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第12話 初昇格


 浅層での単独探索を開始してから、およそ一ヶ月半という月日が流れた。


 薄暗い地下迷宮へと潜り、怪物を狩り、素材を回収して地上へと戻る。月曜から金曜まで、週に五日。その単調なサイクルの繰り返しは、私の身体に新しい生活のリズムとして完全に定着していた。

 朝、目覚まし時計が鳴るよりも早く自然と目が覚める。古びたアパートの窓から差し込む朝日を浴びながら、私はキッチンに立ち、妹たちのために朝食と弁当を作る。


「お姉ちゃん、おはよう。今日の卵焼きは甘めにしてね」

「おはよう、陽菜。分かってるよ。柚乃は出汁巻きがいいんだよね」

「うん、お願い。お姉ちゃん、最近朝からすごく元気だね」


 パジャマ姿のまま起きてきた柚乃と陽菜が、食卓で温かいほうじ茶を啜りながら笑いかけてくる。

 下請けの作業員として働いていた頃は、慢性的な疲労で朝起きるのが辛い日も多かった。だが今は違う。ダンジョンで怪物を討伐するたびに体内に取り込まれる魔粒子が、睡眠時の回復力を飛躍的に高め、細胞の隅々まで活力を満たしてくれているのだ。


 朝食のメニューも、以前より少しだけ豊かになった。

 もやしと安売りの豚肉ばかりだった食卓に、旬の野菜や新鮮な魚、少し上等な牛肉が並ぶ日が増えた。陽菜が欲しがっていた学習参考書も躊躇うことなく買ってやれたし、柚乃の将来の進学資金として、銀行口座に毎月定額を貯金する余裕も生まれた。


 単独で稼ぐ探索者としての収入は、一次処理施設での下請け時代とは比べ物にならない。

 歩合制の恐ろしさは、怪物を狩れなければ収入がゼロになるということだが、私にはその心配はなかった。安全マージンを極限まで確保しながらも、確実に獲物を仕留め、一切の無駄なく素材を剥ぎ取る。その効率的な立ち回りは、日を追うごとに洗練され、安定した利益を私にもたらしていた。


「ごちそうさま。じゃあ、今日も行ってくるね」

「いってらっしゃい、お姉ちゃん! 気をつけてね!」

「怪我しないで帰ってきてね」


 妹たちの明るい声に見送られ、私はアパートの鉄扉を開けた。

 玄関を出て、駅へと向かう道のり。私の身体には、天城装具社製の廉価な防具が馴染んでいた。一ヶ月半の間に何度も怪物の血や泥を浴び、その都度丁寧に洗い落としてきたジャケットとプロテクターは、新品の頃の硬さが抜け、私の動きを阻害しない第二の皮膚のように機能している。

 腰には、管理機構からレンタルしている初心者用の短槍。柄の塗装は剥げかけ、Tier1素材で作られた穂先には細かい傷が無数に入っている。毎晩自分で研ぎ直し、メンテナンスを欠かしていないとはいえ、さすがに限界が近づいているのを感じていた。


 大都市の地下に広がるダンジョンエントランス。

 私はいつものように管理機構のカウンターで入場手続きを済ませ、探索者専用の重厚なゲートをくぐり抜けた。


 湿り気を帯びた冷たい風が、地下深くから吹き上げてくる。

 壁面に群生する発光苔の青白い光を頼りに、私は浅層の第二区画から第三区画へと通じる見慣れたルートを歩き始めた。

 周囲に他の探索者の気配はない。索敵の基本は、視覚よりも聴覚と嗅覚だ。岩肌を伝う微かな振動、カビと土の匂いに混じる、獣特有の生臭い体臭。私は立ち止まることなく、それらの情報を脳内で処理していく。


 前方の分岐路から、低い唸り声が聞こえた。

 這い出てきたのは、三匹の小型一号種小牙蜥蜴ミニリザードだ。緑色の硬質な鱗と、その表面を覆う無色透明の魔粒子膜。

 一ヶ月半前、初めて単独でこいつらと遭遇した時は、背後を守る仲間がいない恐怖に心臓が早鐘を打ったものだ。だが今は、まるで毎日のルーチンワークをこなすかのような凪いだ心境だった。


 小牙蜥蜴ミニリザードたちが床を蹴り、低い姿勢から一斉に襲いかかってくる。

 私は半歩だけ後退し、三匹の軌道が最も密集するポイントを見極めた。先頭の一匹が牙を剥いて飛びかかってきた瞬間、私は腰に提げた短槍を極めてコンパクトな動作で突き出した。


 魔粒子を纏わせた穂先が、怪物の膜を難なく中和し、開かれた顎の下から脳髄へと一直線に突き刺さる。

 確かな手応えと共に一匹目を瞬殺し、私は槍を引き抜く反動を利用して身体を右に捻った。二匹目の突進を紙一重で躱し、すれ違いざまに前脚の関節部を刃で切り裂く。

 機動力を奪われて床に転がった二匹目を放置し、背後から迫る三匹目に向き直る。怪物が跳躍するより早く、私は踏み込んで槍を放ち、その首の付け根を正確に穿った。

 最後に、床で藻掻く二匹目の頸椎に刃を滑り込ませて動きを止める。


 遭遇から討伐完了まで、息を乱すことすらなく、ほんの数秒の出来事だった。


 槍の柄を伝って、三匹分の魔粒子が私の体内へと流れ込んでくる。

 身体の奥底から湧き上がる熱。異常な吸収効率を持つ私の細胞は、そのエネルギーを一滴残らず飲み込み、自身の血肉として定着させていく。

 毎日この浅層で数十匹の小牙蜥蜴ミニリザードを狩り続けているおかげで、私の体内魔粒子量は右肩上がりで増加していた。それに伴い、基礎的な身体能力、動体視力、そして魔粒子を武器へ練り上げる速度も劇的に向上している。

 だからこそ、これほどまでに余裕を持って立ち回れるのだ。


 私はすぐさま腰のポーチから解体ナイフを取り出し、死骸の処理に取り掛かった。

 関節の隙間に刃を入れ、皮を剥ぎ、牙を回収する。血の匂いが他の怪物を引き寄せる前に作業を終わらせるための、無駄を削ぎ落とした最短の工程。下請け時代に培った技術は、単独探索における最大の生存武器となっていた。


 三匹分の素材をバックパックに詰め込み、私は再び歩き出す。

 この日も、私は浅層を数時間にわたって巡回し、遭遇した小牙蜥蜴ミニリザードの群れを次々と処理していった。怪我は一つもない。集中力が途切れることもない。ただ淡々と、確実に利益を積み重ねていく。


 午後四時。

 設定していた帰還の時刻を迎え、私はエントランスの換金所へと戻ってきた。

 ずっしりと重くなったバックパックをカウンターに置き、中身を取り出す。査定担当の職員は、私の顔を見るなり愛想の良い笑みを浮かべた。


「お疲れ様です、藤崎さん。今日も大漁ですね。しかも、相変わらず素材の傷が少なくて素晴らしい状態です」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 査定が終わり、金属製のトレーに乗せられた紙幣を受け取る。

 今日一日分の稼ぎは、私が非探索者として働いていた頃の数日分に相当する額だった。この数週間、毎日この額を稼ぎ続けているのだから、生活が楽になるのは当然だ。


 だが、私はその紙幣を財布にしまいながら、小さく息を吐いた。

 エントランスに併設されている探索者向けの武具店。そのショーウィンドウの前に立ち、陳列された装備を眺める。


 そこには、玄崎機工製の長槍や、霧峰装備工業の最新型防具が飾られている。

 中層以上での戦闘を視野に入れた、Tier3以上の強力なダンジョン素材をふんだんに使用した一級品だ。その値札に並ぶゼロの数は、今の私が毎日稼いでいる金額の数十倍、いや数百倍に達するものもあった。


 生活は確かに豊かになった。妹たちに美味しいものを食べさせ、貯金もできている。

 しかし、探索者としての生存確率を根底から引き上げる「装備の更新」という壁は、まだまだ途方もなく高く、遠い。

 今私が使っているレンタル品の短槍と、廉価な防具。これらはいずれ限界を迎える。浅層の小牙蜥蜴ミニリザード相手なら今の技術とスタミナで十分に対応できるが、もし再びあの中型種のようなイレギュラーに遭遇した場合、この装備では私の魔粒子出力を支えきれず、最悪の場合は武器が砕け散る。


 より安全に稼ぐためには、より良い装備が必要だ。

 そのためには、さらに効率よく、より価値の高い素材を求めて深く潜らなければならない。

 ウィンドウに映る自分の姿を見つめながら、私は唇を引き結んだ。


 その時、私が身につけている探索者専用の携帯端末が、短く電子音を鳴らした。

 管理機構からの個別通知だ。

 画面を開くと、そこには簡潔なメッセージが表示されていた。


『藤崎千夏 様

 日頃の探索活動、お疲れ様です。

 貴方のこれまでの討伐実績、ならびに直近の体内魔粒子量測定の結果が、規定の基準を満たしました。

 これに伴い、貴方の探索者階級を Tier1 から Tier2 へと昇格させます。

 新たなライセンスカードの交付手続きを、管理機構窓口にて行ってください。』


 私はその文面を二度、三度と読み返した。

 Tier2への昇格。

 それは、最底辺の初心者マークが外れ、正式に一人前の探索者として、浅層のより深い領域や、特定のクエストを受注する資格を得たことを意味していた。

 一般的には、Tier1からTier2へ上がるまでに半年から一年はかかると言われている。だが私は、単独探索を開始してからわずか一ヶ月半でその基準に到達したのだ。

 私の異常な吸収効率と、毎日休むことなく反復し続けた討伐の積み重ねが、明確な結果として実を結んだ瞬間だった。


 私は携帯端末をポケットにしまい、顔を上げた。

 武器屋のショーウィンドウに飾られた高価な装備の数々が、先ほどよりも少しだけ、手の届く距離に近づいたような気がした。


「……まずは、この短槍の代わりになるものを探さないとね」



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