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第1話 初討伐


 朝の冷たい空気が、古いアパートの隙間から忍び込んでくる。

 築四十年の手狭なダイニングキッチンには、出汁のいい香りが漂っていた。


「お姉ちゃん、お味噌汁できたよー」


 キッチンから顔を出したのは、三女の陽菜だ。十三歳になる彼女は、あどけなさの残る黒髪のボブを揺らしながら、お椀をテーブルに並べていく。

 その後ろで、次女の柚乃が手際よく卵焼きを切り分けていた。十六歳の柚乃は、艶やかな黒髪のセミロングと落ち着いた顔立ちが特徴で、我が家の家事の要だ。


「ありがと。助かるよ、二人とも」


 私は洗面所で手早く洗顔を済ませ、鏡の前に立つ。

 寝癖のついた漆黒の長髪を櫛で梳かし、後頭部の高い位置でキツくポニーテールにまとめる。鏡の中に映るのは、切れ長で鋭い目つきの女の顔だ。よく言えば精悍、悪く言えば愛想のない顔立ちだが、私は自分のこの顔がそれほど嫌いではなかった。

 ただ、初対面の人に怖がられるのだけは少し困るけれど。


 ミリタリーテイストの丈夫なジャケットに腕を通し、厚手のカーゴパンツのベルトを締める。これが私の仕事着だ。動きやすさと耐久性を兼ね備えた、実用性重視の服装。


「お姉ちゃん、今日もお仕事遅いの?」

「んー、今日は運搬だけじゃなくて解体の補助も入ってるから、少し遅くなるかも。夕飯は柚乃にお願いしてもいいかな?」

「うん、任せて。冷蔵庫の余り物で炒め物にするね」


 頼もしい妹の言葉に、私は「よろしくね」と柔らかく微笑んだ。

 食卓を囲みながら、頭の片隅で今月の収支を計算する。私の月収は、手取りでおよそ十八万から二十万円前後。下請けの運搬要員としては平均的だが、育ち盛りの妹二人を抱える三姉妹の生活費としては、常に綱渡りだ。家賃、食費、陽菜の学費、柚乃の進学準備金。ギリギリの生活だが、それでも私たちがこうして笑い合える日常は、何にも代えがたい。


 祖父母と両親は、探索者としてダンジョンに潜り、帰らぬ人となった。

 ダンジョンが発生してから五十年。この国において探索者は花形の職業であると同時に、死と隣り合わせの危険な仕事だ。だからこそ、私は探索者資格を取らず、安全な非探索者の後方支援業務――運搬と解体補助を選んだ。

 妹たちを、絶対に一人にはしない。その責任感が、私の日常を支えている。


「ごちそうさま。じゃあ、行ってくるね」

「いってらっしゃい、お姉ちゃん! 気をつけてね!」

「戸締まりしっかりねー」


 明るい声に見送られ、私はアパートの錆びた鉄扉を開けた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 大都市の郊外に位置する、ダンジョン素材の一次処理施設。

 巨大なシャッターが開け放たれた倉庫のような建物内には、むせ返るような血の匂いと、内臓特有の青臭さが充満していた。


「藤崎ちゃん、おはようさん! 今日も頼むよ!」

「おはようございます、班長。今日はどのラインですか?」


 ヘルメットを被った初老の現場監督が、クリップボードを片手に声をかけてきた。私は努めて愛想よく、明るい声で返す。見た目が鋭い分、意識して柔らかく接しないと無用な威圧感を与えてしまうからだ。


「今日は三番ラインの解体補助に入ってくれ。浅層で狩られた小型一号種小牙蜥蜴(ミニリザード)が大漁でね。運搬だけじゃ手が回らんのだわ」

「了解です。サクッと終わらせちゃいますね」


 指示を受け、私は解体ラインへと向かった。

 ステンレス製の作業台の上には、大規模パーティーを組んだ探索者が討伐した体長二十センチほどのトカゲ型のモンスター――小型一号種小牙蜥蜴(ミニリザード)の死体が山のように積まれている。

 怪物の表面には、薄く無色透明の膜がこびりついている。魔粒子の集合体であるこの膜こそが、通常兵器の攻撃を弾く怪物の最大の武器だ。死後も膜の残滓は素材に纏わりついており、これを素早く、かつ素材を傷つけないように剥ぎ取っていくのが解体補助の仕事である。


「藤崎さん、こっちの血抜き終わったやつからお願い」

「はいはーい」


 先輩の解体職人から指示を受け、私は専用の解体ナイフを握った。刃先のみがダンジョン素材で作られた、高価だが必需品のナイフだ。この素材でなければ、怪物の皮に傷一つ満足につけられない。

 手首のスナップを利かせ、皮と肉の隙間に刃を滑り込ませる。生々しい感触と、脂の乗った肉の重みが手に伝わってくる。


「藤崎ちゃんは相変わらず手際がいいねえ。現場の空気にもすっかり慣れたもんだ」

「もう三年目ですからね。これくらいできないと妹たちに怒られちゃいますよ」


 冗談めかして笑うと、周囲の職人たちも人の良い笑い声を上げた。

 素材仕事の生々しさは、決して気分の良いものではない。だが、この皮が盾の素材になり、骨や牙が新たな武器となって、最前線で戦う探索者たちの命を守るのだ。そう思えば、血まみれになるこの仕事にも誇りを持てた。


 午前中の作業が終わり、短い昼休憩を挟んで午後のシフトに入ったとき、現場の空気が少しだけ変わった。


「おーい、四番ゲートを開けろ! 中型種の搬入だ!」


 外からフォークリフトの駆動音が響き、巨大なブルーシートに包まれた物体が運ばれてきた。

 浅層の奥から中層にかけて生息する中型種。ベテランの探索者パーティが狩ってきたものだろう。小型種とは比較にならない質量のそれに、現場にわずかな緊張感が走った。


「藤崎ちゃん、悪いがそっちの解体補助に入ってくれ。中型種は鮮度が命だ、急いで膜の残滓を処理しないと素材が劣化する」

「はい、すぐ行きます!」


 私は血濡れた前掛けを締め直し、指定された作業台へと小走りで向かった。

 ブルーシートが剥がされると、そこには赤黒い体毛に覆われた獣型の中型種が横たわっていた。首のあたりには致命傷となった大きな刺突の痕があり、すでに完全に絶命している……はずだった。


「じゃあ、まずは腹部の皮から――」


 先輩職人が大ぶりの解体鉈を振り上げた、その瞬間だった。


 死んでいるはずの、毛むくじゃらの獣の眼球だけが、異様な動きで私の方を向いた。


「え……?」


 思考が停止する。

 怪物の膜は死後急速に失われるが、もし、まだ完全に絶命していなかったとしたら。蓄えられた魔粒子が、最後の悪あがきとして肉体を強制的に動かそうとしていたとしたら。


 中型種の巨体が大きく跳ねた。

 断末魔の反射か、あるいは執念か。痙攣した太い前脚が、凄まじい速度で私に向かって薙ぎ払われる。


「危ないッ!!」


 誰かの叫び声が聞こえた。

 避ける暇などない。一般人の反射神経では対応できない速度。

 だが、そのとき私の身体は、理性を置き去りにして勝手に動いていた。


 動転する思考とは裏腹に、私の右腕は本能的に解体ナイフを逆手に握り直し、迫り来る前脚を掻いくぐるようにして前へと踏み込んでいた。


 狙うのは、唯一動いたあの忌まわしい眼球。

 膜の保護が最も薄く、脳へと直結する急所。


 手首から肩にかけて、骨がきしむほどの重く鈍い衝撃が突き抜けた。

 私が咄嗟に突き出した解体ナイフは、中型種の眼球を深々と抉り、その奥にある脳髄までを完璧に貫通していた。


 中型種は声にもならない凄惨な絶叫とともに巨体を激しく痙攣させ、今度こそ完全に事切れた。

 ナイフの柄を握りしめたまま、私は荒い息を吐き出す。

 心臓が早鐘のように打ち鳴り、冷や汗が全身から吹き出していた。


「ふ、藤崎ちゃん……! 大丈夫か!?」

「あ……はい……なんとか……」


 班長が駆け寄ってくる声が、なぜかひどく遠く聞こえた。

 それよりも、私の身体の中で何かが起きている。


 怪物を討伐したという明確な判定。

 ナイフを伝って、中型種に蓄えられていた膨大な魔粒子の奔流が、一気に私の体内へと流れ込んできた。

 一般的な探索者であれば、その大半は霧散し、わずか数パーセントしか吸収できないはずのエネルギー。

 だが、私の身体は、その奔流を七割以上という異常な効率で、貪欲に、一滴残らず吸い上げてしまった。


 血液が沸騰するような強烈な熱に襲われ、声にならない苦悶が喉から漏れる。

 全身の細胞が急激な書き換えに耐えきれず、悲鳴を上げている。

 許容量をはるかに超える力の流入による、急性の中毒症状――魔粒子酔い。


「藤崎ちゃん!? おい、誰か医務室に連絡しろ!!」

「班長、倒れます!」


 周囲の慌ただしい声が水底の音のように響く。

 視界が急速に暗転していく中、私は自分がなぜこんな熱に浮かされているのか、何が起きたのかも理解できないまま、冷たいコンクリートの床へと意識を手放した。



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