第7話 補助役
朝の光が差し込むアパートの一室で、私は新しい防具のベルトを静かに締め上げていた。
これまで現場で着ていた実用一辺倒の作業着とは違う、探索者専用に作られた強化繊維のジャケットとプロテクターだ。天城装具社の廉価モデルだが、一般の刃物や衝撃をある程度は防いでくれる信頼性がある。
腰には、訓練センターで推奨された初心者用の短槍を提げている。まだ自分の貯金で立派な装備を揃える余裕はなく、これは管理機構からのレンタル品だ。柄は軽量合金、穂先には最低限のTier1素材が使われている。
洗面所の鏡の前に立ち、ポニーテールにまとめた漆黒の髪と、少しだけ緊張の色が滲む自分の顔を見つめた。
「お姉ちゃん、お弁当できたよ」
背後から声をかけられ、振り返ると柚乃が包みを手渡してくれた。
「ありがとう、柚乃。いつもより少し多めにしてくれた?」
「うん。探索者のお仕事は、今まで以上に体力使うって聞いたから。お肉多めに入れておいたよ」
「助かる。陽菜はまだ寝てるかな」
「昨日の夜、お姉ちゃんが探索者になるんだって興奮して遅くまで起きてたからね。ぐっすりだよ」
柚乃はふふっと笑い、それから少しだけ心配そうな目を私に向けた。
「気をつけてね、お姉ちゃん。絶対に無理はしないで」
「分かってる。一番大事なのは、安全に帰ってくることだからね。それじゃあ、行ってくる」
妹に見送られ、私はアパートの鉄扉を開けた。
肌寒い朝の空気が、新しい防具の隙間から入り込んでくる。私は深く息を吸い込み、駅へと向かう道を歩き始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大都市の地下、かつて巨大なターミナル駅だった場所。
そこが現在、この地域最大のダンジョンエントランスとして機能している。
政府と探索者管理機構によって厳重に管理されたその施設は、私がこれまで通っていた郊外の一次処理施設とは全く異なる異様な熱気に包まれていた。
一般人の立ち入りが制限されたゲート前の広場には、出勤してきた探索者たちが次々と集まってきている。
彼らが身につけている装備は、私の安物の防具とは比べ物にならないほど使い込まれ、怪物の血や体液による独特の汚れが染み付いていた。背中に身の丈ほどもある大剣を背負う者、全身を重装甲で覆った者、最新の軽量ギアで身を固めた者。老舗の霧峰装備工業のロゴが入った武骨な槍を持つベテランの姿も目立つ。
これまでは、運搬要員として彼らの後ろ姿を遠くから見ているだけだった。泥にまみれ、怪物の死骸を引きずって帰還する彼らを、別世界の住人だと思っていた。
だが今日から、私は彼らと同じラインに立つ。
私は広場の端を歩きながら、ジャケットの内ポケットから昨日受け取ったばかりの黒いライセンスカードを取り出した。
そこに印字された私の顔写真と、Tier1という文字。
探索者社会において、Tier1は文字通り最底辺だ。
浅層の入り口付近で小牙蜥蜴などの小型種を狩るのが関の山で、中層へ潜る資格すら持たない見習い。ベテラン探索者たちから向けられる視線には、期待など微塵もない。邪魔にならないように隅を歩けという無言の圧力が、空間全体を満たしているように感じられた。
受付カウンターに並び、管理機構の職員にライセンスカードを提示する。
「藤崎千夏さんですね。本日から探索者としての登録となります。初期講習は終えていますが、実地での単独探索はまだ許可されていません。本日は規定により、既存のパーティーに補助枠として同行していただきます」
事務的な口調で告げられ、私は指定された待機所へと向かった。
フリーランスの新人探索者は、最初の数回は必ずベテランのパーティーに組み込まれ、現場の空気を肌で学ぶことが義務付けられている。立派な名目だが、実態は荷物持ち兼、後方警戒の雑用係だ。
待機所のベンチに座り、周囲を観察する。
タバコの煙、コーヒーの匂い、金属の装備が触れ合う音。
「今日の相場はどうだ」「昨日は浅層の三区画で湧きが多かったらしい」といった生々しい情報交換が飛び交っている。
下請けの処理施設にいた頃も怪物の匂いには慣れていたが、ここの空気はもっと攻撃的で、死という現実と隣り合わせのピリピリとした緊張感があった。怪物の死骸を処理するのと、生きている怪物を殺しに行くのとでは、根本的に精神の在り方が違うのだ。
「お前が今日うちのパーティーに入る新人か」
不意に頭上から声をかけられ、私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、無精髭を生やした三十代半ばほどの男性だった。使い込まれた天城装具社製の防具を着込み、背中には玄崎機工製の頑丈そうな長槍を背負っている。歴戦の探索者特有の、油断のない目つきをしていた。
「はい。藤崎千夏です。本日はよろしくお願いします」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「俺は第三班リーダーの相馬だ。座ってていいぞ」
相馬と名乗った男は、私の向かいのベンチにどかと腰を下ろした。
「お前の経歴はデータで見た。一次処理施設で解体と運搬を三年やってたそうだな。どうりで、新人特有のフワフワしたお坊ちゃんお嬢ちゃんたちとは違う、現場の匂いがするわけだ」
「解体作業なら慣れています。お役に立てると思います」
「期待してるよ。だが、ここは死骸を切り刻む安全な作業場じゃない。生きた殺意が四方八方から襲ってくる場所だ。勘違いするなよ」
相馬の言葉はドライで実務的だった。新人に対する過剰な優しさも、無用な威圧もない。ただ、現場の厳しい現実を淡々と突きつけているだけだ。
「今日の任務は、浅層第二区画での定期駆除と素材回収だ。主なターゲットは小型種の群れになる」
相馬は携帯端末にダンジョンのマップを表示させ、私に見せた。
「お前の役割は、俺たちが討伐した怪物の素早い解体と、素材の回収、運搬だ。戦闘には基本的に参加しなくていい。俺たちの背後を守り、周囲の警戒を怠るな。もしはぐれ個体が接近してきたら、無理に倒そうとせず、ただちに声を上げろ」
「承知しました。指示通りに動きます」
私がはっきりと答えると、相馬は少しだけ目を細めた。
「返事が良いのは結構だが、現場では声の大きさより判断の速さが命だ」
「はい」
その後、パーティーの他のメンバー二人とも顔を合わせた。一人は中距離支援用のクロスボウを扱う細身の青年で、もう一人は大盾を持った体格の良い壮年男性だ。彼らもまた、新人である私に対しては最低限の挨拶を交わすだけで、すぐに装備の最終確認に戻っていった。
これが、新人の立場の弱さだ。実績も実力も証明されていないTier1の探索者など、彼らにとってはただの足枷に過ぎない。生き残るための足し算ではなく、事故を引き起こすかもしれない引き算の要因として見られている。
だが、それでいいと私は思った。
期待されていないのなら、与えられた役割を完璧にこなし、自分の有用性を実証するだけだ。私は妹たちを養うために、ここで稼がなければならない。他人の評価を気にして立ち止まっている暇はないのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
午前九時。
エントランスの巨大なシャッターが重々しい音を立てて開き、ダンジョン内部への通路が姿を現した。
「行くぞ。気を引き締めろ」
相馬の合図で、私たちのパーティーは薄暗い通路へと足を踏み入れた。
境界線を越えた瞬間、空気が一変した。
湿り気を帯びた冷たい風が、地下深くから吹き上げてくる。壁面には発光する奇妙な苔が張り付き、足元の石畳は不自然なほど滑らかに削られている。
ここはもう、人間の常識が通用する地上ではない。怪物が生まれ、増殖し、命を奪い合う異界の領域だ。
私はパーティーの最後尾を歩きながら、周囲の暗がりへと視線を巡らせた。
耳を澄ますと、水滴が落ちる音に混じって、岩壁の奥から微かな擦過音が聞こえてくるような気がする。
下請け時代、安全が完全に確保された搬出ルートを歩くのとは全く違うプレッシャーが、全身の皮膚を粟立たせた。
(これが、本物の現場)
腰に提げた短槍の柄を、右手の平でそっと撫でる。
ひんやりとした金属の感触が、高鳴る心拍を少しだけ落ち着かせてくれた。
私の体内には、あの中型種から奪い取った膨大な魔粒子が静かに循環している。その力が、恐怖を抑え込み、歩みを進めるための確かな熱量に変わっていくのを感じる。
前を歩く相馬が、ふっと立ち止まり、右手を挙げてパーティーの動きを止めた。
「前方、十メートル。岩陰に反応あり。小型種三体だ」
相馬が背中の長槍を静かに引き抜く。大盾の男が前に出て構え、クロスボウの青年が死角へ移動して射線を確保する。
彼らの動きには一切の無駄がなく、息の合った連携が築かれていた。
「藤崎、お前は少し下がって周囲の警戒だ。別働隊が来ないか見ておけ」
「了解」
私は指示通りに数歩後退し、短い槍を両手で構え直した。




