閉じ込められた氷の王妃とおどおど姫はウサギを救う
数ある中からお話を選んでいただきありがとうございます。
そこに囚われているのは、だあれ?
* * * * *
月夜に照らされても、終わりを知らない花たちのお祭り。
この時を待っていたかのように庭園からはみ出しそうなほど、鮮やかな花が我先にと咲き乱れ、輝いている。
ふわりと香る。
甘く溶けそうな蜜やかな匂い、品のある洗練された匂い、そのどれもが入り交じり温かな風に乗って、鼻の奥をくすぐる。
──はずなのに、キンと冷える。
“氷の王妃”。
悠然と歩いている。
出会い頭に侍女は息を呑み、一歩、二歩と退く。王妃の周囲だけ、空気がひやりと沈む──侍女は深く頭を垂れた。
王妃は口の端を大きく上げたつもりだったが、顔はほとんど無表情のままだった。
明日の夜、ようやく国際行事から夫である王が帰国する。その準備も整い、久しぶりに手ぶらで仕事から戻る。
王妃は庭園の脇道を足取りも軽く進む。
「ふふふふ」
胸の内でくぐもった低い笑いがこぼれた。
その頭の中には最愛の娘・ルミナスの可憐な姿。
毎晩、言葉を交わすことなく、穏やかに眠っている娘を眺めることだけが、王妃の唯一の楽しみだった。
庭園の無邪気な生の喜びに、前回のお茶会のことを思い出す。
□(一年前)
ちょうど一年前の今頃。
娘が四歳の時だった。
とてとて、と歩くおもちゃの兵隊。
ひどく緊張して、右手と右足を一緒に前に出す。
すべてを見逃すまいと、王妃は瞬きすら忘れてルミナスを見つめた。
殺されるのかと勘違いするほど、喉を締め付けられているのか、聞いているこちらが空気を求めてしまうほど、か細い声で貴族流の挨拶。
それでも家庭教師からしっかりと学んでいるのか、まっすぐな背中で腰と膝を綺麗に曲げたカーテシー。
キュンと胸が強く締めつけられる。
幼い娘ながら、その成長をしかと脳裏に刻み、王妃は感心して頷いた。
不敵さの影を帯びた顔つきのせいか、ルミナスは青白い引きつった笑顔が貼り付いた。
着席すると、王妃から勧められて、慌てて手にするティーカップ。氷漬けになったルミナスは一度しか口をつけられなかった。
カタカタッ──
一人だけ、身を縮めて震えるルミナス。
不憫に感じながらも、残りの気持ちに大きく心を動かされている王妃。
くるくるとスプーンでティーカップの中を旋回させて気を紛らわす。
愛娘の成長といじらしさに、力いっぱい包みこんでしまいたい心のときめきを、なんとか押し込み咳払い。
それを隠そうとティーカップに口をつけた。
■(現在)
タン、タタン。
侍女に聞いた話によると、娘は侍女相手にお茶会を頻繁に開いているようだった。
そんなことを思い出していると、心の弾みは足の方にも出てしまい、ステップを踏んでしまう──おっと、いけない。
今年はその話題に触れられるかもしれないという、希望を丁寧に仕舞い込む。
背筋を伸ばして毅然と歩き直す王妃は、後ろにいる侍女に手を上げて人払いの合図。
──それを受けて侍女は絶妙なタイミングで歩みを止めて、お辞儀をした。
逸る気持ちに手をきゅっと握って抑え、部屋のドアノブをそっと回した。
しん、静寂の時。
人目を気にせず、ベッドに駆け寄る王妃は獲物を見つけた猛禽のような目。
膝を折りたたみ、ベッドの縁に顎を乗せた。
風でふんわりと巻き上がってしまいそうで上質な蜂蜜色が輝く御髪。
今は静かに枕と共に佇んでいる。
王妃は手をそっとルミナスに近づけた。無意識に差し出した手を慌てて引っ込めながら反省する。
起きている時だったら、空のように澄んだ瞳がこちらを向くが、残念ながら今は夢の中。
「かんわいぃぃ」
呪いの言葉のような闇の雰囲気のある声が王妃から漏れた。
手で口を覆って、喉を大きく鳴らしながら唾を飲み込む。
「…………ん……」
喉を鳴らしたような短い声。
長い睫毛を添えた瞼は開くことはなかった。その安堵と愛らしい寝顔に悶絶して、王妃はベッドの縁に旋毛を押し付けた。
香が途切れ、蜂蜜色の髪が微かに震えた。
ガキンッ
部屋の四隅にある柱が軋む音がする。
王妃は顔を上げた。
急いで周りを見回す。
ガタガタガタガタ……
部屋が揺れる。
王妃は立ち上がり──ヒールが傾いた。
バキィンッ!
固い亀裂音。
柱が悲鳴を上げる。
「王妃様、大丈夫でしょうか?」
王妃は侍女の張り詰めた声に反応すると、真っ先にルミナスの方へと振り返った。
そうしているうちに、外から何度もひねられる金属のドアノブ。
ルミナスが起きてしまわないかひやひやしながら、ドアの向こうの侍女を睨みつける。
「ちょっと静かにして頂戴──」
「王妃様、ドアが開きません」
(えっ、ルミナスと二人きり?)
不穏な空気の中に王妃だけが、ルミナスと二人きりの空間に胸を躍らせる。
思わずルミナスの方を確認する下心で溢れた王妃。
「「あ……」」
視線を交えた。二人は一瞬、言葉を失う。
寝ているはずのルミナスは透き通った瞳で王妃を見ている。
こんな時じゃなければ、王妃もその尊い時間を楽しんだはず。
──血の気が引いて蝋のように白い顔を見なければ、だが。
ルミナスは寝起きのように乱れた髪を気にも留めず、避難訓練さながらにベッドからの退避。
離れていても分かるほど、肩も声音も震えながら、頭を下げている。
「ぉぅおぅ……おうひ、さま。ごきげん、うるわしゅう……ございます」
「ルミナス、今は緊急事態です。そんなことをしなくてもいいわ」
突然の出来事に王妃は余裕のなさから固い声音が出てしまった。
「はひっ! 失礼いたします……ひたッ!!」
今度、頭を深く垂れたのは王妃の方。
熟睡中に部屋に突然現れた挙げ句、何が起こっているのか分からないルミナスに、強い口調で伝えてしまったと猛省した。
(こんなに怯えて可哀想なルミナス。力いっぱい抱きしめてあげたいわ)
「こちらこそいきなり悪かったわ。今の地震でドアが開かないみたいなの」
「閉じ込められたということですか?」
隠すことのない直接的な言葉を正面から受けて、無防備にも足を絡ませ、よろめいた。
「そうみたいなの。ルミナスは大丈夫かしら?」
何度も頭を上下させて頷いているルミナス──警戒レベル最大。
その様子を見て、王妃は今まで取り組んできたどの仕事よりも頭を捻らせていた。
混乱と被害の把握に、部屋の外の廊下を急ぎ足で通り過ぎる音が、ひっきりなしに聞こえる。
少なくとも王妃自身とルミナスは、部屋に閉じ込められただけ。人命に関わることはないので、その点は安心していいだろうと算段した。
王妃は一歩前に出る。
ルミナスは一歩下がる。
まるで演舞のように二人は変わらない距離。
ルミナスの背中が奥の壁に当たる。
涙を湛えて、強ばった笑みを浮かべる。
それを見た王妃は諦めてドアまで下がった。
豆粒ほどに遠いルミナスへ、力なく手を振った。
「楽にして頂戴。この距離ならお話できるかしら?」
ルミナスの背筋が伸びた。
「……はい」
小さいが、肩の力は抜けたように見える。
それを見て今度は王妃が勇気を出す番だった。
(こんなチャンス滅多にないわ。少しでもいいからルミナスと話をするのよ)
「最近、侍女とお茶会をしているそうね」
ルミナスの警戒度が上がるのを見て、拳に力が入る。そして上ずる声が部屋に響く。
「楽しいと聞いたのだけれども、どんなところが楽しいか、教えてもらえないかしら?」
その言葉にピクリと身体を動かす。その刹那、ベッドの方に視線が走った。
王妃の目に戻ってきたルミナスの視線は、明らかに何かを隠そうとしているのか、伝えようか迷っている反応に見える。
その仕草から王族教育から“外れた考え”が頭によぎる。
私の唯一の友だちと遊んでいた時に、こっそり考えていたこと。
(私の予想が正しいなら……)
「それが“王族であるべき”から外れていてもいいわ。だってここには私とルミナスしかいないでしょう? 私は口は堅い方なの」
ルミナスは眉をひそめて、視線を泳がせる。それでも多くの時間をベッドと床の隙間に集中させる。
肩を竦めながら、足先は迷った方向に進み、ようやく、ベッドまで辿り着いた。
王妃に背を向けて何やら忙しく手を動かしているようだ。
少し間があって振り返ったルミナスの両手には“懐かしき友人たちの姿”。
王妃はかつての友人たちと遊んだ記憶を脳裏に鮮やかに思い出していた。
□(幼き日のアリスティア)
かつて王妃にも幼少期があり、あどけない少女らしい一面もあったアリスティア。
王族教育とは、人の上に立つ人間になるために、“遊びは不要”とされてきた。幼子の頃から何人もの家庭教師に囲まれて、挿絵には人物と地図ばかりの分厚い書物だった。
時にその書物を頭に乗せてマナーレッスンを行うこともあった。
だが、遊び盛りの年ごろの少女の部屋には、おもちゃもぬいぐるみも一切ない。
「人生の寄り道になるものは必要ない」
「人前で感情を見せてはいけない」
「弱みになるものを、悟らせてはいけない」
耳の奥にこびりつくほど言われた言葉を当たり前として受け入れた。
ある人の言葉を除いて──。
会うことは少なかったが、床に臥せた祖母は弱々しい手を振って少女を呼び寄せた。
少女にとっては、心の躍るファンタジーのお話を聞かせてくれた。祖母といられる間中、ずっとお話を聞き、頭の中で主人公になりきって様々な冒険をした。
少女が帰る時に、祖母はいつだって茶目っ気たっぷりな顔で「アリスティア、これは二人だけの秘密よ」と口癖のように言っていた。
その祖母が儚くなった頃、祖母から最初で最後の贈り物を手にした。
二つのウサギのぬいぐるみ。
理由は一つだとウサギが寂しがるから二つにした、と手紙に書いてあった。
そのウサギはアリスティアの小さな手でも、胴体をすっぽりと覆うほどの大きさで、両手で遊ぶことが多かった。
最初で最後のぬいぐるみ。
「こんにちは、ウサギさん。私とお友だちになってくれるかしら?」
右のウサギは頷いた。
『いいわよ。私は……』
少女は頬を赤らめて口をもごもごと動かす。
『アーティ』
今度は左のウサギが頷いた。
『はじめまして、アリスティア。私はルミナス』
そう、私の光──。
ウサギを握る手は忙しなく動いている。私の希望を乗せたウサギたちが目の前に集まる。
「ねえ、ルミナス。あなたのことを“ルー”と呼んでもいい?」
『もちろん!』
「じゃ、じゃあ、アーティとルー……」
祖母のいなくなったこの世界でまた私は心を躍らせ始めたのだった。
一度出来た楽しい思い出は、何千の味方を得たように頼もしく、アリスティアの心を支えてくれた。
ウサギと別れ、感情に蓋をして誰にも心を読ませない。
それも王族教育の一つだった。
特に王妃になるのなら、なおさら見せてはいけない“弱み”となる、と。
■(現在)
かつて少女の部屋だったこの部屋は娘が使い始めた。
遠い記憶とともに置いてきたウサギたち。
それがいつの間にか、ルミナスの友だちになっていた。
王妃の柔らかな眼差しに何か気がついたのか、おどおどした様子を抑えて上目遣いでこう尋ねた。
「王妃さま、このウサギたちの名前をご存じでしょうか? 最近、お友だちになったので、侍女とお茶会の練習をしているのです」
(このウサギたちとお茶会をするために侍女と練習をしていたのね。それは話せないことだわ。それにしても──)
こちらに視線を投げかける懐かしい友人たちの名を呼ぶ。
「随分久しぶりね。“アーティ”」と、藤色のウサギへ。
「と“ルー”」と薄桃色のウサギへ挨拶を投げかける。
居心地の悪そうにしきりに身体を動かす王妃の耳は赤みが差さしている。
ルミナスは王妃とウサギたちを見比べて、何かを理解したのか微笑んだ。
「アーティとルー、私はルミナスです」
ウサギのぬいぐるみたちは頷いている。
王妃は両手で緩む顔を隠している。その顔を見たルミナスは、震える手でそれでも藤色のウサギを差し出した。
「王妃さまも……ご一緒に」
(私を支えてきた“アーティ”と“ルー”の楽しい思い出。そして今度はルミナスにも……)
何かの決意をしたように清々しい顔になった王妃は、手に持ったウサギをルミナスのウサギに近づける。
二人はウサギの話を楽しそうに聞いている。時に声を上げて笑い合った。その長いはずの夜は駆け出したかのように過ぎていく。
「ルミナス、『これは二人だけの秘密よ』」
「……はい、お母さま」
この瞬間、アリスティアとルミナスは初めて本当の笑顔を交わした。
そうしてウサギと戯れていると、余震が何度も起こる。
揺れる恐怖の中で、ルミナスは無意識にウサギを抱きしめた。
それを見て、王妃の胸にあの日の自分が蘇る。
両手を広げるとルミナスとウサギ、それからあの日の少女を優しく抱きしめた。
そうしていると、その震えはいつしか消えていた。
そのうちルミナスは王妃の膝の上で寝てしまった。その寝顔を眺めている王妃の顔は母そのものだった。
(この子の支えになる楽しい思い出になれば良いわ。もしかしたらルミナスは私と別のやり方で、この先の人生を歩んでいけるかもしれないしね)
■(次の日)
朝日が差し込み始めたころ、非常に重くびくともしなかったドアがゆっくりと開いた。
シンデレラの魔法が解けるのと同じく、どんな呪文を唱えても朝はやって来てしまう。
王妃は膝で眠っていたルミナスの髪をそっと撫でていくと、ルミナスは伸びをしながら目を開いた。
起きるとすぐにウサギたちをベッドの上へと寝かせる。もう閉じ込めなくてもいい。
そして王妃はルミナスに顔を近づけると、
「ウサギさんにまた、“私たちだけ”のお茶会をしましょうと伝えてくれるかしら」
と、伝えると庭園にまっすぐ伸びて花をつけているカーネーションのように、可憐な笑顔がパッと咲いた。
閉じ込められていたのは、ウサギだけじゃない。私たちの声と笑顔も──。
王妃の中で閉じ込められていた少女は、顔を上げてルミナスの華やかな笑顔を見ると立ち上がった。
王妃はこれまでにない充実感を胸に、救えなかったかつての少女と愛娘の部屋を後に、温かな心地よい庭園へと、確かな足取りで向かった。
■(その晩)
王妃がベッドの上に座っていると、艷やかな王が姿を現した。
つい今しがた他国から帰ってきたばかりだった。
昨晩に発生した地震の被害は、王妃も従者たちから聞いて、報告書に漏れがないかを確認していた。それから処置の具合も。
いつもの報告に対して、王妃の伝えた情報を頭で整理していた王はなにか変だと気づいて、王妃の顔を覗き込んだ。
「アリスティア、何か良い事でもあったのか?」
「えぇ、実は──」
王妃はいきいきとした顔で嬉しそうに話し始めた。
ルミナスと部屋に閉じ込められた頃から始まる。
ウサギの話は王も知っている。
同じ昔話の共有者として、身振り手振りで、臨場感を添えて語る。
そして“次のお茶会”の話まですると、王妃は肩を大きく下げて一息をついた。
合いの手を入れながら熱心に聞いていた王は、顎に手を当てて考え事でもしている素振り。
「ふむ、アーティはルーとそんな約束をしたのか。“私たちだけ”なんて、聞き捨てならないな」
王に似つかわしくない口調が飛び出した。
「アーティ!?」
「……君があんまりにも愛らしい少女に見えてね。ウサギと友だちだったあの時の笑顔にまた会えた」
いつぶりだろう、こんなに感情を乗せて、全身使って話をするのは……心に湧き上がる置いてきてしまったはずの気持ちが少女とともに戻ってきた。
そんな少女の瞳をしたアリスティアの肩に優しく腕を回すジョセフ。
「クマのぬいぐるみをルミナスに送ったら、迷惑だろうか?」
仲間外れのように瞳の奥に寂しさを宿しながらも、昔の少年の瞳をアリスティアに寄越す。
それを見たアリスティアは昔の少女と心を交わす。
あの頃の少女のとびっきりの笑顔。
ジョーイは両腕の中にアーティを納めると、楽しいコソコソ話が始まった。
「そしたら私が“J”の刺繍を作りますわ。そのクマは“ジョーイ”でしょう?」
「ははは、アーティは何でもお見通しだ。クマにちなんで、お茶会には蜂蜜を持っていこうかな」
「ウサギさんに今度のお茶会は“三人の合言葉”とお伝えしますわ」
最後までお読みいただきありがとうございました。
楽しんでいただけたら幸いです。
いつものことですが、誤字脱字がありましたら、ぜひご連絡お願いいたします!