プロローグ
前作とは異なり、ダークで大人向けな雰囲気に仕上げたつもりです。その辺りの違いも楽しんでいただければと思います。
漆黒の大型バイクに跨り、青年はスロットルを握る手に力を込めた。勢いよく発進したバイクが、車道を滑るように走り出す。
高層ビルの立ち並ぶ都心を、青年は一気に駆け抜けた。風を切ってバイクを走らせるのは最高に気持ちいい。少なくとも二か月前の自分なら、そう感じていただろう。グレーのドロップショルダーと十字架をかたどったネックレスが、ゆらゆらと揺れ、なびく。
赤信号で止まったときに、ふと腕時計に視線を落とした。時刻は既に午前零時を回ろうとしていた。かれこれ一時間近く、あてもなく走り回っていることになる。喉の渇きを覚え、青年は信号が青に変わると交差点を左折した。商業施設のひしめく大通りから外れ、人気のない裏通りに入る。もっとも、この時刻に営業している施設はカラオケくらいのもので、通行人はいずれにせよまばらだったのだが。
目に留まった公園の手前でスピードを落とし、バイクを停車させる。ヘルメットを脱ぐと、染めたばかりの金髪が現れた。
別に、童心に返って砂遊びしようというわけではない。彼が用があったのは、遊具の側にあった自販機だった。その手前まで歩いて行き、品定めをする。
ラインナップをざっと見ると、エナジードリンクも何種類か販売されていた。夜の街を疾走したせいかアドレナリンが相当出ていて、眠気は一向に訪れない。ここでさらに意識を覚醒させて、朝まで馬鹿をやるのも悪くない選択肢だ。どうせ、明日の講義は出席しなくても単位が来る。休んだって全然構わない。
買うものを決めると、青年はトートバッグの中から革財布を取り出した。自販機に百円玉二枚を投じようとしたそのとき、何の前触れもなく、背後からごつごつとした男の手が伸びてきた。男は彼よりも一瞬早く、二枚の百円玉を投入した。そして、ちょうど青年が押そうと思っていたボタンを迷わずに押した。
鳥肌が立つような恐怖に襲われて、青年はぱっと後ろを振り向いた。そこには、浅黒い肌をした長身の男性が立っていた。髪は黒々としているが、瞳の色は異質なダークブラウンで、鼻の高い顔立ちもエキゾチックなものを感じさせた。おそらく、アジア系の外国人だろう。
この男は自分のすぐ後ろに立ち、何を飲もうかと思案している様子をずっと観察していたに違いない。それも、全く気配を悟られることなく。只者ではない、と青年は思った。
男は彼と目を合わせなかった。やがて、ガコンという音と共に目当てのドリンクが出てきた。
「飲みたまえ。私のおごりだ」
予想していなかったことに、男の口から流れてきたのは流暢な日本語だった。アクセントに若干の奇妙な部分が残っている以外は、ほとんど違和感のない発音であった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
とりあえず缶を手に取ったものの、青年は警戒を解かなかった。一体、この男性は何を考えているのだろう。親切心のみからドリンクをおごったわけではない、と直感が告げていた。
「村上蒼真君、だね」
ここで初めて、男は真正面から村上を見つめた。ちょうどエナジードリンクの一口目を味わっていた彼は、突然放たれた台詞に驚き、むせそうになった。
「どうして俺の名前を」
男には村上の質問に答える気がないようで、にこやかに続けた。
「君の走りは見せてもらったよ。いやはや、見事なテクニックだ。混み合った都会の道路を、鮮やかに走り抜けていく。見ていて爽快だった」
「……おっさん、もしかして引退した元レーサーか何かか?」
村上は胡散臭そうに男を見返した。台詞の端々から苛つきを滲ませ、相手を威圧しようと試みる。四十代前後と思われる男からすれば自分などガキ同然なのかもしれないが、それなりのプライドや威厳のようなものは見せておきたかった。一方的に主導権を握られ続けるのは、あまり好ましい状況ではない。
けれども、男はこの問いをも無視した。
「だが、あまり楽しそうではなかったね。むしろ、バイクで疾走しながらもどこか退屈しているという風だった」
図星だった。衝撃を伴って、一字一句が意識に叩きつけられた。村上は何か言い返してやろうと思っていたが、その文句を忘れてしまった。
まさに男の指摘した通りだった。高校を卒業してすぐに大型二輪の免許を取り、村上はバイクを乗り回すようになった。髪だって明るい金色に染めた。
大学に入ってからは悪い仲間とつるみ始め、酒や煙草を覚えた。何度も女と寝た。しかしそれでも、何かが満たされなかった。一度刺激を味わっても、時間が経てば慣れてしまい、やがては飽きる。いくら快楽を貪ろうとしても、隙あらば退屈が顔を覗かせようとした。
人生が無意味なことの繰り返しに思える、とでも言えばいいのだろうか。よく「人生楽しんだ者勝ち」と言われるが、村上にはそう思えなくなっていた。楽しいことを追求しようとして、今の自分がある。だがその結果、何が残っただろう。もはや何をするにも飽きてしまい、虚しさだけがあった。
遊びに刺激が伴わなくなって、自然と悪友と遊ぶことも減った。時々、スリルを求めてこうやってバイクを走らせはするものの、暇潰しに近い行為だった。
「人生に退屈しているのかい」
覗き込むようにして尋ねてきた男に、村上は小さく頷いた。
「俺のこと、よく分かってるじゃないか」
「ならば話は早い」
そう言って、男は右手に提げていたバッグの中から一本の注射器を取り出してみせた。中には紅の透明な液体が充填されている。
「私なら、君に極上の刺激を与えてやることができる」
「何なんだよ、それは」
村上は、注射器へ訝しむような視線を向けた。
「これを打てば、君は超人になることができる。『能力者』という者たちの存在を知っているかな」
「まあ、名前くらいなら」
遠い記憶を探りつつ、村上が曖昧に応じる。二年前、国際研究機関NEXTという組織がスパイダープランを悪用し、全人類を異形の怪人へと強制的に変化させて、過酷な環境に適応できるようにしようとした。彼らの行おうとした独善的な計画を阻止したと言われているのが、「能力者」と呼ばれる存在である。
能力者はいわば、人類の運命を変えた英雄だ。それにもかかわらず、表舞台に姿を見せることはまずない。残ったスパイダーの討伐に明け暮れる彼らに、そんな余裕はないのかもしれない。もちろん村上もその姿を見たことはなく、自分の中では伝説上の存在となっていた。
それで、能力者とこの男の提案にどんな関係があるというのか。
「この注射は、君の能力者としての力を授けるものだ。つまり、獣人形態への変身能力を獲得できる」
「本当に、注射一本でか? 話が上手すぎるな」
「ああ」
依然として相手を信頼していない村上に、男は動じた様子もなく首肯した。
「私の開発した新技術なら、複雑な手術などの必要なしに人間を能力者に変えることができる。NEXTの編み出したテクノロジーに改良を加えたものだ」
自信に溢れた口調で語られる台詞に耳を傾けていると、村上はこの男の提案に乗るのも悪くない気がしてきた。常識的に考えれば、見知らぬ男性に言われるがまま怪しげな注射を打たれるなど正気の沙汰ではない。しかし、彼は人生に飽き飽きし、刺激に飢えていた。気が狂いそうな退屈から抜け出そうと、新しい娯楽を渇望していた。もし本当に超人的な力を手に入れられるのなら、これ以上の快楽はないかもしれない。
だが、魅力的な提案にすぐに乗ってしまうほど、村上は馬鹿ではなかった。
「見返りは何だ。何の期待もなく、そんな申し出をするはずがない」
「何、大したことは求めていない。ちょっとした仕事をしてくれれば良いんだ」
大きな体を揺らし、男が愉快そうに笑う。それから一転して真面目な表情になり、辺りに人がいないのを確認してから小声で言った。
「まず約束して欲しいことが一つある。むやみに人前で異能を晒さないことだ。これは君のためでもあるし、私のためでもある。いつの時代も、マスコミというのは厄介なものだ。分かるだろう?」
「分かった。約束しよう」
村上は慎重に頷いた。この男は油断ならない、と本能が叫んでいる。下手に口約束を交わせば、最悪の結末に至るかもしれない。言葉を選び、無難に取引を進めるべきだ。
「次に、然るべき時が来れば私の下で働いてほしい。これも約束できるかい」
「然るべき時というのはどういう意味だ」
もったいをつけたような言い方が、妙に気になった。問いただしてみたところ、男は愛想笑いを浮かべるばかりだった。
「文字通りの意味だ。実を言うと、詳しい内容は私もまだ考えているところだ。もちろん、仕事をしてくれるならそれなりの報酬は支払おう」
男は具体的な金額を上げてみせた。村上がやっている居酒屋のバイトの給料とは、桁が違った。一度その仕事をするだけで、バイトの収入の約一年分に相当する。
それだけの金が絡むということは、危険が伴うのかもしれない。だが同時に、莫大な報酬を得られればこの退屈を吹き飛ばす強烈なスパイスにもなるだろう。今でこそ中古で買ったバイクを改造して乗り回しているが、もっと上等なのを買うこともできるはずだ。ブランド物の服を買い揃えることもできる。女遊びも豪快にやれそうだ。
もはや、申し出を断るという選択肢は存在していなかった。村上はにやりと笑い、男に告げた。
「その話、乗ったぜ」
「賢明な判断だ」
満足げに頷き、男はにっこりと笑った。右手に注射器を構え、早速用意を整える。
「では手始めに、腕を出してくれるかな」
赤い液体が自らの肉体に注入されていくのを、村上はどこか夢を見ているような心地で眺めていた。体に力がみなぎっていくような気がして、最高に気持ちよかった。