2.たった一度きりのウソ
――ある日、少し前からコメントをくれるようになった”SIN”が、インスタのダイレクトメールを送ってきた。
内容は、今朝投稿したしらす入りの卵焼きが、亡くなったばかりの母が作っていたものとそっくりで好物という。それを久しぶりに食べたいとか。
正直見ず知らずの人に手料理を振る舞うのは怖い。だけど、その話が本当なら力になりたいと思った。
SINとDMをやりとりしているうちに、同じ市内に住んでることが判明する。
待ち合わせ場所は、ひと目にふれる駅前。『約束の時間に小さなクラフトの紙袋を持っていきます』と伝えた。もちろん紙袋を渡したら帰るつもり。
ところが当日、下校の足で待ち合わせ場所へ行くと、想定外の事態が待ち受けていた。
思わず紙袋を握りしめていた手が震える。なぜなら、待ち合わせ場所に立っているのは意中の新汰先輩だったから。
私はとっさ反応が働き、柱の裏にサッと身を隠す。
「どうしよう……」
好きな人に手料理を食べて欲しいと思う反面、顔見知りとはいえバイオレットと名乗るには勇気がいる。彼が想像しているバイオレットは、過去に横綱と野次られてきた人ではないはずだから。
行きたい気持ちは山々。だけど、足が一歩も進まない。
なんとも思ってない人なら、行けたかもしれなかったけど。
……。
…………。
……そうだ、誰かに代役を頼もう!
紙袋には卵焼きしか入ってないし、渡すだけなら10秒あれば終わる。
最初に紙袋の中身を見せれば疑われないと思うし、こんなに簡単な作業ならきっと引き受けてくれるよね。
でも、誰に頼もうかな……。
私は紙袋を体の後ろに隠したままキョロキョロと見回していると、ちょうど駅へ向かってくるクラスメイトの俵莉麻ちゃんを発見した。
彼女はぱっと目を引くほどの美人だけど、自分とは対照的な性格ということもあって苦手意識が強い。
やっぱり他の人に……と思ったけど、付近に知っている顔は見当たらず。
ためらってる間にも刻々と時間が過ぎていく。
約束の場所に待たせっきりにしている彼。そして、勇気の出ない自分。
心臓がドクンドクンと音を鳴り響かせながら二者択一の判断を鈍らせている。
でも、これ以上彼を待たせるわけにもいかなかったから思いきって声をかけた。
「あっ、あのっ! 莉麻ちゃん!」
「……あ、すみれちゃん?」
「とっても大事なお願いがあるんだけど、聞いてくれないかな」
私は先輩、ではなく彼女のほうへ駆け寄っていき声をかけた。
すると、彼女は私の前で足を止める。
「なに、お願いって」
「うん、あのね。大変申し訳ないんだけど……。あそこに立ってる人にこの紙袋を渡して欲しいんだ」
上目遣いのまま新汰先輩のほうへ指をさすと、彼女の目線も流れる。
「あそこに立ってる人って、うちの学校の新汰先輩よね」
「そうなの。実は、この紙袋の中にしらす入りの卵焼きが入ってて、バイオレットという名前で渡す約束をしているんだけど、なんというか……渡しにくいというか……」
「どうして?」
「それは……。ちょっと色々あって……」
「人に頼むことじゃないでしょ。あたし、こーゆー厄介なことは引き受けたくないの。じゃあね」
彼女は右手で髪をハラリと払いながら再び足を進ませる。しかし、私は待たせっきりにしている先輩を思い描いたまま彼女の手首を掴んだ。
「待って! お願い! 一度だけでいいから」
「嫌。やりたくない」
「そこをなんとかっ!! 私も莉麻ちゃんが困ったときに力になるから」
「あのねぇ。そもそも先輩とは知り合いじゃないし、どういう経緯でそれを渡すのかわかってないから頼まれても困るんだけど」
「そ、そうだよね……。実は、SINというニックネームの人にこの卵焼きを渡す予定だったんだけど、約束の場所に来たら新汰先輩が立っていたの。多分、彼がSINだと思う。私はこんな体型だからバイオレットと名乗る勇気がなくて……」
たしかに彼女の言う通り。私が頼んでいることはとんだ野暮用に過ぎない。
かと言って自分で渡す勇気もないし、他にアテもないから彼女にお願いするしかなかった。
「行きたくないのは体型が理由?」
少し希望が見えた瞬間、私は目を大きく開かせたままうんうんと頷く。
すると、彼女は気だるそうにため息をつく。
「わかった。渡すだけならいいよ」
「……ホント?」
「その代わり、お願いごとを聞くのは一度きりだからね」
「うん! ありがとう」
彼女は紙袋を受け取ると、8メートル先の新汰先輩の元へ。
駅の柱前にいる彼は、紙袋を持って接近してくる彼女に気づくと体を向けた。
「……もしかして、キミがバイオレットさん?」
「あーー、はい。新汰先輩がSINさんですか?」
「えっ、キミは僕のことを知ってるの?」
「先輩は有名人ですからね。あたしも先輩がSINさんだったなんて驚きました」
「まさか同じ学校だったなんてね。制服を見たときにビックリしたよ」
「あたしもです。会って間もないのですが、早速これを……」
彼女が紙袋を差し出すと、彼は受け取ってから中身を確認した。
「ありがとう。いま食べてもいいかな」
「どうぞ」
私は柱からちらりと顔を覗かせながら一部始終を見守る。
本来なら自分が莉麻ちゃんの立ち位置だけど、情けないことにこうなってしまった。
彼は透明のパックを手にとって中を開き、指先で卵焼きを掴んで口にする。五回くらい咀嚼すると小さな笑みがこぼれた。
「美味しい……。ずっと食べていたくなるくらい。インスタで見たときから食べてみたいと思ってたんだ」
「……」
「ありがとう。勇気を出して持ってきてくれたことに感謝してる。こんなに感動的な味だと思わなかったよ」
と、彼はキラキラと輝いている笑顔を向けた。
遠目から見ている私ですら、その笑顔に心が満たされていく。
しかし、ホッとしたのもつかの間。
彼女は予想外の言葉を口にする。
「あっ、あの……。あたしでよければ、明日からお弁当を作って来ましょうか?」
私は耳を疑う言動に、思わず思考が一時停止した。
「そんなの悪いよ。今日だってわがままに付き合ってもらえただけでも感謝しているのに」
「これもなにかの縁だし、先輩が喜んでくれるならこっちも作り甲斐があるし……」
先ほどより声がワントーン上がる彼女。背中からその表情は見えないけど、いまどんな顔をしているのかなんとなく想像がつく。
――数分後。
二人が別れたところを見計らって彼女の元へ駆け寄った。
すると、彼女は足音に気づいて振り返る。
「紙袋を渡してくれてありがとう」
「ううんっ! 全然いいよ〜」
頼みごとを引き受けてくれたときとはまるで別人のように愛想と機嫌がいい。
女の直感は働くが、まずは目の前の問題から。
「それで……さ。先輩と約束してなかった? お弁当を作って来るとかって」
「約束したけど、それがなにか?」
「どうしてそんな約束をしたのかなぁ〜と思って」
「だって、あまりにも美味しそうに食べてたから、つい……というか……」
彼女は流し目をして指先同士を絡み合わせた。
急にしおらしい態度を見せてきた途端、さらに嫌な予感がよぎる。
「でも私、お弁当を作るなんて言ってないし……」
「いいのいいの! お弁当はあたしが作るから」
「えっ」
「先輩の喜んでる顔をまた見たいしね!」
「新汰先輩が莉麻ちゃんの料理を見たら、バイオレットじゃないって気づいちゃうかもしれないよ?」
なにより心配しているのはそこ。彼は料理投稿を毎回チェックしているから。
料理アプリのレビュー欄の画像を見ても、レシピを忠実に再現している人はほんのひと握り。つまり、別人が同じ料理を作ってもバレてしまう可能性がある。
「あーー、そう? なら、さっきの交換条件を使ってもいい?」
「……さっきの条件って?」
「すみれちゃんが代わりにお弁当を作ってよ! あたしが先輩のところに届けに行ってくるからさ」
「えぇぇぇっっ!!」
「困ったときに力になってくれるって自分の口で言ってたじゃない」
「そ、それはそうだけど……」
「嫌なら自分がバイオレットだってカミングアウトしてよ。私にとってはただそれだけのこと。ウソに付き合わせたすみれちゃんの方が悪いんだよ」
つまりそれは、私が影武者になるということ。
たしかに、最初からバイオレットだと名乗り出ていれば彼女を巻き込まずに済んだ。
勝手に決めてきたことに責任を持つ必要はないとも思ったけど、彼女がバイオレットとして卵焼きを渡してきてしまったことが、この問題を大きく揺さぶっている。
それに加えて、先輩が嬉しそうに卵焼きを食べている姿を思い返したら、首を横に振れなかった。
彼にとってしらす入りの卵焼きは、亡き母との思い出あふれる一品だったから。