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第10話 はぐれ個体


 浅層の探索において、時間の経過は地上のそれとは異なる粘度を持っている。

 太陽の光が届かない地下空間では、壁面に群生する発光苔の青白い光だけが時間の連続性を証明する唯一の道標だ。冷たく湿った空気が岩肌を撫で、微かな水滴の音が遠くで反響している。


 私が相馬の率いる第三班に補助枠として同行するようになってから、およそ二週間が経過していた。

 探索者としての生活リズムにも完全に適応し、浅層の環境や怪物の生態に対する理解も深まっている。今日私たちが足を運んでいるのは、浅層の中でもかなり奥深く、中層への入り口に近いエリアだった。


 前方から迫り来る二匹の小型一号種――小牙蜥蜴(ミニリザード)に対し、私は腰に落とした重心を保ったまま静かに待ち構えた。

 怪物が床を蹴って跳躍する。その軌道は、今の私の目にはまるで水中の動きのように緩慢に見えた。私は左足を軸にして身体を半身に開き、空を切った怪物の着地際を狙って右手の短槍を突き出す。

 魔粒子を穂先に薄く、しかし鋭く集中させる感覚。それは日々の反復と、私の身体が持つ異常な吸収効率によって、もはや呼吸をするのと同じくらい自然な行為となっていた。

 刃先が怪物の前脚の関節部を正確に捉え、膜を中和して腱を断ち切る。機動力を失い床に転がった一匹目を放置し、そのままの勢いで身を翻して二匹目の首元へと槍を滑り込ませた。

 頸椎を的確に破壊された怪物は、短い痙攣ののちに完全に沈黙した。残る一匹も、態勢を立て直す前に後頭部を刺し貫いて処理を終える。


「……いい、無駄のない動きだ。補助枠の仕事の範疇をとうに超えているぞ、藤崎」


 後方で警戒に当たっていた相馬が、感心したような、半ば呆れたような声で言った。

 大盾の男とクロスボウの青年も、私の戦いぶりを無言で肯定するように頷いている。最近では、遭遇した小型種の一部を私が単独で処理し、その間に彼らが休息を取るというローテーションすら成立しつつあった。


「ただの反復作業の成果です。急所を突けば倒れる。処理施設で毎日見てきたことの応用ですから」

「言うのは簡単だがな。実際に生きた怪物を相手に、あそこまで冷静に急所だけを狙い続けられる新人はそういない」


 私は槍についた体液を払い、すぐさま解体作業へと移行した。

 慣れた手つきで皮を剥ぎ、魔粒子の膜の残滓を処理していく。私の体内に新たな魔粒子が流れ込み、血肉と同化していくのを感じる。筋肉の疲労感は皆無に等しく、むしろ身体の奥底から湧き上がるような熱量に満ちていた。


「よし、回収完了しました。次に進めます」

「ああ。だが、少し空気が重いな。このエリアは中層からの吹き抜けに近い。慎重に行くぞ」


 相馬の指示に従い、私たちは再び隊列を組んで薄暗い通路を奥へと進んだ。

 足元の石畳は削れ、ところどころに深い水たまりができている。空調の効いた訓練施設とは違い、足場の悪さが体力を削り、判断力を鈍らせる。これが現場のリアルだ。


 歩みを進めて十分ほど経った頃、先頭を行く相馬がピタリと足を止めた。

 彼が手にしている熱源探知機のディスプレイを険しい表情で覗き込んでいる。私もすぐさま立ち止まり、周囲の気配に意識を研ぎ澄ませた。


「……おかしい。前方三十メートル、通路の交差点に大きな熱源がある。小型種の群れじゃない。一つに固まった巨大な反応だ」

「まさか、中型種ですか」


 大盾の男が低い声で問いかける。

 浅層に中型種が出現することは基本的にはない。だが、ダンジョンという構造上、階層間の境界は必ずしも明確に遮断されているわけではなく、上の階層へと迷い込んでくるはぐれ個体が存在することは知識として知っていた。


「ああ、おそらく中層から迷い込んだはぐれ個体だ。大きな異変の予兆というわけではないだろうが、運が悪い。今の俺たちの装備でまともにやり合うのはリスクが高すぎる」


 相馬は舌打ちをし、背中の長槍の柄を握りしめた。

 探索者の鉄則は、倒すことより生きて帰ることだ。勝算の低い戦いは避け、確実な安全を取る。それがベテランの判断だった。


「総員、反転して撤退する。足音を殺せ。気づかれる前に距離を――」


 相馬が撤退の指示を出し終えるより早く、前方の暗闇から低く重い咆哮が響き渡った。

 地下空間の空気を震わせるほどの圧倒的なプレッシャー。

 発光苔の青白い光に照らされて、巨大なシルエットが通路の奥からゆっくりと姿を現した。


 体長は二メートルを優に超える。狼に似た獣型の骨格に、岩のように硬質な灰色の甲殻を纏った怪物。その表面には、小型種とは比較にならないほど分厚く、高密度の魔粒子膜が陽炎のように揺らめいている。

 中型種――甲牙狼(アームファング)

 機動力と強固な防御力を兼ね備えた、中層の代表的な怪物の一つだ。


「気づかれたか。クソッ!」


 相馬が忌々しそうに吐き捨てた。

 怪物の黄金色の眼球が私たちを明確に獲物として捕捉している。


「逃げますか」


 クロスボウの青年が焦りの混じった声で問う。だが、私は冷静に怪物の筋格と重心のバランスを観察し、即座に結論を出していた。


「駄目です。あの脚の筋肉量と骨格構造から見て、直線での瞬発力は私たちをはるかに上回ります。ここで背を向けて逃げれば、数秒で追いつかれて背後から蹂躙されます」

「……藤崎の言う通りだ。逃げ切れない。迎撃態勢をとれ!」


 相馬の怒号と共に、パーティーは一瞬にして戦闘態勢へと移行した。

 大盾の男が最前線に立ち、シールドを両手で構えて腰を落とす。クロスボウの青年が少し下がって矢を番え、相馬が長槍を構えて遊撃の位置につく。

 私も腰の短槍を引き抜き、パーティーの死角を補うように立ち位置を調整した。


 甲牙狼(アームファング)が、低い姿勢から爆発的な推進力で床を蹴った。

 凄まじい速度で距離を詰め、その巨大な顎が大盾の男へと迫る。


 激しい衝突音。

 男の構えた大盾が怪物の突進を正面から受け止めた。盾の表面に施されたダンジョン素材が魔粒子膜と反発し合い、青白い火花のような光が散る。

 だが、中型種の質量と運動エネルギーは、男の想定を上回っていた。


「ぐっ……おぉぉっ!」


 男はブーツの底を石畳に擦りつけながら後退を余儀なくされ、体勢を大きく崩した。

 怪物はその隙を逃さず、前脚の鋭い爪で盾の縁を弾き飛ばそうとする。


「させるか!」


 後方からクロスボウの矢が放たれた。

 だが、怪物の側面を捉えたはずの矢は、分厚い魔粒子膜と硬質な甲殻に阻まれ、浅く突き刺さっただけでポロリと床に落ちた。通常兵器よりはるかに貫通力のあるダンジョン素材の矢であっても、中型種の防御を抜くには出力が足りないのだ。


「退け!」


 相馬が大盾の男を庇うように前に躍り出た。

 玄崎機工製の長槍に濃密な魔粒子を纏わせ、怪物の顎の下、甲殻の隙間を狙って渾身の刺突を放つ。

 刃は膜を中和し、肉へと届いた。だが、浅い。

 致命傷には至らず、怪物は怒り狂って相馬へと牙を剥いた。


 パーティーの陣形が崩れかけている。

 ベテラン揃いの彼らであっても、格上の怪物との想定外の遭遇は判断を狂わせ、連携に綻びを生じさせていた。

 このままでは押し切られる。


(私が、動く)


 私は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺の底まで満たした。

 恐怖はない。あるのは、眼前の事象をいかにして処理するかという極めて冷徹な計算だけだった。


 相馬の槍を前脚で弾き払い、怪物が体勢を立て直そうとしたその瞬間、私は怪物の視界の端、斜め後方へと静かに滑り込んでいた。

 正面からの打ち合いに参加する気はない。私にあるのは、最底辺の武器と、圧倒的なスタミナ、そして急所を見極める観察眼だけだ。


 私は怪物の右後脚、太腿とすねが交わる関節部分の裏側に視線を固定した。

 甲殻に覆われていない、柔らかい肉と腱が露出しているわずかな隙間。そこを覆う膜も、他の部位に比べて薄い。


 短槍の柄を握り込み、魔粒子を穂先に集束させる。

 派手なエフェクトも、空気を震わせるような威圧感もない。ただ刃の表面だけを薄く、しかし極めて鋭利にコーティングするだけの最小限の出力。


 踏み込む。

 怪物が相馬に気を取られているその一瞬の死角を突き、私は関節の隙間へと正確に穂先を滑り込ませた。

 刃が腱を断ち切る鈍い感触。

 私は深追いせず、怪物が痛みで反転するよりも早く、その場から離脱した。


 怪物が苦痛に満ちた唸り声を上げ、私のいた空間を巨大な尻尾で薙ぎ払う。だが、そこにはもう誰もいない。

 右後脚の腱を損傷したことで、怪物の重心が微かにブレていた。


「藤崎……! お前、一人で!」

「相馬さん、奴の機動力は落ちています。正面から受けず、削り合いに持ち込みます。絶対に致命傷を避けてください」


 私は移動しながら短く叫んだ。

 一撃で倒す必要はない。血を流し、筋肉を損傷すれば、確実に動きが鈍るはずだ。


 相馬も即座に私の意図を理解した。

「陣形を再構築しろ! 盾でいなし、隙を見て削るぞ!」


 そこからは、泥臭く、しかし極めて堅実な消耗戦が始まった。

 甲牙狼(アームファング)は怒りに任せて突進を繰り返すが、大盾の男が直撃を避けるように斜めに受け流し、相馬が槍で牽制する。

 そして怪物の動きが止まる一瞬の隙を突き、私が死角から関節や筋肉の継ぎ目へと浅い刺突を繰り返した。


 何度突いただろうか。

 五度、十度。

 怪物の巨体には致命傷と呼べるほどの深い傷はないが、全身に浅い裂傷が刻まれ、そこから絶え間なく体液が流れ出している。

 分厚かった魔粒子膜も、度重なる攻撃の防御と出血による体力の低下により、目に見えて薄弱になっていた。


 私は息一つ乱していなかった。

 異常な成長速度によって底上げされたスタミナは、この程度の運動量ではまったく底を見せない。冷静に怪物の動きを観察し、ミリ単位で間合いを測り、的確に急所を刺しては離脱する。


 やがて、怪物の動きに明確な遅れが生じた。

 大盾の男への突進が途中で失速し、怪物は前脚を屈折させて床に崩れ落ちそうになる。


「今だ!」


 相馬が渾身の力を込めて長槍を放つ。

 魔粒子を纏った刃が、薄くなった膜を完全に引き裂き、怪物の肩口から肺へと深く突き刺さった。


 怪物が苦悶の声を上げ、最後の力を振り絞って相馬を道連れにしようと巨大な顎を開く。

 だが、それより一瞬早く、私は怪物の側面に到達していた。


 狙うのは、首の付け根。

 解体実習で幾度となく刃を入れた、頸椎の隙間。


 私は腰の回転をすべて右腕に伝え、手にした短槍を怪物の首元へと真っ直ぐに突き入れた。

 硬い鱗をすり抜け、刃が骨と骨の間を分断する確かな手応え。

 私の魔粒子が怪物の神経網を焼き切り、その命の活動を強制的に停止させた。


 甲牙狼(アームファング)の巨体が、糸の切れた操り人形のように重い音を立てて地下道の床へと崩れ落ちた。

 そして、二度と動くことはなかった。


 槍の柄を伝って、莫大な魔粒子が私の体内へと流れ込んでくる。

 小型種とは比べ物にならない密度のエネルギーが、私の細胞を一段階上の次元へと押し上げていくのを感じた。


「……終わったか」


 相馬が額の汗を拭い、肩で荒く息をしながら呟いた。

 大盾の男もクロスボウの青年も、床にへたり込みそうになりながら安堵の息を吐いている。

 誰もが、死の淵を歩いたことによる極度の疲労と緊張の緩和に支配されていた。


 だが、私は槍を引き抜くと、すぐに腰のポーチから解体ナイフを取り出していた。


「藤崎、お前……」

「血の匂いが広がります。大物ですから、他の怪物を引き寄せる前に急いで解体して回収しましょう」


 息一つ乱さず、怪物の腹部に刃を入れる私を見て、相馬は言葉を失っていた。

 中型種との死闘の直後だというのに、私の集中力は全く途切れていない。怪我一つ負うことなく、普段の小型種相手の時と何一つ変わらない手際で素材を剥ぎ取っていく。


「……信じられんな」


 相馬は長槍を杖代わりにして立ち上がり、私の作業をじっと見下ろした。


「あの状況で冷静に相手の機動力を削ぐ判断を下し、無傷で立ち回り、息一つ切らさずに解体を始める。お前のそれは、もはや才能という言葉で片付けていい領域じゃない」


 私は血抜きを終えた上質な甲殻をバックパックに詰め込みながら、顔を上げずに答えた。


「私はただ、生きて帰るための最善を尽くしただけです」

「そうだな。お前はそれを誰よりも完璧にやり遂げた」


 相馬は少しだけ自嘲気味に笑い、そして真剣な声色で告げた。


「藤崎。お前、もう補助枠に置いておく器じゃないな。これだけの判断力とスタミナがあれば、一人でも十分にやっていける。……いや、お前の生存能力に、俺たちが追いつけていないくらいだ」


 その言葉は、探索者としての私の立ち位置が、明確に次のステージへと移行したことを意味していた。

 ベテランからの完全な実力への承認。


「買い被りすぎですよ。私はまだ、Tier1の新人ですから」

「数字なんて飾りだ。現場の人間はお前の価値を正しく評価するさ」


 呆れたように言う相馬の言葉を背中で受けながら、私は最後の素材をポーチに押し込んだ。

 バックパックはずっしりと重いが、私の足取りは羽が生えたように軽かった。



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