9 波乱
建物正面の門から中へ突入するのが、本来の作戦のはずだった。
突然現れた軍人たちに包囲されて、三浦怜奈は動揺していた。自分たちに先回りして待ち伏せしていた― そんな印象を受けた。あまりにもタイミングが良すぎる。
「お前たち、ここの施設に何か用か」
軍人の一人が、低い声で問うた。先日怜奈に模擬戦を挑んできたクワガタムシの能力者が、彼に応じる。
「別に何も」
「そうは見えなかったがな。わざわざバスに偽装した大型車まで用意して、ここまで来たんだから」
そこまで見抜かれていたとは。やはり、この軍人たちの動向の背景には絶対に何かある。そうでなければ、怜奈たちに先んじて迅速に行動を起こせるはずがなかった。
しらを切っても無意味だと観念したのか、クワガタムシの能力者はやや投げやりな口調で言った。
「仕方ない」
吐き捨てるが早いか、彼は軍人の包囲網の一角へと突進した。走りながらコマンドを唱え、能力を発現する。両腕から伸びる鋭い刃が、午後の太陽の光を受けて光った。
「俺たちは対能力者用装備をというやつを探している。邪魔をするのなら、まずはお前たちから片付ける!」
勢いよく振り下ろされた刃は、しかし軍人の右腕によって阻まれた。いつの間にか、彼のはめていた白い手袋がグローブ状に変化している。高い耐久性を持つそれは、斬撃を軽々と受け止めていた。能力者が攻撃に移ろうとした直前に、彼らは特殊装備を展開していたのである。
「何っ⁉」
戸惑いの声を漏らしたクワガタの能力者に、軍は反撃を開始した。数人が周りを取り囲み、武装によって威力を向上させたパンチを次々に叩き込む。男も必死に応戦しているものの、劣勢は覆しがたかった。間もなく膝を突き、崩れ落ちた彼の顔面を、大柄な軍人のブーツが容赦なく蹴り上げた。歯が折れる嫌な音がして、クワガタムシの能力者が倒れる。おそらく、気絶したのだろう。
事態の急変に、怜奈はパニックに陥りかけていた。作戦では陽動班と襲撃班とに分かれ、スマートに目的の装備を奪取する予定だった。それが今では、完全に敵に主導権を握られている。数的にも自分たちの不利は明らかだった。
恐怖に包まれ、脱兎のごとく逃げ出そうとしかけた彼女だったが、寸前で踏み止まった。
確かに、状況は芳しくないかもしれない。しかし、今相手にしている軍人たちは、怜奈たちが探していたターゲット、対能力者用装備を纏っているのだ。テレビで目にしたことのあるものと、それは同一の形状をしていた。間違いないだろう。
換言するなら、獲物の方から出向いてくれたというわけだ。
もっとも、誤算はある。エドワードの想定では装備は収納庫にしまい込まれており、軍人たちが使用する前に奪い取る手はずだった。クワガタムシの能力者を痛めつけた彼らは、全員が武装を装着している。
けれども、これが大きなチャンスでもあるのは事実だ。目の前に立ちはだかる部隊を蹴散らし、対能力者用装備を奪取もしくは破壊すれば、目標は達成される。自分たちはエドワードから約束の報酬を受け取ることができる。
(ここまで来たんだもの。やるしか、ないのかもしれない)
既に何人かの能力者は、「仲間の仇だ」とばかりに軍人たちへ果敢に立ち向かっていた。あちこちで火花が散り、戦いの火蓋が切って落とされる。
本音を言うと、体の芯が震えていた。今まで彼女が経験したことがあるのは、寸止めがルールの模擬戦のみ。命のやり取りなど未知の領域だ。
今更ながら、村上の言葉に耳を傾けなかったことが悔やまれた。でも、この状況で後戻りすることは不可能だ。
(ごめん、村上君。私、必ず生きて帰るから)
戦う決意を固め、彼女は走り出した。
「―『能力解放』!」
両手首から三日月形の鋭利な刃が伸び、カマキリの異能が発揮される。近くに立っていた軍人の胸部へ斬りつけると、防弾チョッキが引き裂かれて男が呻いた。隙を与えずに腹部を蹴り飛ばし、遠くへ吹き飛ばす。
まずは、一人。
終わりの見えない、過酷な戦いが始まった。
村上の殴打を躱し、今度は新田が攻撃を繰り出した。右足を素早く振り上げ、回し蹴りを放つ。横に小さく跳んで避けた相手を逃がすまいと、さらに左足を蹴り上げかけた。彼の跳躍力をもってすれば、多少の距離を取ったところで間合いに入っているのと同義なのだ。
しかし、その動作が途中で停止する。代わりに新田は高く跳び上がり、付近のアパートの屋上へ移動した。
「どうした。怖気づいたのか」
下から挑発するように呼びかける村上を、その手には乗るかとせせら笑う。
「二度も同じ手を喰らってはたまらないからな」
「見抜いていたか」
どこか感心したような口ぶりで、村上は呟いた。先刻、彼はわざと回避動作を鈍くした。本当ならばもっと距離を稼ぐこともできたのに、あえてほんの僅かしか位置をずらさなかったのだ。跳ぶ方向も、咄嗟に計算して割り出した。
新田の攻撃方向を、建物の外壁を走る水道管へ誘導する。住民には気の毒だが、水道管を破壊させて辺りを水浸しにできれば、村上の能力の真価が発揮される。濡れたアスファルトの上を高速移動し、新田を圧倒できることは間違いなかった。
けれども、それは以前の模擬戦でも使った手だ。やはり、攻撃パターンを読まれては成立しない作戦だった。
とはいえ、想定の範囲内ではある。この日にそなえ、村上は周辺地域を入念に調べ上げてきていた。手札のうち一枚が駄目になったに過ぎない。
「このゲームでは、俺の好きにさせてもらおう」
高らかに言い放ち、新田が動く。屋根から屋根へと目にも止まらぬ速さで飛び移り、村上は彼の現在位置を把握するので精一杯だった。地上で無防備に立つ彼へ、落下と跳躍の勢いを加えた急降下キックが迫る。両腕をクロスさせて、村上はどうにか凌いだ。
衝撃で数メートル後ろへ吹き飛ばされ、呻き声を漏らす。ふらふらと立ち上がった彼を嘲笑い、新田は再び建物の屋上へと戻った。
なるほど、確かにそれならば水道管の位置を気にする必要はない。ジャンプを繰り返して敵を翻弄し、高所から蹴りを放ってのヒットアンドアウェイ。隙の無い攻撃だ。
このままではじわじわと体力を削られるだけだ。そう判断し、村上は思い切った行動に出た。新田の反対方向に立つ別のアパートの屋上へと、自身も跳び上がったのだ。さすがにバッタの能力者には及ばないが、彼の身体能力もまた常人を凌駕している。そのくらいの芸当は朝飯前だった。
「馬鹿め。みすみす倒されに来たか」
不敵な笑みを見せ、新田が大きく跳ぶ。一跳びで村上の間合いへ入った彼は、牽制狙いで軽いジャブを放った。上半身を反らして避けた村上へ、本命の回し蹴りを叩き込む。
村上は体を屈めて躱した。不意に新田が余裕の表情を消し、ぎょっとして足を下ろした。それから村上へ向き直り、眉をひそめてみせる。
「…貯水槽を狙わせるとは」
アパートの屋上には、日光を反射して巨大な貯水槽が銀色に輝いていた。体勢を立て直した村上が、悪びれずに答える。
「俺の能力は少々トリッキーでね。正攻法じゃお前に勝てないのは分かり切ってる。だから能力を引き出せるよう、ちょっと汚い手を使わせてもらった」
「調子に乗るなよ」
出し抜けに新田が跳び上がった。今度は横方向にではなく、縦へのジャンプだ。夏に強い日差しが邪魔をして、バッタの能力者の姿が霞んで見える。目を細め、村上が回避動作をとろうとするよりも、新田の攻撃の方が早かった。
「これで終わりだ!」
先ほどよりもさらに多くの位置エネルギーと運動エネルギーが付与された、渾身の跳び蹴り。それを胸部に喰らって、村上は屋根から突き落とされるように落下した。身を踊らせ、弧を描くようにして吹き飛ばされる。
攻撃が命中する瞬間、新田は妙なことに気がついた。自分のキックが当たるよりもほんの少し前に、村上の体はくの字に折れ曲がっていた。
まるで、自分から進んで新田の攻撃を受けたかのようだった。それだけではない。体を折り曲げると同時に、彼の足は屋上から離れていたようにも思えた。
(何のためにそんなことをしたんだ?)
受け身を取って衝撃を殺そうとしたのか。しかし、それでは吹き飛ばされる飛距離を伸ばそうとしたのはどうしてか。
間もなく、新田はその答えを知ることとなる。
キックを受けた衝撃を利用し、村上は後方へ大きく跳んだ。要領としては、棒高跳びのベリーロールに近い。
屋上に上がったのも、全て計算の内だった。投げ出された体はやがて堤防を越え、その先の河辺へと着地する。戦いの中で細かな移動を重ね、村上は新田を少しずつ川沿いの住宅街へと誘導していた。機会を窺って水辺に行き、有利な環境で戦おうと狙っていた。
貯水槽を新田に攻撃させたのも、プランの一つではある。だが、本命ではない。前回も使った手とそれを少し捻った手を披露し、こちらが手札を使い切ったと思わせて相手を油断させるつもりだった。貯水槽作戦が成功すればそれに越したことはないが、鼻から期待していたわけではない。
水面に両足を乗せ、バランスを取る。今や、アメンボの異能は完全に発現されていた。みなぎる闘志が、ダメージを負った体に活力を注ぎ込んでくれるように感じる。
イメージするのはスケート選手ではなく、南国育ちのプロのサーファー。左足をすっと前に出し、ボードに両足を乗せたような姿勢をとる。ここが作戦の肝心な部分だった。新田をも凌ぐ大ジャンプを決め、華麗な逆転勝利を飾らねばならないのだ。
助走をつけ、村上は水面を強く蹴り飛ばした。ふわりと体が浮き上がるのを感じる。空中で体を捻って、跳ぶ方向を僅かに調整。唖然としてアパートの屋上に立つ新田に向かって、猛スピードで接近する。
「喰らえ」
一気に降下し、右足を前方に繰り出す。超高速で放たれたニーキックを顔面に叩きつけられ、新田は情けない悲鳴を上げて倒れた。手足をぴくぴくと痙攣させ、力なく横たわっている。脳震盪でも起こしたのかもしれない。
屋上に着地し、村上は呼吸を整えた。新田が戦闘不能となったのを横目で見ると、地上へ飛び降りる。
とんだ邪魔が入ってしまったが、彼にはまだやるべきことがある。政府軍と交戦中の能力者たちを助け、安全な場所へと逃がすのだ。
(待っててくれ、怜奈。今行く)
歯がゆい思いで、アメンボの能力者は全力疾走した。
神原の手の者が監視している可能性があるため、迂闊に家から出ることはできない。蓮と佐伯はもっぱら家にこもり、暇があればニュースサイトをチェックして最新の情報を調べていた。
残念ながら、いまだに軍の決定が取り消される気配はない。諦めて携帯をテーブルに置こうとした蓮だったが、ちょうど一件の新規通知が届いたのが目に留まった。
開いてみると、それは一通のメールの着信だった。差出人のアドレスに見覚えはない。
(迷惑メールの類だろうな)
画面をタップして拡大し、蓮はメールを削除しかけた。しかしその拍子に、内容の一部が見えて手を止めた。
最初の一行目は、次のように始まっていた。蓮は思わず、体を硬くした。
『和泉蓮様へ』
どうしてこの差出人は、自分の名前とメールアドレスを知っているのだ。ひょっとして、身近な誰かが送信したものなのだろうか。いずれにせよ、単なるスパムメールではないことは間違いなかった。本文を開き、読み進める。
『君に伝えなければならないことがある。今、能力者の集団が軍と交戦している。第一世代とも第二世代とも違う、君たちの知らない能力者だ。場所は添付ファイルを参照してほしい。軍が対能力者用装備を持ち出し、能力者たちは劣勢を強いられている。君の力が必要だ。彼らを助けてやってはくれないだろうか』
送信者はよほど焦っていたのか、最後まで自分の名前を名乗らなかった。それとも、意図的に匿名性を保ったのか。
メールを読み終えてまず感じたのは、「自分たちの知らない能力者」というものが存在するのか、との疑念だった。NEXTが解体され、生き残った能力者は僅かとなった。蓮と佐伯、澤田たち三人、それにユグドラシルだけのはずだ。新たな能力者がいるとすぐに信じるのは難しかった。
念のためいくつかサイトを見て回っても、軍と能力者が交戦しているなどと報じられてはいない。やはり、悪戯だろうか。
そのとき電話が鳴って、蓮は慌てて携帯を耳元に近づけた。
「もしもし」
『和泉か?』
聞こえてきた低く渋みのある声は、かつて共に戦った同志のものだった。澤田剛は、緊張した声音で続けた。
『軍にいる仲間から情報が入った。たった今、政府軍と能力者が衝突したらしい』
「政府軍と能力者が?」
今しがた受信したメールに書かれていた内容と、澤田の話はほぼ一致した。驚きのあまりオウム返しに聞き返してしまう。隣に座っていた佐伯が、怪訝な顔でこちらを見た。
「俺たち以外にも能力者がいたってことか?そんな、どうして…」
『俺に聞かれても困る。ともかくそいつの話では、奴らは人間業ではない力を使っていたらしい』
そこでだ、と澤田は本題に入った。
『神原派の部下たちが対能力者用装備で応戦したまでは良かったが、あいつらは能力者への差別意識が強すぎるあまり、加減を知らない。敵を数で圧倒し、一方的に叩きのめしているとのことだ。同じ能力者が関わる事態である以上、見過ごすことはできまい。助けに向かうぞ』
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺たちは軍を追放された身だ。気軽に動いて、力を使える状態じゃない」
どうやら、能力者と軍との間で小競り合いが起きているのは事実らしい。そして、神原の率いる部下たちが度を超えた理不尽な暴力を加えている。けれども、蓮はまだ決心がつかなかった。
『俺も軽い反乱行為をやって追われる身だが、多少のリスクは覚悟の上だ。急がなければ、能力者たちの命に関わるかもしれない』
逡巡を見せた蓮の手から、携帯がぱっと奪い取られた。
「おい、俺は蚊帳の外か」
やや不機嫌そうに言い、佐伯が電話を代わった。大体の事情を聞いてから軽く頷き、携帯を蓮へと返す。
再び電話を代わり、和泉は躊躇いがちに言った。
「今、世間の人々は能力者を色眼鏡で見ている。政府軍と能力者の抗争に俺たちが介入すること自体、かなり微妙なラインなんだ。たとえ父さんがフォローを入れてくれたとしても、取り返しのつかない結果になりかねない」
能力者がいなくても、スパイダーを撃破することは可能だ。能力者は異形の存在であり、普通の人間とは違う。神原派が人々に刷り込んだ固定的なイメージは、蓮たちをきつく縛っていた。
『分かっている』
澤田は一呼吸おいて、真剣な口調で言った。
『だが、能力者も普通の人間も、面倒なしがらみも関係ない。重要な事実は、強い者が弱い者を痛めつけているということだ』
その言葉に、強く心を揺さぶられた。
そうだ。自分たちはいつだって、力の弱い者を守るために戦ってきた。人間を喰らうスパイダーから市民を保護し、第二世代の能力者たちからユグドラシルたちを守った。人類に強制的な進化を遂げさせようとするNEXTの計画を阻止すべく、命を賭して戦った。
戦うべき相手が政府軍の一派であるのは、異例の事態かもしれない。最悪の場合、もっと重い処罰が下されるかもしれない。
けれども、もう迷いはなかった。
「―俺たちも向かう。現地で合流しよう」
通話を終了し、蓮は携帯を置いて静かに立ち上がった。
一分もしないうちに、彼らは高層マンションを飛び出していた。
電話を切ってホテルの部屋を出ようとした澤田の袖を、小さな手がぎゅっと掴んだ。
「…行かないで下さい」
ベッドに横たわる白石は、涙目で訴えた。
「澤田さんたちにまで、危険な目に遭ってほしくないです」
「心配するな」
ふっと微笑み、澤田は腰を屈めた。彼女を頭をぽんぽんと叩き、安心させるように言う。
「俺は不死身だ。ちょうど、お前を傷つけた奴らに仕返しをしてやりたいと思っていた」
じゃあ、と軽く手を振り、澤田がドアから出て行く。松木を連れて、ホテルの廊下を一目散に駆け抜けた。




