壱ノ弐
「まったく御大も何を考えておられるのやら。ひとの娘に名を与えるなど」
ぶつくさと文句を言いながらずいずいと廊下を進む青蘭の背を真昼は必死で追いかける。青蘭に歩調を緩めようなどという気は少しもないらしく、ぱたぱたと軽い音を立てながら追いかける真昼を振り返る素振りも見せない。ただ足の鎖が床に当たってがちゃがちゃと鳴るととても冷たい視線を送られるから、長い鎖は手に持って歩いていた。ぽたぽたと真昼の後を追うように滴る水も気に食わないようだったが、そればかりはどうしようもなく真昼はひんやりと気持ち悪い着物の裾をできるだけ揺らさないようにという無駄な努力をする羽目になった。先ほど御大に被せられた手拭いは頭の上に置かれたまま、真昼の視界を遮っている。
「その上、奥の間に部屋を与えるなど、ほんとうに御大は何を考えているのやら」
永遠と同じ文句を吐き続ける青蘭の背をぼんやりと見つめ、真昼はこてりと首を傾げた。
目の前を歩く青蘭もまた、とても綺麗なひとだ。目につく水色の髪は長く、一つに束ねられたそれは右肩に流されている。すらりとした背に深い青色をした袴がよく似合っていた。こちらを睨む瞳は更に深い青色で、あまりあたたかみを感じさせない。細面の顔にはただ真昼に対する苛立ちだけが浮かんでいたが、それも真昼の知るものに比べれば大きなものではない。
踏むときしきし鳴る廊下は板張りで、素通りする襖はいくつもありその全てに綺麗な絵が描かれている。ほとんど人通りはないのに行燈には火が灯されており、廊下には埃一つ落ちていない。どこもかしこも人の手が、それも多くの人の手が入っていることが窺える。
綺麗なひとに、綺麗な廊下。あたたかな光に、冷たくない床。ぜんぶ、ぜんぶ、真昼の知らないものばかり。
「……聞いているのですか、あなた」
ぼうと意識を飛ばす真昼に冷たい叱責が飛ぶ。はっと前を歩く背中を見上げれば、真っ青な瞳が横目にこちらを睨んでいた。びくりと体を固まらせる。
「ごめ、なさ……」
「謝るくらいならもっとしっかりなさい。本当に理解できないことですが、御大が貴女をお選びになったのですから」
殴られるかと身を固めたのにその様子はない。びくびくと自分を見上げる真昼はそのままに、青嵐ははあとため息をつき、一番奥、一際豪奢な襖を開けた。
「部屋はここでいいでしょう。あとは……着物でしたか。紅緒に用意させなければ」
ぶつぶつと言いながら歩いていき、ばっと奥の障子を開け放つ。そのまま庭に降りれるようになっているらしく、外では夜風に揺られて松やら先ほどの部屋にもあった枯れ木やらがざわざわ音を立てている。
「何をぼんやりしているのです。早くお入りなさい」
青蘭に呆れたように言われ、真昼は慌てて足を踏み入れた。
先ほどの部屋より少し狭いだろうか。やはり冷たい床ではなく、やわらかな畳。ぱちりと青蘭が指を鳴らすと薄暗かった部屋に橙色の灯りがともされた。
「ここ、は……」
「あなたの部屋ですよ。御大がお与えくださったのです。感謝なさい」
「わたしの、」
へや。
真昼がその意味を理解する前に、閉めたばかりの襖が勢いよく開けられた。
「兄者っ! コンカ様がお戻りになられたって……あれ、ひとじゃないか!」
駆け込んできたのは真昼と同じか、それより少し年上くらいの少年だった。青蘭と同じ鮮やかな水色の髪をしている。余程慌てて走ってきたのか、青嵐と揃いの袴が少し乱れている。
「伊青、それはガセです。第一、貴方持ち場を離れて何をしているのですか」
「いいじゃん、いいじゃん、かたいこと言うなって。なんだ、細っこいなあ、おまえ! 兄者が連れてきたのか?」
真昼の顔を覗き込み、無邪気に笑う伊青という少年は青蘭によく似た顔だちをしていた。しかし、釣り目がちの瞳がへにょりと笑うだけで随分与える印象が違う。
「何故わたしがひとなどを連れてこなければならないのです? 御大がお買いになられたのですよ」
「御大が? へえ、そりゃ珍しい。コンカ様があまりにお帰りにならないから諦めたかな」
「伊青、冗談でもそのようなことを、「あーわかったわかった。ほんとに兄者は煩いったら。しっかし、おまえほんとに細っこいな!」
青蘭の小言を軽く流して伊青は頭一つ低い場所にある真昼の頭をぽふぽふと叩いた。
「ほそっこい」
言われ慣れぬ言葉に真昼はゆっくりと瞬きをする。
「ちゃんと食ってるかおまえ。ほら、これやるよ」
けたけた笑って伊青は真昼の口に何か小さなものを放り込んだ。真昼はくるりと舌の上でごつごつを転がして、その甘さに目を見開く。
「あまい」
その驚きがおかしかったのか、伊青はけたけたとまた笑い声を上げ自分の口にもひょいとそれを放り込む。
「甘いだろ? 金平糖って言うんだ」
「伊青、あなたはまたそんなものを……」
「って、兄者は煩く言うけど美味いだろ? ひとの食べ物なんだって。俺、ひとに会ったことはないけどこんな美味いもん食ってんならいいなあと思う」
至極真面目な顔でそう言って、ひょいとまた真昼の口に『こんぺいとう』を放り込んだ。
「こんぺいとう」
「なんだ、気に入ったのか? ならこれやるよ! 俺はまた買ってくればいいし」
ほら、と手渡されたのは『こんぺいとう』がたくさん入った小さな瓶だった。目の高さまで持ち上げると白や桃色、可愛らしい色をしたごつごつが瓶の中をかちゃりと転がる。
「ありがとう」
たどたどしいお礼に気にするなと人好きのする笑みを浮かべる伊青もまた、真昼にとっては知らないものだった。
すべて、ゆめだとおもってた。