頭沸くどころか煮崩れてんぞ
「「極楽ぅ〜〜」」
秀太と佑樹は温泉に肩まで浸かって魂が抜けたような声を漏らした。周囲は定期的に梓によって焼き払われているらしく、木でできたものが一つもない。その先にある地獄の名前を冠する場所は少しだけ人で栄えている。
「疲れたな」
「ね」
佑樹は顔についた水滴を両手で拭った。
「ねぇ秀太」
「んー?」
「僕戦う訓練真面目にやってれば良かった」
「いや佑樹、俺は――」
「俺は? 教えてくれるの?」
「まぁちょっとばっかしは教えてやるけども、なっ!」
秀太は手で水鉄砲を作って佑樹に水を飛ばす。拭ったばかりの顔に水滴が飛び散った。
「ははっ、これくらいも避けれないのか?」
「は?」
他に人はいない。そもそも、生き残って九州にいるものが少ない。危険を顧みず地上で暮らすものなんてごく少数の、とんでもなく貧しい人か、とんでもない金持ちか、とんでもない悪党だけだった。それ以外は早々に北海道に住むか死んでしまったから。
梓と秀太は金持ちに属する。この温泉も梓と秀太の持ち物だった。
「ははは、秀太も避けれてないじゃん!」
「やったなコンニャロ!」
「早く上がれ!!! 見張り交代してよ!」
遠くから梓の声がして、秀太は咄嗟に敬礼した。ワンテンポ遅れて佑樹も敬礼をする。
「「はい! すみません!」」
ドタバタと浴衣の着方を教えてもらって温泉の入り口まで向かうと、梓が眉を下げて笑った。教主は牢屋で寝そべっている。
「おー、似合ってるじゃない」
「だろ?」
「そうかな?」
「うん。私は風呂入ってくる。ご飯準備しててね、秀太」
「はいはい」
料理のできない佑樹は、そうして牢屋の見張りという役目を仰せ賜った。とはいえ、見張りなどしたことがない。その長い髪をくるくると指で巻きながら、教主の前で座っていることしかできなかった。申し訳程度に置かれた棍棒が佑樹の足に当たって転がる。
「星の命を諾う子よ。佑樹よ」
びくん、と肩を震わせる。佑樹が発した音ではない。この空間にいるのは二人きり。必然的に、それは教主の声だった。
一歩後退りして、壁に背中をぶつける。
「私を逃がせ。お前ならできるだろう」
冗談を言っているようには見えない。どこまでも彼女は本気だった。
「ひ、人をいっぱい殺したんだろ」
「植物を鎮めるためじゃ。そのおかげでお前たちは平穏に暮らせていた。地下で襲われることなく生きられた」
「嘘だ、カーニバルは唯の肉食植物だって聞いた、そういう目的じゃなかったはずだ!」
体の震えが止まらない。温泉から上がったばかりだと言うのに、体の芯から冷え切っているようだった。
「生贄はただの安心材料でしかないって、カーニバルは神でもなんでもない、特別なものでもないって言ってたぞ!」
【生贄が傷つくことで神が満足し、神は悲劇をもたらさなくなる】という論理で星諾教は動いた。その因果関係は人々を安心させ、実際にカーニバルが襲ってこないことにより、教主はその論理を正当化し、地位を上げたのだろう、と秀太は一時間前に着替えながら言った。
秀太の言うことが真実かどうかは佑樹にとって重要ではない。秀太の言うことを信じたいと思ったから、佑樹にとって教主の言葉は聞くに値しなかった。
「なるほどねぇ」
つまり、信仰対象が変わっただけ。
目の前の少年が考える力を持たないことに教主は気づいた。今ならまだ取り込めると確信する。
「では問おう。それの何が問題なのだ?」
もう教主は縛られてもいない。檻の中には風呂もベッドもトイレもある。その姿は何不自由なく佑樹には見えた。むしろ、檻の中にいるのは自分のように感じた。
「お前以外の生贄は望んで死んだ。お前だって、あのガキに外の世界のことを聞かされなければ望んで死んだはずだが?」
教主はシワだらけの手で檻を掴んだ。佑樹は唇を噛む。事実、秀太に会うまで彼は自分の境遇を悲しむことなどなかった。
「どうして責められなければならないのだ?」
佑樹は答えが見つけられずにただただその長い髪を強く掴んだ。
「そのおかげで生きているものが幸せに生きられたのは事実だろう」
「だ、誰かの犠牲の上に幸せがあるのはおかしいんだ」
「どうして?」
聞かれたって応えることはできない。佑樹はまだ、自分の価値観を得るだけの物事を知らない。知らされないまま育てられた。
「どうしてそう思う? 例えば集団でカーニバルに襲われた時。その中の一人が犠牲になることを覚悟してカーニバルに食われ、他の人々は逃げられたとする。助かった人は幸せになってはいけないのか?」
教主は全ての宗教の生みの親がそうであるように、口がうまかった。そうして佑樹はおおよそ全ての若者がそうであるように、とても騙されやすかった。
佑樹には、教主の主張を否定できる術が見つけられない。
「誰かの犠牲の上に幸せがあるのは間違ってないよ。そういうものだし、残された人は犠牲者に感謝して精一杯幸せになる努力をすればいい」
「それとこれとは話が違っ」
「どこが? 犠牲者は犠牲になることを望んでいた。残されたものは幸せになった。ほら、一緒じゃないか」
全てが間違っているように感じる。だけど理性は彼女の主張の欠陥を見つけられない。
追い詰められたその時、ドアが開いた。
「わかるだろう、私は間違っていないんだ」
「あれ、ゴミが喋ってる」
風呂上がり。髪から滴り落ちた水滴が梓の肩を濡らす。
「そんなもん人殺した時点で全問不正解でしょ。死なせると殺すを一緒にすんなゲロクズババァ」
梓は佑樹を立たせて椅子に座らせた。
「佑樹、大丈夫? 何か言われた?」
「生贄を捧げたことは間違ってないって……」
「はぁ、ちゃんと言い返した?」
梓は首をふるふると振った佑樹を見てため息を吐いた。
「私と二人っきりの時は何も喋らなかったくせに、そんなに言い負かされるのが怖かったの? それともあんな馬鹿馬鹿しい経典作っといて男好き?」
佑樹は梓のあまりの言い分に度肝を抜かれて体を硬直させた。
「経典面白かったわ。シュールギャグってやつ? 人の書いた文であんなに笑ったの久しぶりよ。何目的なのあれ」
教主は顔を真っ赤にして震えている。よほど悔しいのか、その顔はすでに真っ赤だった。
「神は女性と男性の境遇を平等にし、差別なき世界を実――」
「そんなん良いから、平等にすべきは境遇じゃなくて機会でしょ。それで男に譲歩してもらって枷作って同じ境遇になれば満足ってか? そんなに女は弱いわけ? それに明確に区別してる時点で一番の差別主義者はあんただし」
怒涛の口撃。彼女の口は止まることを知らない。
「まぁそれは良いわ。好きに私の知らないところで主張してればいい。思想は自由よ、残念ながらね。でも生贄が正しいとはならないでしょ。頭沸くどころか煮崩れてんぞ」
教主も、佑樹も、目が点になっていた。梓の声は低く這うように二人の心臓を握る。
「殺した時点でゴミなんだよ。人は殺しちゃいけない。そんなの生まれる前に知ってるようなことでしょ。知っとかなくちゃいけないことでしょ」
「た、例えば殺された子の親が報復しようとするのは!? それはどうなる!?」
教主がやっとのことで口を挟んだ。佑樹は確かにその通りだと顔を歪める。
「子供に危害を加えた人間は報復を受けるべきだろう、そうは思わないか? 法律が味方をしてくれないから自分で手を下す親をも否定するのか?」
梓はその瞬間、怒り狂った。怒りに任せて口から今まで以上の暴言を吐き出そうとした時、場違いな明るい秀太の声が響いた。
「ご飯できたぞーーーーーーーー!!!!!!」
梓は頭を掻いて、大きなため息を吐いた。
「今日はステーキにしましたーー!」
そう言って牢獄に菜箸と共に入ってきた秀太は、一同の暗さに菜箸を落とした。
「…………唐揚げの方がよかったか?」