0話 在宅ぼっち
永瀬葵星、独身、三十を過ぎてから幾数年。
リモート勤務を極めし在宅ぼっち。
この序章は己の近況を嘆いたおじさんの愚痴なので、他愛のない現実よりも、実りのある空想を求める方は、スクロールダウンののちに、「次へ」をクリックすることを推奨する。
ブラウザの戻るボタンは、ぐっと我慢していただけると非常に嬉しい。
一世を風靡したリモート文化が廃れる今日この頃、葵星は部屋に閉じこもっていた。
システムエンジニアは出勤するメリットが一層少ない職業だ。
要件定義書を渡されて設計書を書く。
設計書に沿ってプログラム開発をする。
開発機能のテストエビデンスを作成する。
指摘は質問表でやり取りをする。
ほら、人と会う必要がない。
働いているのに、気分は引きこもりニート。
在宅ぼっちの完成だ。
「おはよー、ピコ」
「……」
葵星の話し相手は彼女だけだった。
「今日の天気を教えて」
「……」
ピコはAIを搭載した機械ではないので、返事がくることはない。
多面にレンズを備えた、ただの球体。
彼女とは三十年以上の付き合いになるが、電源の入れ方も分からず、動かせたことはない。
ちなみに、ピコの三人称に彼女を使っているのは、ドイツ語に倣ってのことだ。
大学の必修科目として履修した第二外国語で選択した。
ドイツ語では無機物の三人称には女性と同じ「彼女」に該当する言葉を使うことを知った。
その慣習を気に入って、ピコを彼女と称している。
『おはようございます』
『おはようございます』
会議画面には、画像のないアイコンと名前だけが浮かぶ。
『各自の進捗報告をお願いします』
『不整合データのデイリーパトロールを行います』
『問い合わせ対応を順次行っています』
『引き続きテストを続けています』
自分の番を終えてマイクをミュートにし、声の届かない部屋に引きこもる。
他人の作業進捗を聞き流しながら、手持ち無沙汰にスマホをスワイプし、ログインボーナスを受け取るのが日課だ。
関わりのない領域の誰かの番で上司が質問をし始めれば、デイリーミッションも消化してしまう。
『全体の作業状況が分かるように進捗と予定をExcelにまとめました。皆さんの疎通がしやすいように参考にしてください』
『ありがとうございます』
上司の添付したリンクを確認するのも忘れてオンライン画面を閉じる。
『最近、何かあった人いますか?』
画面上に表示され続けるミュートされたマイク。
顔の見えない相手との雑談を好む者はいない。
最初はこのオンライン空間を盛り上げようと話題を持ち込んだものだが、事実、話しが弾んだことはなかった。
声が重なり、沈黙が重なり、上司は空気メーカーを率先せず、コミュニケーションはチャットで事足りる関係となった。
『それでは本日もよろしくお願いします』
『よろしくお願いします。失礼します』
通話終了。即ち本日の仕事は一段落。
テストは自動化してあるので、八時間の見積もりに対して二時間の実働時間で完了する。
六時間のアドバンテージを駆使して、映画を見る。
お家時間のお供、サブスク。
感動は全て、物語の中だ。
拡張画面で動画配信サービスを開き、積みアニメから今日の一本を選ぶ。
気分が鬱鬱としている。
「ピコ、おすすめのアニメを教えて」
「……」
「ここはやっぱ、冒険活劇だよね」
とっておきの一本を決めた。
コーラとポップコーンを準備して、冒険に出る。
久しぶりに気分が高揚してきたところに、
ピコン。
と通知音がした。
仕事のメールかチャットでも届いたのだろうと画面を見ると、見慣れないメッセージが届いていた。
『冒険仲間、募集中』
アプリゲームの宣伝かとため息をつく。事前予約もしていないのに迷惑なことだ。
『在宅で暇してるそこのお兄さん(独身(笑))!
どうせ毎日、好きだった人のことでも考えてるんでしょう。
好きな人もいない部屋に閉じこもっていても退屈じゃない?
有り余ったその想いをエネルギーに変えて、異世界に飛び出そう!』
怪しいURLが水色の文字で主張する。
普段なら押さない。スパムメールの可能性が高いからだ。職種上、ITセキュリティの研修はしつこいほどに受けている。だから絶対に押さない。絶対、押すなよ……。
現状に刺激をくれるなら、詐欺に合っても最悪良しと判断したい。
思考が停止しているのだから、それぐらいの気概が無ければこの沼は抜け出せない。
誘惑と退屈に負けて人差し指にほんの少し力を加える。
カチッ。
404の数字。
何もないことを示すエラー番号だ。
代わりに届いたのは、上司からのチャットだ。
『永瀬さん。サードパーティツールで連携エラーが起きました。原因調査できますか?』
担当じゃないんで。って言えたらいいのに。
『そのツールのことは何も知らないのですが……』
言いたいことは「……」の中に詰め込んで返す。
専門外のツールのことは普通対応できませんよ、と。
『連携元はそちらです。よろしくお願いします』
『承知しました』
こんなものだ。重い腰を上げるしかない。
統合開発環境でソースを開けたので、そこからは勘と経験を頼りに深堀るだけ。
我ながら、自分の勘は頼りになるものだ。
見知らぬ言語で書かれたロジックでも、ものの数分で数値を文字列として取り込む分岐を見つけ出した。
たった一行書き換えるだけで問題は解決だ。
今日はこの解析に一日費やしたことにしよう。
いや、明日までかかることにしてしまおう。
その影響でテストも手付かずになってしまう。
それ位の成果ではある筈だ。
……こんな感じでズルをする癖がついた。
仕事で得られるのは充実感ではなく、罪悪感だった。
「ちっ」
イライラを押し付けるように、アニメを見る体勢に戻る。
ポップコーンをどか食いして、コーラをガブガブ飲み、ストレスを発散する。
ここでお酒を飲んだら人として終わる気がするので、その一歩だけは踏み出さない。
だけど仕事はちゃんとサボる。これが、葵星の毎日だ。
「……」
今日は、いつもと同じ一日から脱却したかった。
冷蔵庫から、お酒を持ってくる。
そうして葵星は、人として終わった。
「ピコと、話したい」
「……」
死後の世界は映画館がいい。
体を失った魂は真っ暗な部屋に閉じ込められて、真っ白な画面に映される作品を呆然と眺め続ける。
自分の意思の介入しない物語がただ流れる。
勿論、死んだのだから、感想は持てなくていい。好みもない。ストレスも感動もない。
無になってもいいから、物語を見ていたい。
なんて、意味のない願望だけれど。
そして、物語を再生する。
その日もまた始まるのは、二時間という限られた異世界冒険のはずだった。
☆彡
『ようこそ、ルナのプラネタリウムへ』
酩酊した頭の中で、声がした。
『最後の星は、君に使ってあげる』
☆彡
長いこと考えていたお話をやっと始められました。
これからどうぞ宜しくお願いします。
※筆者は決して仕事中にお酒を飲みません。