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第11話 初単独探索


 古いアパートの薄い壁をすり抜けて、夜明け前の冷たい外気が部屋を満たしている。

 私はセットしていたスマートフォンのアラームが鳴る一分前に目を覚まし、静かに画面をタップしてアラームを解除した。隣の部屋からは、柚乃と陽菜の穏やかな寝息が規則正しく聞こえてくる。


 布団から抜け出し、冷え切ったフローリングに足をつく。つま先から伝わる冷たさに微かに身震いしながら、私はキッチンへと向かった。

 蛇口を捻り、冷水で顔を洗って意識を覚醒させる。タオルで顔を拭い、鏡の中で自分の鋭い目つきと向き合った。

 今日から、私の探索者としての生活は新しい段階に入る。


 冷蔵庫を開けると、モーターの低い稼働音が鳴った。中にあるのは、昨日スーパーの特売で買っておいた豚肉の細切れと、安売りのもやし、そして特売の卵パック。

 私はフライパンを熱し、手際よくもやしと豚肉の炒め物を作る。塩と胡椒、そして少しの醤油で味を調えるだけの簡素なものだが、育ち盛りの妹たちにとっては大切なエネルギー源だ。並行して卵焼きを焼き、彼女たちの弁当箱へと詰めていく。

 最後に自分の分として、大きめのタッパーにご飯と炒め物を無造作に詰め込んだ。ダンジョン内での休息時に食べる、塩分とカロリーを補給するための実用的な食事だ。


 弁当の準備を終え、私は自室で防具の装着に取り掛かった。

 天城装具社製の廉価なジャケットに袖を通す。生地は硬く、着心地が良いとは言えないが、魔粒子膜を持たない人間の肉体を怪物の爪や牙から守るための最低限の命綱だ。胸部と関節部を保護するプロテクターを当て、ベルトのバックルを一つずつカチリと音を立てて確実に締め上げていく。

 腰には、管理機構からレンタルしている初心者用の短槍を提げる。

 その重みを感じながら、私は深く息を吐いた。


 今日から、私は単独で浅層の探索に出る。

 これまでの数週間、相馬の率いる第三班の補助枠として現場の空気を学ばせてもらった。中型種である甲牙狼の討伐というイレギュラーを乗り越えたことで、私の生存能力と判断力はベテランたちから十分な評価を得ることができた。

 だからこそ、相馬は私に独り立ちを勧めた。これ以上、他人の背中を眺めているだけでは得られない経験が、単独探索にはあるのだと。


「お姉ちゃん、おはよう」


 背後から声がして振り返ると、パジャマ姿の柚乃が目をこすりながら立っていた。


「おはよう、柚乃。お弁当、テーブルの上に置いてあるからね」

「うん、ありがとう。……今日から、一人で行くんだよね」


 柚乃の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。

 これまではベテランの探索者たちと一緒だからと安心させていたが、今日からは全てを一人でこなさなければならない。万が一怪我をして動けなくなっても、助けてくれる仲間はいないのだ。


「大丈夫だよ。相馬さんたちに教えてもらったことをしっかり守れば、浅層で命を落とすことはない。それに、私には逃げ足の速さがあるからね」

「……絶対に、無茶はしないでね。少しでも危ないと思ったら、すぐに帰ってきて」

「約束する。夕方にはちゃんと帰ってくるよ」


 私は柚乃の頭を優しく撫で、玄関へ向かった。

 分厚いブーツの紐を締め、ドアノブに手をかける。

 補助枠としての固定給は昨日で終わった。今日から私が手にする収入は、完全に歩合制となる。自分がダンジョンで狩り、素材を回収した分だけが、そのまま現金として支払われる。

 妹たちに不自由な思いをさせないために、そして将来の学費を稼ぐために。週に五日、私はこれから二ヶ月間、単独でダンジョンに潜り続ける計画を立てている。

 その重圧が、冷たい扉の感触とともに私の掌にのしかかってきた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 大都市の地下に広がるダンジョンエントランスは、早朝から多くの探索者たちでごった返していた。

 金属製の防具が擦れ合う音、大声で情報交換をする声、安っぽい缶コーヒーとタバコの匂い。活気と殺伐さが入り交じる独特の空気に、私は一人で身を投じた。


 管理機構の受付カウンターに向かい、ライセンスカードを提示する。


「藤崎千夏さん。本日から単独探索の申請ですね」


 窓口の職員が、手元の端末を操作しながら事務的な口調で確認してきた。


「はい。浅層の第一区画から第三区画を予定しています」

「経歴を拝見しました。Tier1での単独探索は原則として推奨していませんが、第三班の相馬氏からの推薦状が提出されていますね。規定により許可は下りますが……」


 職員は端末から顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見た。


「新人探索者の死亡事故の八割は、単独探索を開始した直後の三ヶ月間に集中しています。背後を守る仲間がいないことの重みを、決して忘れないでください。少しでも異常を感じたら、即座に撤退を」

「肝に銘じておきます」


 私は深く頭を下げ、許可証を受け取った。

 エントランスの奥、重厚な金属製のシャッターが口を開けているゲートへと歩を進める。

 周囲には、数人でパーティーを組み、談笑しながらゲートへ向かう探索者たちの姿がある。これまでは私も相馬たちの背中を追いかけてあの輪の中にいた。だが今は、前後左右どこを見回しても、頼れる背中はない。

 一人でゲートの境界線を越え、ダンジョン内部へと足を踏み入れた瞬間、空気が劇的に変わった。


 肌にまとわりつくような湿気と、カビと土が混ざったような地下特有の匂い。

 壁面には青白い光を放つ発光苔が点在しているが、それでも視界の奥は濃密な闇に覆われている。

 これまでは四人分の足音が通路に反響していたが、今は私のブーツが石畳を叩く単調な音だけが、不気味なくらい大きく響いていた。


 静寂が、鼓膜を圧迫する。


 相馬がいれば、彼が熱源探知機で怪物の位置を正確に割り出してくれた。大盾の男がいれば、奇襲を受けても彼が強固な壁となって防いでくれた。クロスボウの青年がいれば、死角からの攻撃を牽制してくれた。

 そのすべての役割を、これから先は私一人で担わなければならない。


 私は歩みを緩め、壁を背にするようにして立ち止まった。

 目を閉じ、深く息を吸い込む。

 視覚に頼れないのなら、聴覚と嗅覚、そして肌で感じる空気の震えに全神経を集中させるしかない。

 水滴が水たまりに落ちる微かな音。遠くで岩が擦れるような音。

 そして、微かに漂ってくる、獣の脂と血の入り交じったような生臭い匂い。


 目を開き、腰の短槍を静かに引き抜いた。

 右前方の曲がり角。岩陰の暗がりから、複数の気配が近づいてくる。


 低い唸り声とともに姿を現したのは、小牙蜥蜴(ミニリザード)だった。数は二匹。

 緑色の鱗と、その表面を覆う無色透明の魔粒子膜。

 相馬のパーティーにいた頃なら、物の数秒で処理できる相手だ。だが、今の私には背中を守ってくれる盾はない。一匹を相手にしているわずかな隙に、もう一匹が死角から首筋に食らいついてくるかもしれないという恐怖が、冷たい汗となって背筋を伝った。


 これが、一人で判断し、一人で戦うということ。


 怪物が床を蹴り、低い姿勢から私に向かって突進してくる。

 私は恐怖を強引に意識の底へと押し込み、体内に定着した魔粒子を槍の穂先へと薄く練り上げた。

 壁を背にしたまま、死角を完全に消す位置取りを保つ。


 先頭の一匹が跳躍した。

 私は慌てることなく、半歩だけ身体を沈めて怪物の軌道を躱す。同時に、右手の短槍をコンパクトに突き出した。

 狙うのは、解体作業で熟知している前脚の関節部。刃先が膜を中和し、鱗の隙間から腱を的確に断ち切る。


 一匹目が体勢を崩して床に落下した瞬間、二匹目が私の左側面を狙って飛びかかってきた。

 槍を引き戻す時間はない。

 私は咄嗟に左腕のプロテクターを盾にして怪物の牙を受け止めた。強化繊維と怪物の膜が激突し、骨まで響くような鈍い痛みが走る。


「くっ……!」


 痛みに顔を歪めながらも、私は怪物の顎をプロテクターごと力任せに弾き返した。

 態勢を崩した二匹目の腹部へ、引き戻した短槍を真っ直ぐに突き入れる。確かな肉を断つ手応えとともに、怪物が絶命する。

 間髪入れず、床で藻掻いていた一匹目の頸椎に刃を滑り込ませ、その命を絶った。


 静寂が戻る。

 私は荒い息を吐きながら、槍の柄を伝って流れ込んでくる魔粒子の熱を感じていた。

 心臓が警鐘のように鳴り響き、左腕には鈍い痛みが残っている。たった二匹の小型種を相手にしただけで、これほどの精神的疲労を伴うのかと、私は自分の未熟さを痛感した。


「……まだ、終わってない」


 自分に言い聞かせるように呟き、私はすぐさま怪物の死骸のそばにしゃがみ込んだ。

 ここからは解体と回収の作業だ。

 だが、これまでのようにお手本のような手際で作業に没頭することは許されない。刃を肉に入れながらも、常に周囲の物音と気配に意識の半分を割き続けなければならない。血の匂いは、新たな怪物を引き寄せる強力な誘蛾灯となるからだ。


 周囲を警戒しながら、ナイフで皮を剥ぎ、牙を切り取る。

 焦りからナイフの角度がわずかに狂いそうになるのを、深呼吸で無理やり補正する。

 解体を終え、回収した素材をバックパックに詰め込むと、ずっしりとした重みが肩にのしかかった。


 この重みが、私一人で稼いだ利益だ。

 誰にも分配する必要のない、妹たちの生活を支えるための対価。


 私は立ち上がり、再び槍を構えて薄暗い通路の先を見据えた。

 恐怖はある。たった一人でこの広大な地下迷宮を歩き続ける孤独は、想像以上に私の心を削っていく。

 だが、それでも前に進むしかない。

 怪物を倒し、素材を剥ぎ取り、安全に地上へと帰還する。

 このサイクルを、今日だけでなく、明日も、明後日も、これから週に五日のペースで延々と反復し続けるのだ。


 数時間の探索を終え、私はエントランスの換金所へと戻ってきた。

 カウンターにバックパックを置き、回収した小牙蜥蜴(ミニリザード)の皮と牙を提出する。

 査定を行う職員の事務的な動きを眺めながら、私は左腕の痛みを軽くさすった。


「査定終わりました。状態は良好ですね。規定の手数料を引きまして、本日の買取額はこちらになります」


 金属製のトレーに乗せられた数枚の紙幣と硬貨。

 相馬たちのパーティーで補助枠として受け取っていた日給よりも、明らかに多い金額だった。


 私はその紙幣を手に取り、財布にしまう。


 探索者は稼げる。

 私は単独探索を経て、ようやく実感を噛みしめることができた。



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