第五話 その背に届く前に
朝、目を覚ますと、隣には誰の気配もなかった。
空は相変わらず鈍く、地面には細かい灰がうっすら積もっていた。
昨日、隣にいたはずのサルハが、いなかった。
風の音ばかりが耳に残る中、トモヤはしばらくその場を離れられなかった。
労働の列に加わっても、サルハの姿はなかった。
休憩中、隣の班にいた少年がぽつりとつぶやいた。
「朝、兵士に呼ばれてた……立てなくて、連れてかれてた」
それだけだった。
誰も問い返す者はいなかった。
その名前も、声も、空気の中にすぐ消えていった。
日が暮れるころ、トモヤは作業場の裏でひとつの布切れを見つけた。
風にあおられて、鉄板のすき間に引っかかっていた。
拾い上げると、それはサルハがいつも腰に下げていたものだった。
ぼろぼろになりながらも、白い花の刺繍だけは、不思議とくっきりと残っていた。
しばらく、それを握ったまま動けなかった。
足元に転がる瓦礫も、遠くで響く号令も、すべてが遠かった。
目を閉じると、昨日の彼の姿が浮かぶ。
食事を受け取らなかったあの手の震え。
どこか、もう限界だったのかもしれない。
「……サルハ」
呼んでも、何も返ってこない。
だけど、その名を口にしたことで、ようやく何かを認めた気がした。
トモヤは白い花の刺繍を、上着のポケットにそっとしまい込んだ。
静かに、胸の奥が冷たくなる。
もうその小さな背中が、ふたたび列に戻ってくることはないのだと。
それでも、彼がいた証は、確かにここにある。
風が少し強くなった気がした。