第7話 猫は、背中を押すだけでいい
多目的室で、女子生徒――上田和恵は、少し夢を見ていたような、ボーッとした気持ちで立ち尽くしていた。今日、私はいったい何をしていたんだろうと、頭の中で色々な想いをグルグルと巡っていた。
毎日、同級生である琴音が褒められていた。部長として立ち回り、自分たちを気遣い、先輩と先生に自分たちとはしない話をしていた。演劇発表会に向けて立ち回っていた。
琴音はこの学校に入ってから演劇部に入り、演劇を始めていた。しかし、自分は小学生の頃からバレエを習い、地元の小さな劇団に所属し舞台に立っていた。将来、女優になるとかそんなたいそれた夢を持っていた訳では無いが、それなりに演劇に対する誇りを持っていた。
練習の際、自分の経験を踏まえて、後輩へのアドバイス等を積極的に行っていた。後輩も喜んで受け入れてくれていた。もちろん琴音も先輩として振る舞っていたが、演技に関しては自分の方が上手いと思っていた。
夏休みの終わりに、三年生から二年生に部長の引継式があった。事前に後輩が噂していた。部長にふさわしいのは自分か琴音だと。
部長の任は、三年生と顧問の先生の総意で決まると聞いていた。演技の経験を踏まえたら、後輩への貢献度を考えたら、自分が選ばれると思っていた。
結果は、琴音が部長、自分が副部長だった。
その場で、なんで?と思った気持ちはグッと押さえた。でも、素直には笑えていなかった。
それからの毎日、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えて過ごしていた。
新体制になって最初の大舞台が演劇発表会。三年生が参加する最後の大舞台。その仕切を新部長がしっかり執り行うことが、先輩への最高の追い出し会になると言われていた。
琴音は、明治時代のお話「おてもやん」を題材にした明るく楽しい恋愛話の脚本を提案してきた。自分にはない発想だった。分かっていた。自分にはない、この楽しさを生むのが琴音の良さだと。
今日の二時間目。体育館で体育の授業があった。前日から気分が乗らなかった。イライラして、体を動かす気になれなかった。実際に体調が悪いと思っていた。親に言って、見学届を出していた。
理由は分かっていた。二日前に琴音が借り受けてきた衣装を部員のみんなにお披露目したからだ。自分には出来ないことを更に突きつけられた気がした。後輩が軽く着物に袖を通し、町娘のかっこうってすごく可愛いと弾んだ声で言いながらくるりと回った。無性に後輩が憎らしく感じてしまった。そんな自分が嫌だった。
体育館で見学すべきだったが、先生に断りを入れて保健室に向かった。だが、足はなぜか三階の部室に向かっていた。
気がついたら衣装箱を開き、衣装を見ていた。当初はただ自分の目で見てみようと思っただけだった。しかし、一番上に畳まれていたのが、後輩が袖を通した衣装だった。無性に腹立たしくなってきた。
衣装箱を手近にあった台車に乗せて、廊下に出ていた。ただ、行くあてもどうするかも考えていなかった。目に付いたのが、各階に備わっているビル管理の配管ダクトの小さな扉。ちょうど衣装箱が通る大きさ。迷わず、そこに入れてその場を離れた。
保健室で少し震えながらその後の時間を過ごした。保健室の先生から、体調が本格的に悪いと思われた。大丈夫と答えたが、帰るように促された。しかし、このまま帰るわけにもいかなかった。色々な迷いも感じていた。
昼休みにお弁当を持って部室に向かった。騒ぎになっているのではと思ったが、琴音は思ったよりも冷静な感じだった。罪悪感よりも、その危機感のなさに苛立ちを感じた。困らせたい。その気持ちが大きく膨らんだ。
五時間目が始まる前に、もう一度、保健室で休ませてもらうよう先生に申し出をした。事前に、保健室の先生から体調不良の報告を受けていた担任は、すんなりと保健室へ送り出してくれた。
三階に上がり、配管ダクトの扉を開いた。午前中に置いていたそのままで衣装箱が収まっていた。衣装箱は思ったよりも大きかったので、邪魔だった。和装を紙袋に移し、衣装箱は部室に戻した。衣装袋を持って事前に計画していた多目的室に向かった。
部活の時間に、衣装が無くなったことを指摘して、慌てふためく琴音を見れば、スッキリすると思った。だが、琴音はその前に、今日の部活中止を通達してきた。施錠がされて、部室に入ることが出来ない。この場で、衣装がないことを騒ぐわけにもいかない。理由も琴音の体調不良となっている。話を大きくしない意思を感じた。
引くに引けず、だからと言って事を荒げることも出来なかった。図書室に籠もった。多分、琴音は自分ひとりで衣装を探しているのだろう。さっき、図書室の前を
走っている姿を見た。必死な感じだった。なぜか、行動を起こす前に思っていたスッキリする気持ちにはなれなかった。
いつの間にか、下校時間が迫っていた。これ以上は図書室に居られない。そっと図書室を出て部室に向かった。施錠されていた。そっと返すことは難しくなった。最後に、衣装を確認して帰ろうと思った。多目的室には、午後に持ってきた紙袋に入ったままそこにあった。衣装にそっと触れながら、小さく息をついた。
衣装がそこにあることの安心なのか、これからどうしたら良いか分からない、そんなため息が出た。しばらくそのまま動けなかった。誰に言うわけでもなく、小さく呟いた。
「……琴音が部長なのは、おばあちゃんの着物のおかげでしょ」
どうしようもない気持ちだった。本当はそうじゃないのは分かっていた。でも、そう思うしか自分に納得が生まれなかった。
「実力じゃない。本当の部長は……」
そこで言葉が止まった。廊下の方がちかちかっと瞬いた。誰かが来たのかと思ったが古くなった蛍光灯の瞬きと分かった。ホッと一息ついて、また、紙袋を見た。このままここに置いておくべきか、それとも……。
心の中でいくつもの考えが巡っている。すると、トンと足に何かが乗る感触があった。
「……っ!?」
飛び上がってしまった。拍子にスマートフォンを落としそうになる。慌てて両手で押さえた。
「な、なに……猫? どこから……」
真っ黒な猫が一匹、自分を見上げていた。暗闇でもハッキリと分かるエメラルドグリーンのキレイな瞳が、まっすぐに自分を見上げている。自分と目が合っても、視線をずらさず、じっと見ている。何故か視線が逸らせなかった。
「……なんで、こんなところに猫がいるの」
猫が答えるわけがないのに、思わず声が出た。自分の声に驚くことなく、黒猫はそのままじっと見ていた。
もしかして……心の中の不安と葛藤の部分が大きく膨れ上がった。もしかして、神様が私のしてきたことを見ていて、何かを伝えにきたの。
「にゃー」
黒猫が、そんな自分の気持を見透かしたように鳴いた。
心が読まれているような、促されているような、いろんな気持ちが押し寄せてきた。こんなところに黒猫がいるというシチュエーションに不思議とか怖いとかの気持ちは働かなかった。
ゆっくりと立ち上がり、紙袋をもう一度見た。そして、黒猫を見た。黒猫が多目的室にやけに響くペタペタとした足音を立てて、ドアに向かって歩き出した。黙ってそれを見送った。黒猫が一度振り返り「にゃー」と鳴いた。
「……猫が、しっかりしろって言ってる」
全部見透かされている。小さく笑った。笑いながら、涙が出てきた。
「馬鹿みたい。猫に言われて、どうするんだろ、私」
黒猫は自分がしっかり閉めていたはずのドアの隙間を通って、そのまま廊下へ出ていった。
気持ちは固まった。上田は、衣装の入った紙袋をしっかりと握りしめ立ち上がった。
――――――
佐藤は、入ってきた窓からそっと外に出て、学校を後にした。
大江の街を疾走しながら、琴音のことを考える。
まだ加藤神社で泣いているんじゃないか。自分の帰りを待っているんじゃないか。
そんな気がしていた。
言葉は通じていないが、佐藤が何かをしようとしている、その意思を感じ取っていた気がしていた。
和装が最悪の状態になっていないことは確認出来たし、あの子がこれ以上何かをするようにも見えなかった。明日になれば、事態は大きく進展するように思えた。
その安心だけでも、琴音に伝えて、早く家に帰してあげたかった。
辺りはすっかり夜の帷が落ち、街には家族団欒の温かい灯りが溢れている。早く、この中に琴音を帰してあげたかった。
来たときと同じくらいの時間で加藤神社の鳥居前に着いた。着く前から佐藤には、鳥居前に蹲っている少女の姿を捉えていた。やはり、佐藤の帰りを待っていたようだ。
佐藤が近づいていることに気が付かず、うずくまり、ぼーっと地面を見ているようだ。そのまま軽やかに近づき、琴音のローファーのつま先に——ぽむ、と肉球を乗せた。
「……あ!」
琴音が顔を上げる。
エメラルドグリーンの猫の瞳と、期待と不安の混じった黒い瞳が、真っ直ぐに重なった。
「……猫ちゃん!み、見つかったの?」
「にゃーん」
そうだよ、琴音ちゃん。
もちろん、琴音にはただの鳴き声。でも、猫の瞳がまっすぐに琴音を捉えている。自信に満ちた佐藤の目を見つめ、琴音はこの不思議な黒猫が自分の願いを叶えてくれたことを感じた。少女は、胸の奥から堰を切ったように思いが溢れてきた。先ほどとは違う涙が頬を伝う。
「……ありがとう」
琴音は佐藤を抱え、優しく抱きしめて感謝の言葉を伝えてきた。
(俺、野良だから、あんまり綺麗じゃないんだけどな)
今まで生きてきて体感したことのない温もりを受けて、心の置きどころが見つからず、佐藤は照れ隠しにそう思った。
「でも、どこにあるんだろう。見つけてくれたのは嬉しいけど」
琴音はハッとしたように抱きしめていた佐藤を抱え直し、佐藤の顔を見た。
「にゃおん」
(朝には、多分部室に戻っていると思うよ)
琴音には佐藤の言葉は伝わらない。ただ、なんとなく佐藤の言っていることが分かった気がした。解決したから心配はないよ、そう言っているように。
「ありがとう」
もう一度、琴音に感謝の気持ちを伝えられた。
佐藤としては、その感謝の言葉がなんともむず痒い。無くなったものが学校にあれば探し当てられる自信はあった。見つかれば自分の力で部室なりに運んで、誰かに見つかるようにしようと考えていた。
しかし、結局解決したのはあの子自身だ。俺はただ、背中を押しただけに過ぎない。女子生徒の言葉を考えれば、同じ演劇部員の子がやったこと。自分たちの晴れ舞台を自ら汚す最悪のことはしない気もしていた。
そこまで考えて、周りがすっかり暗くなっていることを思い出した。もう、一九時を大きく越えている。部活帰りでもそろそろ家族も心配する時間だ。
「にゃあ!」
(お礼はいいから、もう帰りな)
琴音にも佐藤の意図が伝わったのか、そっと佐藤を石畳に降ろし、スクっと立ってスカートの砂ホコリをパンパンと払い除けた。
「本当にありがとう。お礼にまたくるね」
そう言って、琴音は帰路に着いたのだった。




