蘇生薬
11年前...俺がまだ小学生だった頃、「蘇生薬」誕生のニュースが世界中を駆け巡った。
当時の人々は死の恐怖から解放されたと歓喜した。
それが後に世界を大混乱に導くとも知らずに。
1
時計が小さく音を鳴らし、カーテンが静かに開く。今日もまた、7時30分にベッドを降り、洗面台に向かい顔を洗い、朝食を取った後、歯を磨く。今どきこんな健康的な生活を送るのは少数派なのだろうが、子供の頃からの慣れなのだから仕方ない。
さて、今日は何をするべきか。
つい2ヶ月ほど前、付き合いの長かった新聞社が経営不振で潰れた。そのため毎朝、新聞を読むはずだった時間を持て余してしまう。
最近はTVのニュースを見るなり、スマホを弄るなりして時間を潰していたが、今日はふと早めに家を出ることにした。
扉を開けるなり耳にセミの大合唱が飛び込んでくる。夏になると毎朝、我先にとメスにアピールするセミも、今日は一層と元気なようで、「俺はここだ!」と言わんばかりに叫んでいる。
行先は堀香大学。
偏差値そこそこの私立大学で、地元ではそれなりに認知度が高い大学だ。
最近は経済学で大きな成果を出したとかで、教授がTVに出ていた。
まあ、それも文学部生の俺とは何の関わりもないのだが。
堀香大学の文学部棟は、朝の静けさに包まれていた。正面の大きな時計が8時を指している。今日は特に講義があるわけでもないが、俺はキャンパスへと足を運んだ。
理由はただ一つ。
「あの教授」に会うためだ。
俺が堀香大学の文学部に入ったのは、ある教授と会いたかったからだ。
堀香大学文学部哲学科教授、霧島 直哉。
彼は「蘇生薬」が開発された後、真っ先に反対を表面した、数少ない学者のうちの一人だ。
彼は蘇生薬に対して、常に反対の姿勢を崩さず、独自の研究を進めている。
蘇生薬が生まれた時、世界は一瞬で変わった。死が克服されたことで、多くの者は歓喜した。けれど、それがもたらす倫理的な問題には、誰も深く目を向けなかった。
確かに人は死ななくなった。しかし、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか。
「蘇生薬」は、人々の道徳や倫理観を壊す「破壊薬」になってはいないか。
蘇生された者の多くが、自分の生の意味を見失い、自暴自棄に陥る。
蘇生が繰り返されることで、人間関係や社会の秩序は徐々に、しかし確実に狂い始めた。
誰もが、たとえ愛する者の死であっても悲しむことはせず、「また蘇るだろう」と淡々とした反応を示すようになる。
そんな社会が暴力的にならない訳が無かった。
たとえ死んでも、いくらでも取り返しがつく。
誰もがそんなことを考えている中で、
人々から良心などとうに無くなってしまった。
俺はそんな世界がどうしても受け入れられなかった。
だからこそ、俺はこんな世界を変えるため、
ある決意を固めた。
---蘇生薬をこの世から消し去る---
それが、俺の目的だ。
人々が死と向き合うことなく、倫理や道徳を放棄してしまったこの世界は、もう限界に達している。
急激な治安悪化、飢餓、戦争......
これらを取り除くには、世界が「蘇生薬」と決別し、厳然たる「死」という事実と向き合う他に方法はない。
その為に俺は堀香大学に入り、霧島教授へコンタクトを取ることにしたのだ。