壱ノ壱
第一章開始です。
誤字脱字ありましたら、ご一報お願いします。
ふわん、と鼻をかすめた独特の香りに少女はゆっくりと瞼を上げた。
なんの香りだろう。嗅いだことのない甘いにおい。鼻の奥にすっと抜けて、なんだか頭をぼんやりさせる。ひらひらと意味もなく自分の目前で手を振ると甘いにおいもゆらゆらと揺れて纏わりついた。
「目が、覚めたか」
ゆっくりとまばたきを繰り返す少女に低い声がかけられる。聞き覚えのないそれに少女は視線をさまよわせ、突然飛び上るように起き上がった。
ここは、どこ。
嗅いだことのないにおい、聞いたことのない声。肌に触れるのは湿っぽい冷たい空気ではなく、あたたかな風。肌はひりひりと痛むけれど、いつものような鈍い痛みは襲ってこない。
すべて、少女が知らないものだ。
「……だれ」
絞り出された声は掠れてほとんど音にならなかったが、それでもその人物には伝わったようだった。くつり、と笑う声が少女の耳に届く。
だだっ広い畳の和室、柱にもたれかかるようにゆったりと腰かけるのはとても、美しいひとだった。あまりの美しさにひとではないかもしれないと疑うほどに。少し着崩れた肌から覗く白い肌と藍色の上質な着物がよく似合っていた。
長い黒髪を風に靡かせ、月光を一身に浴びるそのひとはくいと手に持つ盃から酒を飲むと壮絶な笑みを浮かべ、首を傾けた。ふわりとあの甘いにおいが漂う。
「わたしに、名を問うか」
わけのわからない威圧に少女は一歩後ろへと下がる。じっと刺すような視線を向けられて、少女は瞬時に理解した。
このひとは危険だ。
頭の中に警報が鳴り響く。それは少女を助けてきた音だった。身を守る力も、傷を癒す金も持たない少女の精いっぱいの自営本能。けれど、少女は天敵から逃げる足も、天敵へと向ける牙も持たなかったから、それは諦めを促す音でもあった。
抗っても無駄。ならば、できる限り抵抗せずに、受ける傷は少なく。
少女はまた一歩、よろめくように後ろへ下がって、――こつりと足に当たったものをなにか確認する前に足を取られてひっくり返った。
ばしゃん、と冷たいものが全身を覆う。
ふっ、と先ほどまでの威圧感をどこへやったのか、綺麗な男が笑うのがわかった。
「何をしている」
問われて、少女はゆっくりとまばたきをする。
どうやら自分は水をかぶったようだった。足元を見ればたらいがひっくり返っている。足首から伸びる長い鎖が引っかかり、中に入っていた水を浴びることになったのだろう。上半身はともかく、下半身は水でぐっしょり濡れている。畳にしみていく水をぼうと眺めてから、はっとしたように少女は慌てて立ち上がろうとして、
「あ、」
足をもつれさせ、また同じ場所に尻をついた。
「そう慌てるな」
くつくつと笑いながら男がこちらに手を伸ばす。自分に向けられた手のひらの意味を図ろうとじっと見つめていたら、何を思ったか男は少女の脇に手を差し入れ、ひょいと持ち上げた。驚いて固まる少女をのぞき込むのは蜜色というには甘さのない、不思議な色をした瞳だ。満月のようなそれに映る自分を見つけ、少女はゆっくりまばたきをする。
「まるで濡れ鼠だな」
ぽたぽたと少女の着物から落ちる水を眺めまた笑う。先ほどの人物と同一とは思えぬその穏やかさに少女はきょとりと首を傾げた。
「これでは風邪をひく。拭くものを、「御大っ! コンカさまが戻られたというのはっ……誰です、その娘」
慌ただしく飛び込んできたのは水色の男だった。全身が水色というわけではないのだが、その髪色が鮮やかすぎて水色という印象しか与えない。少し釣り目がちの目が男に持ち上げられている少女をぎろりと睨む。
「喧しいな、青蘭。あまり騒ぐとこいつが怯える」
「御大、誰ですその娘。ひとの子ですか」
「そうだ。わたしが買って来た」
「買って……!? 御大、何を考えておられるのですっ。ひとの子を買って来られるなど、また夜月様に何を言われるかっ」
ずいとこちらに近寄ってまくしたてる青蘭に少女は小さな体をさらに縮めた。
怒鳴り声は苦手だ。その後に襲う痛みはもっと苦手。ひどいときにはその痛みがひかなくて寝ることさえ儘ならぬから。
「黙れ、青蘭。こいつが怯えると言っているだろう」
そんなふうに身を小さくした少女の背を宥めるように叩いて、男――御大はひょいと何もない空中をつかむ仕草をした。すると瞬間、その手には真白い手拭いが握られていた。それをふぁさりと頭に被せられ、少女はやはりぱちくりと瞬きを繰り返す。
「青蘭、こいつに部屋を。それから新しい着物を着せてやれ。このままでは風邪をひく」
「御大、」
「青蘭、聞こえなかったか。二度はないぞ」
尚も言い募ろうとした青蘭は、静かな怒声にびくりと身を固め、せめてとばかりに瞬きを繰り返す少女を睨みつけた。
「良いな、青蘭」
「……御意に」
渋々と言ったふうを隠しもせず頭を下げる青蘭をついと見下ろし、御大は自分の腕の中でぴくりともしない少女に視線を変えた。
「おい、」
そう呼びかけ、何かを考えるように言葉を止める。何事かと見上げた少女の瞳を見つめ、御大はくつりと喉の奥で笑う。
「そうか、おまえ名が無かったな」
「な……?」
名。名前。わたしを表す唯一つのもの。欲しいとも思わなかった、手に入るはずもなかったわたしだけのもの。
掠れた声で問い返す少女に答えず、御大は少女の前髪をひょいと上げる。露わになった小さな額にそっと掌を当て、じっと少女の瞳を覗き込む。
「おまえに名を与えよう」
ぱちくりと瞬きを繰り返す少女に、彼にしては珍しい穏やかな笑みを浮かべ。
「おまえは、真昼。その色に相応しい名だろうて」
ふわりと風が吹く。それに揺れる髪は白、ゆっくりと瞬きを繰り返す瞳は紅。哀れなほどに痩せ細った少女は、凶暴なまでに美しい男にただただ視線を送り続けた。
まひる。わたしのなまえ。わたしだけの、ただひとつの、しょゆうぶつ。