第16話 挫折
地下に設けられた専用演習場はひんやりとした静寂に包まれていた。
コンクリートが剥き出しになった壁面には等間隔で魔粒子を吸収する特殊なプレートが埋め込まれ、室内の中央には怪物の分厚い膜を再現したという巨大な硬質ゲルの標的がいくつも並んでいる。浅層の訓練施設にあったものとは比べ物にならない密度と硬度を持つそれが、これから私たちが直面する中層の現実を無言で突きつけていた。
午前の座学を終えた第七十一期中層講習の受講生たちは、それぞれ自前の武器を手にして鳴海教官の前に整列している。誰もが張り詰めた表情を浮かべていた。第一壁を突破したことで得た万能感は午前の講義で粉々に打ち砕かれ、今はただ己の真の実力を試されることへの緊張が場を支配している。
私も背中から真新しいガンケースを下ろし、中から霧峰装備工業製の長槍Pierce 3《ピアス・スリー》を取り出した。黒い強化合金の柄を握ると、ひんやりとした金属の感触が掌に伝わり、少しだけ高鳴る心拍を落ち着かせてくれる。
「これより魔粒子制御の基礎訓練を開始する」
鳴海教官の低くよく通る声が演習場に響いた。
教官は何も持たずに手ぶらで私たちの前に立ち、ゆっくりと視線を巡らせた。
「お前たちは第一壁を越え、膨大な魔粒子を体内に蓄える器を手に入れた。浅層の小型一号種小牙蜥蜴相手なら、その溢れ出た魔粒子を無意識に武器へ這わせるだけで十分に膜を貫けただろう。しかし中層の怪物相手にその無自覚な垂れ流しは通用しない。魔粒子は意識して操作し、圧縮し、爆発させるものだ」
教官は右手を軽く握り、私たちに見えるように掲げた。
「基礎となる概念は大きく分けて四つ。一部位集中、穂先誘導、踏み込み補強、そして防御瞬間強化だ。言葉にすれば単純に聞こえるかもしれない。しかしこれを実戦の極限状態で、息をするように行えなければ中層では生き残れない」
私は教官の言葉を一つも聞き逃すまいと、耳をすませた。
一部位集中。それは体内に漫然と循環している魔粒子を、特定の筋肉や関節に一瞬だけ集め、筋力を爆発的に跳ね上げる技術だ。
踏み込み補強。脚部の筋肉と地面の接点に魔粒子を集中させ、通常の肉体ではあり得ない加速と踏み込みの威力を生み出す。
防御瞬間強化。敵の攻撃を受けるその一瞬だけ、被弾箇所に魔粒子の装甲を形成し、物理的なダメージを殺す。
「そして最も重要になるのが穂先誘導だ。どれだけ強力な魔粒子を練り上げても、それが自分の肉体の中にとどまっている限り怪物の膜は貫けない。武器という外部の物質へ、自分の血を注ぎ込むように魔粒子を送り込み、刃の先端で一気に圧縮・燃焼させる」
鳴海教官が近くにあった演習用の鉄パイプを無造作に拾い上げた。ただの廃材にしか見えない錆びたパイプだ。
教官がそれに触れた瞬間、パイプの周囲の空気が陽炎のように揺らいだ。目に見えないはずの魔粒子が極限まで圧縮され、パイプの先端で青白い燐光となって弾けているのがはっきりと視認できた。
教官が軽く手首を返す。
それだけで、中層の怪物の膜を模したという分厚い硬質ゲル標的が、まるで熱したナイフでバターを切るように両断された。断面からは焦げたような煙が上がり、熱で溶けたゲルが床に滴り落ちている。
ダンジョン素材でもないただの鉄パイプで、これほどの威力を生み出せるのか。私は息を呑み、圧倒的な力の差を見せつけられた。
「これが魔粒子の燃焼だ。お前たちの持っている高級な武器は、この高負荷に耐えうる頑丈な導火線に過ぎない。火をつけるのはお前たち自身だ。では順番に標的の前に立て。まずは一部位集中と踏み込み補強を併用し、武器へ魔粒子を誘導して標的を突け」
指示が出され、受講生たちが次々と標的の前に進み出た。
彼らの多くは高校の専門コースや企業のエリート育成枠で基礎を叩き込まれてきた者たちだ。私の同期であった神谷のような、生まれつき魔粒子出力に長けた才能の持ち主たちである。
最初に出た大柄な男が大剣を構えた。
彼は深く息を吸い込み、太い両腕と踏み込む右足に魔粒子を集中させる。彼の周囲の空気がビリビリと震え、大剣の刀身が微かに赤みを帯びた。
裂帛の気合とともに大剣が振り下ろされる。
激しい破砕音とともに硬質ゲルが大きく抉られ、破片が周囲に飛び散った。完全に両断とまではいかないものの、中型種の膜を破るには十分な威力だ。
「次」
教官の淡々とした声に合わせて、次々と受講生たちが火力を披露していく。
槍を扱う者、双剣を扱う者、ハンマーを振るう者。武器の形状は違えど、彼らは皆、自分の体内の魔粒子を武器の先端へと導き、そこで爆発させる感覚を掴んでいるようだった。
もちろん教官の放った一撃には遠く及ばない。
私の番が回ってきた。
私は列から進み出て、手つかずの硬質ゲル標的の前に立った。
軽く足を広げ、Pierce 3《ピアス・スリー》の滑り止めの彫り込みが施された強化合金の柄を両手で握りしめる。
武器の重量バランスは完璧だ。浅層で使っていたレンタル品の安物とは違い、私の動きを一切阻害しない。あとはここに私の魔粒子を乗せるだけだ。
頭の中では鳴海教官の言葉が完璧に整理されていた。
右足の踏み込みに魔粒子を集中させる。同時に腰の回転から肩、肘、手首へと運動エネルギーを伝えながら、体内の魔粒子を柄から穂先へと一気に誘導する。そして標的に触れる瞬間に圧縮した魔粒子を爆発させる。
私は深く息を吐き、足元の石畳を蹴った。
鋭い踏み込み。狙いすました標的の中心へ向けて、Pierce 3《ピアス・スリー》の穂先を真っ直ぐに突き出す。
体内に満ちた広大な魔粒子の海から、力を引き出そうとした。
しかし、その瞬間、私の内側で致命的な齟齬が発生した。
一凸したことによって底なしに広がった私の魔粒子の器は、あまりにも静かで凪いでいた。
そこから必要な分だけの魔粒子をすくい上げ、腕の細い経絡を通して武器へと注ぎ込もうとする。それはまるで、巨大な湖の水を極細のストローで一気に吸い上げようとするような感覚だった。
出力の回路が細すぎるのだ。魔粒子は私の体内で渋滞を起こし、腕を伝って柄へと流れる過程でその大半が霧散してしまう。
穂先が硬質ゲル標的に激突した。
鈍い、情けない音が演習場に響く。
Pierce 3《ピアス・スリー》の鋭利な刃は標的の表面をわずかに削り、数センチ食い込んだところで完全に停止していた。
貫通しきれなかった物理的な反動が柄を伝って両腕に跳ね返り、手首と肩の関節に鋭い痛みを走らせる。
「……浅い」
背後から鳴海教官の冷徹な声が降ってきた。
「フォームは綺麗だ。運動エネルギーの伝達に無駄がない。しかし魔粒子が全く穂先に乗っていない。お前のそれはただの刺突だ。浅層の小牙蜥蜴の膜ならそれで破れるかもしれない。しかし中層の怪物はその程度の突きでは時間がかかり過ぎる」
私は唇を噛み締め、無言で槍を引き抜いた。
標的の表面には、まるで爪で引っ掻いたような浅い傷跡が残っているだけだった。他の受講生たちが残した深く抉られたクレーターのような痕跡とは比べ物にならない。
「もう一度だ。体内の魔粒子を血だと思って武器に流し込め。今は出し惜しみをするな」
教官の厳しい声に急かされ、私は再び構えを取った。
焦りが心拍数を上げる。私は体内の魔粒子を強引に引きずり出そうと力を込めた。
今度はストローではなく、バケツで水をぶちまけるような乱暴な出力。
踏み込みとともに槍を放つ。
だが、結果はさらに惨憺たるものだった。
強引に引き出された魔粒子は武器に到達する前に私の腕や肩の周囲から陽炎のように漏れ出し、無駄に空気を震わせるだけで終わってしまった。
穂先が標的に当たる頃には魔粒子の勢いは完全に失われ、先ほどよりもさらに浅い傷しか刻めなかった。
「力みすぎだ。魔粒子が暴走して体外に漏れている。武器という外部の器を自分の身体の一部として認識できていない証拠だ。それではただ疲労するだけだぞ」
教官の指摘は残酷なほどに的確だった。
私は息を荒くしながら、手元のPierce 3《ピアス・スリー》を見つめた。
最高の武器だ。私の拙い魔粒子操作でも文句一つ言わずに力を伝えようとしてくれる。しかし私自身の出力のパイプが詰まっているせいで、この武器のポテンシャルの数パーセントも引き出せていない。
「次、交代しろ」
無情な指示が出され、私は肩を落として列の後ろへと下がった。
訓練はその後も続いた。
一部位集中の応用である防御瞬間強化の訓練では、模擬弾を撃ち込まれる瞬間に被弾箇所へ魔粒子を集める技術が試された。
他の受講生たちが次々と魔粒子の装甲を形成し、模擬弾を弾き落としていく中、私はやはり魔粒子の移動が間に合わず、プロテクター越しに鈍い痛みを何度も味わうことになった。
彼らは息を乱しながらも確実に中層で生き残るための技術を形にしつつある。
私だけが、ただ一人、魔粒子を武器に乗せるという最も初歩的な段階で足踏みしていた。
浅層で私を支えていた異常なスタミナや、疲労を知らない継戦能力、そして急所を的確に見極める観察眼。それらはこの訓練場では全く評価されなかった。
中層では中型種の群れが同時に襲いかかってくる。悠長に急所を狙って削り合いをしている時間はない。一撃で敵の膜を粉砕し、数を減らさなければ即座に蹂躙される。
鳴海教官の言葉が何度も脳裏に蘇る。
周囲の受講生たちから向けられる視線が、徐々に変化していくのを感じた。
最初は私服に身を包んだ見慣れない女への警戒だったものが、何度やっても標的を傷つけることすらできない私を見て、明らかな侮蔑や同情へと変わっていく。
「あいつ、どうやってTier3に上がったんだ?」「浅層で雑魚狩りばかりしてポイント稼いだクチだろ」
そんな囁き声が聞こえたような気がした。
屈辱だった。
しかし反論する言葉もない。結果が全ての世界だ。
夕暮れ時。
全身の筋肉と関節に鈍い痛みを抱えながら、私はアパートへの帰路についていた。
肩に食い込むガンケースのベルトが、朝よりもずっと重く感じられる。四十万円を投資して手に入れた最高の武器が、今の私には不釣り合いな分不相応の長物のように思えてならなかった。
アパートの鉄扉を開けると、いつものように味噌汁と出汁の温かい匂いが出迎えてくれた。
「お姉ちゃん、おかえりなさい! 講習どうだった?」
エプロン姿の柚乃が明るい声で尋ねてくる。奥のテーブルでは陽菜が宿題のノートを広げていた。
私は努めて普段通りの、疲れを見せない笑顔を作った。
「ただいま。うん、色々と学ぶことが多かったよ。さすがに浅層とはレベルが違うね」
「そっか。でもお姉ちゃんなら絶対大丈夫だよ。すぐに中層に行けるようになるよ」
柚乃の無邪気な信頼が、今は少しだけ胸を締め付けた。
「ありがとう。手洗ってくるね」
私は洗面所に向かい、蛇口を捻って冷たい水で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔は、隠しきれない疲労と焦燥感に塗れていた。
私は両手で洗面台の縁を強く握りしめた。
理屈は分かっているのだ。
どうすれば魔粒子が燃焼するのか、どうすれば破壊力が生まれるのか。鳴海教官の動きも、他の受講生たちの魔粒子の流れも、私の目は全てを正確に捉えていた。
しかしそれを自分の身体で出力しようとすると、どうしても回路が繋がらない。膨大な魔粒子の海を前にして、私は水を汲み出す柄杓すら持っていない子供のようだった。
越えられない壁の高さに、息が詰まる。
妹たちに不自由な思いはさせない。そのために探索者になった。
浅層で稼げるようになったとはいえ、いつまでもそこに留まっているわけにはいかない。いずれ装備の維持費や生活の質を上げるためには中層の利益が必要になる。
「……明日は、絶対に」
鏡の中の自分に向かって低く呟いた。




