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第14話 相棒


 休日の昼下がり、古いアパートの自室に差し込む柔らかな春の陽光を背に受けながら、私は小さなちゃぶ台の上に広げた通帳と家計簿を静かに見つめていた。


 印字された数字の羅列が、この二ヶ月間の私の戦いの成果を如実に物語っている。

 一次処理施設で下請けの運搬要員や解体補助として働いていた頃の私の月収は、良くて二十万円に届くかどうかというところだった。そこから家賃や光熱費を引き、食べ盛りの妹二人の食費を捻出し、さらに三女である陽菜の学費、次女である柚乃の将来の進学準備金を取り分けると、手元に残る金額など雀の涙にも満たなかった。月末になるたびに、十円単位で切り詰める計算に頭を抱えていたものだ。


 だが、探索者として独立してからの収入は、控えめに言っても劇的に変化した。

 現在の私の収入構造は、大きく二つの柱から成り立っている。一つは探索者管理機構から支払われる基本任務報酬。これは浅層の定期的な巡回や、指定された怪物の間引きに対して支払われる定額の協力金だ。そしてもう一つ、収入の大部分を占めるのが、倒した怪物から剥ぎ取った素材の売却益である。


 怪物の皮、牙、骨、そして稀に得られる特殊な器官。これらはすべて、防具や武器、あるいは工業製品の材料として重宝されるため、市場において常に高い需要がある。歩合制である以上、狩れなければ収入はゼロになるというリスクはあるものの、私にはその心配は無用だった。

 長年の下請け経験で培った解体技術により、私は素材に一切の傷をつけることなく、最高品質の状態で納品し続けることができた。さらに、第一壁を突破したことで異常なスタミナと処理速度を手に入れた私は、他の新人探索者の何倍もの数の小牙蜥蜴(ミニリザード)を毎日安定して狩り続けることができたのだ。


 結果として、先月の私の純利益は八十万円を超えていた。

 非探索者時代の四倍以上だ。


 通帳の残高を見て、私は深く息を吐き出した。

 生活は明らかに楽になった。スーパーの特売日を血眼になって確認する必要もなくなり、妹たちに季節の果物や少し上等な肉を食べさせてやれるようになった。柚乃の進学用の定期預金にも、十分な額を回すことができている。両親が遺したわずかな借金も、このペースなら年内には完済できるだろう。


 だが、探索者としての生活が潤ったからといって、手放しで喜んでばかりもいられない。

 稼いだ金は、そのまま次の命の保証へと投資しなければならないからだ。


 私は机の脇に立てかけてある、管理機構からレンタルしている初心者用の短槍へ視線を向けた。

 毎日手入れをしてはいるものの、Tier1相当の安価な素材で作られた穂先は摩耗し、柄の合金部分には細かい亀裂が走り始めている。今の私の増大し続ける魔粒子出力に、この武器は完全に耐えきれなくなっていた。

 近いうちに中層への進入資格を得るための講習を受けるつもりでいるが、このなまくらな槍と、使い古した天城装具社製の廉価な防具で中層の怪物に挑むのは、自殺行為に等しい。


「……買いに行かないとね」


 私は通帳を大事に引き出しの奥へとしまい込み、立ち上がった。

 今日は週に二日設けている貴重な完全休日だ。妹たちは揃って友人と出かけており、家には私一人しかいない。装備を新調するには絶好の機会だった。

 財布の中に、生活費と貯金を取り分けた後の自由資金である約七十万円の現金とキャッシュカードが入っているのを確認し、私はアパートを後にした。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 大都市の地下、ダンジョンエントランスに隣接する巨大な商業区画。

 そこは、探索者たちの命を繋ぐための武具店や素材買取所、工房などがひしめき合う、独特の活気と鉄の匂いに満ちた街だった。


 私が向かったのは、メインストリートから少し外れた静かな通りにある一軒の店だ。

 華やかなネオンサインや派手な客引きなどは一切ない。重厚なレンガ造りの外観に、鈍く光る真鍮製の看板が一つだけ掲げられている。

 そこには『霧峰装備工業きりみねそうびこうぎょう 直営店』と彫り込まれていた。


 霧峰装備工業。

 探索者界隈でその名を知らない者はいない老舗のメーカーだ。最新の軽量素材や派手なギミックを売りにする新興メーカーとは一線を画し、昔ながらの堅牢な作りと、過酷な現場で絶対に壊れないという圧倒的な信頼性を武器にしている。私が以前補助枠としてお世話になったベテラン探索者の相馬も、ここの長槍を愛用していた。


 重い木製のドアを押し開けて店内に入ると、油と研磨剤、そして質の良い革の匂いが鼻をくすぐった。

 店内は薄暗いが、陳列されている武具の数々にはスポットライトが当てられ、鈍い光を放っている。棚には用途別に分けられた剣や槍、斧などが整然と並び、壁際には部位ごとの防具が展示されていた。


 私はまず、防具のコーナーへと足を運んだ。

 現在着ている天城装具社製のジャケットも限界が近い。できれば全身の装備を一新したいところだ。

 中層での戦闘を想定した、Tier3以上の素材が使われた防具のタグを手に取る。


 そこには、三十五万円という数字が印字されていた。


「……三十五万」


 思わず声が漏れた。

 それも、胸部を守るプロテクター単体の値段だ。腕、脚、そしてインナーとなる強化繊維のジャケットまで一式を揃えようとすれば、軽く百五十万円は飛んでいく計算になる。

 浅層で狩る小牙蜥蜴(ミニリザード)などのTier1素材で作られた初心者用防具が、一式で十万円程度で買えるのに対し、中層の怪物から採れるTier3素材を使用した装備は、価格の桁が違うのだ。魔粒子との親和性を高める特殊な加工技術が必要になるため、素材の希少性と相まって値段が跳ね上がるらしい。


 私の現在の全財産は七十万円。

 どう計算しても、防具の全身更新は不可能だった。


「いらっしゃいませ。防具をお探しですか?」


 ショーウィンドウを食い入るように見つめていると、店の奥から初老の店員が静かに声をかけてきた。革張りのエプロンを身につけた、職人上がりのような渋い雰囲気の男性だ。


「いえ……素晴らしい品ですが、今の私の予算では全身を揃えるのは難しそうです。防具はもう少し先になりそうですね」

「左様ですか。中層向けの装備となると、どうしても値が張りますからね。しかし、お客様のその着込まれたジャケットを見るに、浅層では相当な数の現場をこなしておられるようだ。第一壁を突破されたばかりの、Tier3の探索者様とお見受けします」

「……分かりますか」

「ええ。身のこなしと、足の運び方で。それに、お客様の体内に流れる魔粒子の密度は、その廉価な防具では抑えきれずに漏れ出していますから」


 店員は穏やかに笑いながら、私の腰に提げられた使い古されたレンタル品の短槍へと視線を移した。


「防具の更新が難しいのであれば、まずは主武器の更新を強くお勧めします。どれほど硬い鎧を着ていても、敵の膜を貫けなければいずれ死にます。最大の防御は、確実な火力ですから」

「私もそう思います。防具は今の回避主体の立ち回りでなんとか誤魔化せますが、武器の出力限界だけは、自分の技術ではどうにもなりません」

「おっしゃる通りです。どのような武器をお求めですか?」


 私は少し考えてから、明確な要望を口にした。


「槍を。今の短槍よりリーチがあり、それでいて取り回しの効くもの。そして何より、中層の怪物の分厚い膜を確実に貫けるだけの魔粒子伝導率を持つものを探しています」


 店員は深く頷き、「こちらへどうぞ」と私を長柄の武器が並ぶコーナーへと案内した。


「霧峰の槍は、一部の天才が好むようなピーキーなチューニングは施していません。誰が使っても安定した出力を発揮し、どんな過酷な環境でも刃こぼれを起こさない堅牢さが売りです」


 店員は手袋をはめ、ガラスケースの中から一本の槍を取り出した。

 全長はおよそ百六十センチほど。今の短槍よりは長いが、狭い地下道でも壁に干渉せずに振り回せる絶妙な長さだ。

 柄の部分は深い黒色に染められた特殊な強化合金でできており、滑り止めの細かい彫り込みが施されている。そして穂先は、刃渡り三十センチほどの洗練された両刃の剣型をしていた。


「当店のベストセラーモデルにして、多くの中堅探索者に愛されている傑作。名称は『Pierce 3(ピアス・スリー)』。穂先には中層の主である硬殻種の角をベースに、高純度の魔粒子伝導材を鍛ぎ込んであります。Tier3からTier4の下位層まで、十分に対応できる性能を誇ります」


 店員から差し出されたその槍を、私は両手で受け取った。

 ずっしりとした重量感が腕に伝わる。だが、バランスが完璧に計算されているため、構えてみると数値ほどの重さを感じない。柄の太さも、私の手に吸い付くように馴染んだ。


「少しだけ、魔粒子を通してみても構いませんか?」

「ええ、もちろん。存分にお試しください」


 私は周囲に商品や他の客がいないことを確認し、軽く足を開いて槍を構えた。

 体内の奥底で静かに循環している魔粒子を、右腕の経絡を通して槍の柄へと流し込む。


「っ……!」


 私は息を呑んだ。

 これまでのレンタル品の短槍は、細いストローに無理やり水を流し込んでいるような抵抗感と詰まりがあった。魔粒子が穂先に到達するまでにかなりのロスが生じていたのだ。

 だが、このPierce 3(ピアス・スリー)は全く違った。

 私が流し込んだ魔粒子は、一切の抵抗なく、まるで太い血管を通る血液のようにスムーズに穂先へと吸い込まれていく。そして、両刃の穂先が青白い燐光を帯び、空気を微かに震わせ始めた。


 圧倒的な親和性。

 これなら、今まで私が無駄に消費していた魔粒子を百パーセントの効率で刃に変換できる。第一壁を突破した今の私の出力を、限界まで引き出してくれる器だ。

 神谷のような天才的な瞬間火力がなくとも、この槍の伝導率があれば、中型種甲牙狼(アームファング)のような分厚い膜であっても、容易く切り裂くことができると確信できた。


 私はゆっくりと魔粒子の供給を止め、槍を立てた。

 指先には、確かな高揚感が残っている。


「素晴らしい槍です。自分の身体の延長のように感じました」

「お気に召したようで何よりです。お客様の魔粒子の練り上げも、非常に静かで淀みがない。この槍も、良い持ち主に出会えて喜んでいるでしょう」

「値段は、おいくらですか?」


 私が尋ねると、店員は穏やかな笑みを崩さずに答えた。


「税込みで、四十二万八千円となります」


 四十二万八千円。

 私の手持ちの自由資金の、半分以上が一瞬にして吹き飛ぶ金額だ。非探索者時代の私からすれば、半年近く働いてようやく貯まるかどうかの大金。

 少し前までスーパーの特売品で数十円の節約に血道を上げていた私が、一本の槍にそれだけの金を払おうとしている。金銭感覚のバグに、少しだけ目眩がした。


 だが、これは浪費ではない。投資だ。

 妹たちの未来を守り、私がこの先の死地から確実に帰還するための、命の値段。

 それを出し渋る理由など、どこにもなかった。


「買います。これをお願いします」


 私が財布からカードを取り出して差し出すと、店員は深く頭を下げた。


「毎度ありがとうございます。末長く、お客様の命を守る盾と剣になることをお約束いたします」


 決済の端末に暗証番号を打ち込む瞬間、指が少しだけ震えた。

 口座から四十万円以上の数字が引き落とされる重み。それは、私が本当の意味で「命を懸けて稼ぐ探索者」の領域に足を踏み入れたことを、実感させる痛みを伴う儀式だった。


 手続きを終え、専用の頑丈なガンケースのような箱に収められたPierce 3(ピアス・スリー)を受け取る。

 肩にかけるベルトの重さが、今はひどく心地よかった。


「メンテナンスの方法や、刃こぼれが生じた際の修理なども承っております。いつでもお立ち寄りください」

「ええ、必ずまた来ます。次は、防具を買えるくらい稼いでからですね」


 私は店員に笑いかけ、霧峰装備工業の直営店を後にした。


 外に出ると、地下の商業区画にも人工の夕暮れを思わせるオレンジ色の照明が灯り始めていた。

 行き交うベテラン探索者たちの装備を見ても、以前のように完全に別世界の住人だとは感じない。私も今、彼らと同じ本物の武器を背負っているのだ。


 新しい相棒であるPierce 3(ピアス・スリー)

 この槍を振るい、中層の分厚い膜を貫く自分の姿を想像する。

 第一壁を突破し、Tier3へと昇格し、そして本物の武器を手に入れた。

 中層への進入資格を得るための中層講習の受講条件は、これで全て整ったと言っていいだろう。


(待っててね、柚乃、陽菜。お姉ちゃんはもっと稼げるようになるから)



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