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記憶の断片-1 時の光跡

光跡が、石を撫でていた。


西に傾いた太陽が、崩れかけた石造りのアーチを斜めに貫き、長い影を床に引いている。ニールはその光の先にしゃがみ込み、石碑の表面を指の腹でゆっくりと辿った。


三千年というのは、ひとつの名が、もう誰の口にものぼらなくなるのに、ちょうど足りる長さだ。


平らな石を机がわりにして、古びた拓本(たくほん)を広げる。拓本とは、石に刻まれた文字へ濡らした紙をあて、墨で叩いて、刻みのへこみだけを白く浮かばせて写し取ったものをいう。


崩れかけた壁の根から剥がしてきた、誰のものとも知れぬ石碑の、その面影だ。指でなぞる。三千年前の、風雨に削られて痩せた線。読める箇所よりも、読めない箇所のほうが、ずっと多い。


刻まれた文字は古い。おそらく新星暦黎明期の、まだ言語が統一されていなかった頃のものだ。解読に三ヶ月かかった最初の一行は、今では目を瞑っても諳んじられる。


誰かの名だ。女の名だ。それだけはわかる。あとは、何もわからない。彼女が誰を愛したのか。何を恐れたのか。どんな声で笑ったのか。その一切を、世界はもう覚えていない。


消えるというのは、死ぬことよりも、もっと底のないことだと思う。死は、まだ骸を遺す。骨を、墓を、誰かの記憶の片隅を遺す。だが忘れられるというのは、骸さえ持たない消滅だ。在ったことの証を、ひとつも残さない。三千年という歳月は、その証を根こそぎ攫っていくに、十分すぎる長さだった。


だから、いつも思う。誰も知らぬ者を知ろうとすること――それだけが、その人をもういちどこの世へ呼び戻す、たったひとつの方法ではないか、と。


――名もなきひとよ。


そして、これは誰にも言ったことがないのだが、石をなぞる指の奥には、いつも、もうひとつの願いが隠れている。


いつか、自分も、こんなふうに読まれたい。


三千年後の誰かが、自分の名を刻んだ石の前にしゃがみ込み、この男は何を考え、何を恐れ、どんな声で笑ったのかと、痩せた線を指でなぞってくれる。そういう日が来てほしい。


誰にも知られず消えるのではなく、消えたあとで、まだ見ぬ誰かに探される者でありたい。永く、読まれたい。――それは、口に出せば笑われるとわかっている、見果てぬ夢だった。


エデナは、世界の縁にしがみつくようにある。尾根の南斜面に石積みの家が十数軒、互いに肩を寄せ合うように並び、その合間を、夏でも溶けきらない雪解け水の筋が幾本も走っている。朝は霧が谷底を満たし、太陽が稜線を越えるまで、村は皓白色の水底に沈んでいるようだった。羊の匂い、燻した干し肉の匂い、どの家からともなく漂う薪の匂いが、薄い大気に重く沈んで、いつまでも晴れない。


季節は巡るが、村そのものは巡らない。雪が来て、雪が融けて、また雪が来る。その往復のあいだに何かが積み上がっていく感触は、どこにもなかった。同じ井戸、同じ祠、同じ顔ぶれが、同じ言葉を交わして老いていく。よそから来る商人だけが、毎年わずかに違う噂と、わずかに違う皺を運んでくる。それだけが、エデナにおいて唯一、時間が流れている証だった。


幼いころから、知りたいものが、多すぎた。古い文字。星の運行を割り出す数。玉の内側を光がどう抜けるか。文明がどこで始まり、なぜ閉じたのか。問いは、湧き水のように尽きなかった。だが、谷の暮らしのなかで、それらはどれも、つまらぬもの、腹の足しにならぬものだった。古い文字を解いて何になる。死んだ女の名を読んで何になる。村の者は、直接そう言いはしない。ただ、そういう目で、こちらを見た。両親でさえ、息子の熱を、理解はしなかった。咎めもせず、認めもしない。理解と黙認のあいだの、底の浅い水たまりのような場所で、自分は育った。


内心では、彼らを軽んじていた。井戸の深さだけを世界の深さだと思い込み、尾根の向こうを想像もせず、同じ歳月を何度も塗り重ねて生きていく――そのことに本人たちは何の不安も抱いていないらしかった。それを見るたび、密かな優越がある。自分だけが、この谷の外に三千年の奥行きを持つ世界があることを知っている。


その優越は、けれど、誰にも分けられない優越だった。誰かを見下す資格があるということと、誰かと並んで歩けるということは、まったく別の話だ。広場で笑い合う声を遠くから聞くたび、自分だけが薄い硝子の向こう側に立っているような気がした。彼らの暖かさは本物で、自分の渇きも本物で、その両方が、同じ村の同じ朝の光の中で、決して触れ合わなかった。


それでも一度だけ、その水たまりから出ようとしたことがある。


歴史に、傷をひとつつけたかった。誰も読めなかった文字を読み、誰も知らなかった過去を掘り起こし、高名な学者としてその名を残す。自分には、特別な腕も人を率いる才もない。あるのは、この尽きない探究心だけだ。それは、わかっていた。だから、それひとつを頼りに独学で書を読み、首都の大学府の門を叩こうとした。シュオールの、名門の。


届かなかった。


入るには縁故が要った。試験はとうに形だけのものに堕していて、過去の問いを知れるものが答えを書いた。仮に通ったとしても、周遊費の工面が立たなかった。北の果ての、玉と罠で食う家の子に、用意できる額ではなかった。一度、夢を畳んだ。畳むしかなかった。


冷めた目で世界を見るようになったのは、たぶん、そのあたりからだ。


それからの歳月は、奇妙なほど静かに過ぎた。村の暮らしは元のままに続き、自分もまたその中に元のまま納まっていったが、納まる、という言葉の感触そのものが、もう何かが止まったことを示していた。時計の壊れた家でも、針はどこかの時刻を指し続ける。自分の内側にあるのも、そういう壊れた針だった。指す先は変わらないまま、世界だけが、その針の傍を何事もなかったように巡り続けていく。


虚しさという言葉は、たぶん正確ではない。虚しさには、まだ失った何かの輪郭が残っている。自分の内にあったのは、輪郭すら磨り減った、もっと滑らかな停滞だった。凍った川の上に立つと、その下でまだ水が流れているのか、すでに止まっているのか、わからなくなる瞬間がある。自分の毎日は、そういう氷の上の静止に似ていた。冷たくはあるが、痛みはない。ただ、どこにも進まない。


問いつづけること、それそのものが生だ――いまの自分は、そう思っている。答えにたどり着くためではない。永遠にたどり着けぬと知りながら、なお手を伸ばす。その姿勢のなかにしか、たぶん、自分という人間はいない。


立派な言いぶんだと思う。だが、その立派さは、もっと大きな何かが焼け落ちたあとに、灰のなかから拾った、いちばん持ち運びやすい一片なのかもしれなかった。認められたかった。読まれたかった。その熱を、自分は、見ないことにしているだけなのかもしれない。


文を交わす相手が、ひとりだけいる。ヘイン・ヘブ・サイムという。会ったことはない。遠い都の、星錠院――宗教の総本山で、焼かれずにすんだ書物の断片を守る番人をしている男だ。本来は焼いて消すと決められた言葉を、人目を盗んで生かしておく役。罪に近い仕事だ。自分が拓本を写して送ると、ヘインは欄外に、爪の先ほどの小さな注釈を添えて返してくれる。


いつだったか、こう書いてよこした。「君が探しているのは、消された誰かではなく、消したいと願われた何かかもしれぬ」と。


その一文が、今も胸の底で、消えずにいる。


ヘインがかつて、名を伏せて記した論考を、自分は一度だけ読んだことがある。題は「閉じえぬ円環の起源」。そこには、誰も口にしてはならぬとされる古い禁忌が、影のように示されていた。――最初の主が、死の前に、誰かに何かを託した、と。それが何であったのか、託された者が誰であったのかは、そこで断ち切れている。続きは焼かれて、世界から失われていた。


自分は、その焼け落ちた空白を埋めることを、生涯の仕事に決めている。


ヘインの守る断片のなかには、こんな言葉もあった。海の向こうの者が攻め寄せるとき、死から戻る者が現れる。真の救いは、勝つことではなく、和らぐことだ――。美しい、と思った。そして、なんの役にも立たぬ古い祈りだ、とも思った。海の向こうから何かが来るなど、三千年のあいだ、一度もなかったのだから。



年じゅう雪の融けきらぬ尾根筋にある家に、両親と住んでいる。世界の縁だ。


ここより先は海で、海の向こうへは近づいてはならぬと、誰もが幼いころから教えられて育つ。なぜ近づいてはならぬのか、その理由を知る者はいない。


三千年も昔の、最初の主が遺した戒めだから、というだけだ。そもそも見た事も無いので、海というものがどういうものか分かっていないのだが。


暮らしは寄せ集めだ。冬は罠を見て回って獣を獲る。時に矢を射て肉を摂る。夏は谷を越えてきた商人のために、通貨がわりに通う透きとおった石――玉の目利きと取り次ぎをして、いくらかを得る。だがそれらは、生きるための手間にすぎない。自分がほんとうに時間を注ぐのは、誰も読まなくなった古い文字を、解いていくことだけだ。


夏が来ると、谷の向こうから人がのぼってくる。雪がようやく尾根を手放すころ、隊商の鈴が霧のあいだから聞こえはじめ、集落のひとつきりの広場に、布と塩と乾いた草の匂いがたちこめる。一年の大半は風の音しかしない場所が、その数十日だけ、声で満ちる。


子供たちは隊商の荷駄を遠くから囲み、見たこともない柄の布や、南方の干した果実を指さして騒ぎ、犬たちまでもが、いつもより忙しなく尾を振って駆け回った。女たちは普段は出さない笑い声で値切り、男たちは酒の壺を囲んで他国の噂に耳を傾けた。谷の外の言葉、谷の外の匂いが、ほんの数十日だけ、エデナという名の止まった水たまりに、外の風を入れる。それが過ぎれば、村は再び、誰にも見られない静けさの底へ沈んでいく。毎年そうだった。毎年、同じだけの賑わいが来て、同じだけの静寂が戻った。


「その玉、濁りが芯まで入ってる。半分が関の山だ」――自分が言うと、髭の商人は大仰に天を仰いでみせ、それでも財布の紐をゆるめた。毎年同じ時期に現れ、毎年同じ渋り方を見せる、ここ数年かわらない芸だ。透きとおった石を陽にかざし、内側の罅を、光のとおり道を読む。良い玉は光をよく飲み、悪い玉は途中で光を迷わせる。値はそこで決まる。誰も口にはしないが、玉とは、目に見えぬ何かが沁みとおるための器なのだ――そう思うたび、自分はきまって、文字の沁みた石碑のことを思い出す。


帰ると、父が土間でかまどに鍋をかけ、苦い根を煮ている。薬師の朝はいつもそうだ。「隣のじいさんが、また膝だとさ」と父は背を向けたまま言った。「お前、谷をおりるなら、ついでに届けてくれ」。自分が拓本の道具を肩にかけているのを見て、父は短く笑った。「死人の名はいつでも待ってくれる。膝は待たんぞ」。返す言葉を探しているうちに、父はもう次の根を刻みはじめていた。


父の薬は、谷では誰よりも頼られている。山ひとつ越えた村からでも、難産や毒蛇の傷を抱えて担がれてくる者がいた。その腕に、村の誰もが当然のように敬意を払う。だが同じ口が、息子の拓本を「死人の名」のひと言で片付ける。馬鹿にしているわけではない、と自分でもわかっていた。父にとって、薬は人を生かす。拓本は、ただの石を撫でることだ。比較するまでもない重さの差が、父の中ではすでに決着していた。


その決着のつき方そのものが、自分には、いつまでも堪えた。理解されないことより、理解する必要すら感じられていないことのほうが、よほど深く刺さる。


母は機の前で、もう緯糸を通していた。とん、とん、と筬を打つ音が、家のいちばん古い音だった。「これはお前の冬着にする」と母は言った。藍に染めた糸と、生成りの糸とが、交わるところでだけ縞になる。一本ずつでは、ただの糸だ。


母は多くを言わない人だった。十六で谷を越えてエデナへ嫁ぎ、それから三十年、同じ機の前に座り続けている。若い頃に覚えた歌を、今も小さく口の中で転がしながら織る。その歌の意味を尋ねたことは一度もない。尋ねれば、母はきっと困った顔をして、もう忘れた、と言うだろう。母にとっての過去とは、聞かれなければ静かに仕舞っておけるものだった。自分にとっての過去が、聞かれなくても掘り起こさずにはいられないものであるのと、ちょうど逆だった。


血のつながりがありながら、母とは、見ている方向がまるで違う。その隔たりを、母は気にしていないように見えた。気にしているのは、いつも自分のほうだった。


「ベジェが井戸にいたよ」と、母はそれだけ言って、また筬を打った。何を言いたいのかは、わかっていた。生きている者の隣にいなさい、と。けれど自分は、曖昧に頷いただけだった。


その朝、霧が出た。それは視界あるものの認知を拒む、白い暗闇であった。谷を底まで埋めていた。


井戸端で、幼なじみのベジェに会った。桶を引き上げる手を止めて、彼女は呆れたように笑った。「またその格好で行くの。霧の中で石を拾いに行く酔狂は、村でひとりだけだよ」。今年の暮れには、隣村の男のところへ嫁ぐことが決まっている。荷物はもう半分纏めてあるはずだった。それでも、暇を見つけると井戸端で笑い合うのは、子供の頃から変わらない。


「掘るのはもうおやめ」と、桶を抱えながら、ふいに彼女は言った。今までにも何度か聞いた言葉だったが、その日の声には、いつもよりわずかに重さがあった。「死んだ人のことばかり追っていないで、生きている者の隣にいなさいよ」。それは忠告というより、もっと近い場所から出た言葉だった――嫁いでいく前に、幼なじみへ残しておきたい、ただそれだけの気持ちだったのかもしれない。


彼女の言う「生きている者」が、自分のことを指しているのか、村の誰かを指しているのか、聞き返せなかった。ベジェは、過去の女の名より、目の前の誰かの体温のほうを、迷いなく選べる人間だった。それを、内心では浅いと思っていた。三千年の奥行きより、目先の温かさを選ぶ生き方を、どこかで見下していた。


けれど霧の中に立つ彼女の輪郭を見ながら、別の感情がそっと顔を出していた。羨望だ。迷わず選べるということに、どれほどの強さが必要だろうか。自分はそれを持っていなかった。


自分は曖昧に笑って、答えなかった。


それが、生きた彼女と交わした、最後の言葉になった。


異変は、霧そのものから始まっていた。いつもの朝の霧は谷を満たしながらも、どこかに薄い場所、光の通る場所を残しているものだった。その朝の霧には、どこにも薄い場所がなかった。隅から隅まで同じ密度で、同じ白さで、谷全体を塗りつぶしていた。


犬が先に気づいた。普段は隊商の荷にしか吠えない村の犬たちが、何もない方向へ向かって、低く長く唸り続けていた。鳥の声が、いつのまにか消えていた。風さえ止んでいた。世界が息を殺してこちらを窺っているような、その静けさのほうが、何よりも先に肌を逆立てた。


名づけられない予感というものがある。理屈でも経験でもなく、もっと古い場所から来る怖れだ。三千年、誰もこの縁を越えて来なかったという事実が、安全の証ではなく、ただの幸運の長い連続に過ぎなかったのだと、そのときようやく、骨の髄で理解した。


霧のなかから、それは来た。


白い、人のかたちをした殻だった。無機質で、なめらかで、関節のない曲線をしていた。顔と呼べる場所に、目も口もないように見えた。あるべき場所に何もないということが、あるべき場所に醜いものがあるよりも、ずっと恐ろしいのだと、その時はじめて知った。声をあげない。叫ばない。膝も肘も曲がらないはずの滑らかな白い肢体が、それでもなめらかに、関節という概念そのものを持たない生き物のように、こちらへ向かって、潮のように押し寄せてくる。


歩くのではない。走るのでもない。ただ、満ちてくる。寄せる波に逆らえないように、村の者たちは、抗うより先に、その異様な運動の意味を理解できず立ち尽くした。それこそが、最初の犠牲を決めた。


山の者は、後になってそれを亡殻と呼ぶことになる。亡骸であり、殻であり、泣いている――そういう含みを持たせた名だが、そのときは、ただ白い死が、霧の形を借りて谷を降りてきた、としか思えなかった。


暗い純白は、瞬く間に赤に染まった。


隣家の老人が割れた。母が、父が、井戸端のベジェが、瞬く間にかたちを失っていった。悲鳴さえ、霧が吸って消した。


自分は走った。逃げ切れないことは、走りながら、すでにわかっていた。囲まれている。背を見せて逃げる者から順に、白い腕が裂いていく。


考え事の中でだけ扱ってきた「消える」という言葉の重さが、今になって骨の内側から這い上がってきた。それはもう、思考の対象ではなかった。喉の奥から突き上げる、ただの生き物としての拒絶だった。


頭を、限界まで回した。


逃げる方向に活路はない。ならば――。隊列のいちばん薄い一点へ力を集め、そこに穴をあける。逆に、敵のただなかへ突っ込む。それだけが、囲みを破る目だ。


自分は向きを変え、白い群れの一点めがけて駆けた。


息を吸い、言葉を世界へ焼べる。令という。言葉で世界に命じる術だ。命じたぶんだけ、己の記憶が薪のように燃えて、減ってゆく。ふだんの自分には、火を起こす程度のことしかできない。だが今は――風を。「風、今、指先、巻け」。


唱えた瞬間、頭の奥から、何かがそっと抜き取られた。なんの記憶だったのか、もう思い出せない。


風が巻いた。眼の前の一体が、わずかに体勢を崩す。たったそれだけ。だが、その半歩ぶんの隙間へ、自分は身体をねじ込んだ。


抜けた。白い隊列の、向こう側へ。


助かった、と思った。


隊列の外に、それは立っていた。


ほかの殻とは違った。背に、たたんだ翼を備えていた。ひときわ大きく、ひときわ静かだった。おそらくは、この群れを統べる者。その腕は、剣のかたちに研がれていた。


群れ全体が、ただの寄せる波だとすれば、これは、波を起こす意志そのものだった。声もなく、表情もなく、それでも、こちらを見ている、という感覚だけが、痛いほど伝わってきた。理解できない知性に見つめられるということが、理解できる悪意に見つめられるより、何倍も恐ろしいのだと、その静けさの中で思った。


終わった、と思った。考えるより先に、そう悟っていた。


剣が振り下ろされる、その刹那。


白い殻の内側から、ひどく小さな音が漏れた。咆哮ではない。命令でもない。もっと細く、もっと弱い――まるで、ひとつの言葉を、けんめいに言おうとして、ついに言えなかったような音だった。


自分は、それを読めなかった。三千年前の、あの女の名を、ついに読めなかったように。


腕が、首を断った。


落ちていく視界の、その最後に、自分は見た。膝から崩れていく、首のない自分の身体を。そしてその向こうで、霧ごと燃え落ちていく、故郷の姿を。


意識が消えるまでの刹那、なぜか、石碑の女のことを考えていた。


あの人も、こんなふうに消えたのだろうか。誰にも見られず、誰にも知られず、ただ名前だけを石に残して。


自分は、石さえ残せない。読まれたいと願ったのに、読まれるための一行も、刻めなかった。


骨さえ、誰のものか判別されないだろう。父の骨と、母の骨と、自分の骨が、同じ瓦礫の下で、もう区別を持たない一塊になる。名前を呼ぶ者がいなくなれば、名前はその時点で、すでに死んでいるのと同じだ。死とは、心臓が止まる瞬間ではなく、最後に自分を呼んだ誰かの記憶が消える瞬間なのかもしれない。だとすれば、自分の死は、まだこれから何年も続く。村の誰かの中で、自分の名がゆっくりと薄れていく、その全部が、自分の死だ。


それを思うと、剣で断たれた首の痛みよりも、ずっと冷たいものが、胸の真ん中を通り抜けた。


頭の奥から、記憶が、温度を持った砂のように、さらさらとこぼれ出ていくのがわかった。これで終わりだ、と思った。だが、おかしなことに――暗くは、ならなかった。


こぼれ出ていく自分の何もかもが、霧のなかへ、空のなかへ、ほどけて、溶けていく。まるで今この瞬間、自分自身が、誰かの指に、そっとなぞられている一枚の拓本になったように。


――遥か先の、まだ見ぬ君よ。


あなたは、自分を、知ろうとして、くれるだろうか。


光跡が巡る。


白い部屋があった。

雪よりも冷たい、空虚な白。


蒼い瞳の少女がいた。

長い髪は微かな風を孕み、遠い日の幻のように揺れていた。


水があった。

世界の果てまで続く、水だけの世界。


声があった。

誰のものとも知れぬ無数の声が、波のように寄せては消えていく。


崩れかけた石造りのアーチがあった。

かつて何かを繋いでいたはずの見慣れた石の記憶。


男がいた。

胸から血を流しながら、空と地の狭間に吊るされていた。


星があった。

煌めく常闇の大海に浮かぶ蒼い星。その上には無数の目が咲くように開いていた。


そして、輪があった。


どこまでも続く輪。

終わりへ向かうたび、始まりへ還る、閉じることのない円環。


目を覚ました時、新星の夜明けは訪れた。

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