひとを毛嫌いしている兄者が真昼のためになにかを揃えるはずがないし、気まぐれな御大がこの少女のことをちらりとでも記憶に留めているとも思えなかった。
御大が怪しげな店で『何か』を買ってくるのはなにも珍しいことではない。犬に猫に、果てには狐と蛇を掛け合わせたようなおかしな生き物まで、様々なものを買ってきては屋敷に放すが、御大がそれらの存在を次の月が昇るまで覚えていた試しがない。毎回、忘れ去られたそれらの面倒を見るのは青蘭や伊青の仕事だった。
今回のようにひとの娘を買ってきたのはさすがに初めてだが、この様子ではいつものような気まぐれで買われたのだろう。この一月、放置されていたことから考えても御大がこの小さな少女のことを覚えているとは思えない。
「紅緒に言えば仕事くらいくれると思うけど……でもなあ、一応御大のもんだしな、おまえ」
いつものように犬や猫なら屋敷に放しておけばどうにでもなるが、厄介なのは今回の商品がひとであることだった。ずっと部屋の中に閉じ込めているのも可哀想だが、いかんせん御大が買ってきたということは真昼は御大の所有物なのである。御大の許可がなければ部屋から出すこともかなわない。聞けばこの部屋を与えたのは御大だと言うし、ますますこの部屋から伊青の一存で出すことは難しい。となると、御大に真昼が直接掛け合うのが一番なのだが、御大がこの少女のことを忘れてしまっているとしたら、御大の前に出た途端首を刈られかねない。何の気まぐれかひとの娘を買ってはきたけれど、御大は基本的にひとというものを好いていないのだ。突然目の前にひとが現れたら、どう考えても普段の御大なら首を刎ねてしまうだろう。しかし、伊青は突然できた妹のようなこの少女をみすみす殺しにやるのは気が引けた。
「一応、兄者に頼んでみるけど……あんま期待すんなよ?」
唯一、御大に無事話が通るだろうと思われるのは兄者を通して話を持ち掛けることだが、なにせあのひと嫌いがひとのために動くとも思えない。一応掛け合ってはみるけれど、と表情を曇らせた伊青に真昼はぱちりとゆっくりとまばたきをしてから頷いた。
「はい。ありがとう、ございます」
ぎこちなく頭を下げる妹分に、伊青は気にすんなと明るい笑みを浮かべた。
――――――
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その日の夜。今日も今日とてすることもなく、夕餉の時間を迎えた。こんこんこん、と規則正しいノックの後にのっぺらぼうたちが音もなく膳を持ってやって来た。ことり、と真昼の目の前に置かれたのは白いご飯に焼き魚、油揚げと白菜の味噌汁、カボチャの煮つけと山菜の塩漬け。そして、また小鉢にぽつりとおかれた赤いもの。じとりとその赤に視線を当てながら、真昼は茶碗に手を伸ばす。
真昼はここに来て初めてお米が甘いということを知った。今まで食べていたのは黄色っぽいぼそぼそしたお米で、このお米を食べているとそれがいかに美味しくなかったかということに気付く。魚を丸々一尾食べたのも初めてだったし、こんなにおかずの並んだ膳を見るのも初めてだった。やはり、真昼には少し量が多いのだけれど。
朝と同じように酸っぱい赤色と格闘しようと箸をのばしたときのことだった。ふわり、と嗅いだことのある甘いにおいが真昼の鼻をくすぐる。
「……まだ食事中だったか」
慌てて箸を置こうとしてのっぺらぼうの存在に気付き、慌てふためきながら箸を握りしめ振り返った真昼にそう告げたのは、満月の瞳を持つあの綺麗なひとだった。
わたしに、そんざいいぎをください。