8:<水曜日> エビのグリーンカレー
その日は、朝から寒くて大雨だった。
横殴りの土砂降りの中、細い階段を駆け上がって店へ入る。
すでに、染さんは出勤していた。
「おはよう、楓ちゃん。すごい雨だね」
「お、おはようございます。傘をさしていたんですけど、濡れちゃいました」
染さんに差し出されたタオルを、ありがたく拝借して髪や体を拭く。
「今日はお客さん、店に来ないかもねえ」
「配達はどうするのですか?」
「オフラインにしているよ。こんな天気だし、配達員も危ないだろうから」
「私が行きましょうか? 雨の日は配達の需要が多いと思いますよ?」
「余計に駄目だよ、雨の中を何往復もさせるなんて。とにかく、今日は配達禁止」
本当に、染さんは人がいい。
店主の一言で、本日は店のみ営業することが決まった。
「ところで、染さん。調理台の上に乗っている野菜たちは何ですか? 初めて見る形ですが……」
まな板に、赤い球根のような不思議な野菜が置かれている。
「ああ、これ? ホムデンという野菜だよ。赤タマネギみたいなものだね」
「隣の緑色の野菜は唐辛子ですよね?」
「うん。ピッキーヌという青唐辛子だよ。で、その隣はカーという生姜と、ガティアムというにんにく。奥はバイマックルーという、コブミカンの葉っぱだよ。手前がタッカイ……レモングラスと、バイホラパーというバジル。横のビンにはカピというエビの味噌が入っているよ」
今日の食材は、聞いたことのないものばかりだ。彼が何を作るのか想像もつかない。
「一体、どんな料理を作るんですか?」
「グリーンカレーだよ」
「えっ……グリーンカレーって、こういう食材を使うんですね」
楓は、グリーンカレーを食べたことがある。レトルトでも売られているからだ。
(ココナッツミルクの入った、アジアンなカレーだよね)
けれど、こんな未知の食材を用いる料理だとは知らなかった。
「全部、タイの食材なんだ。やっぱり、店で出すからには本場のものを使いたいし」
「調理過程を見てみたいです」
「うん。今日は暇だろうから、作り方を教えるよ。この間、家でカレーを作ったと言っていたよね」
「はい。と言っても、カレー粉を使った簡単なものですけどね。スパイスは、配合がわからなくて……」
「そこは、好みに応じて変えればいいんだよ。店のカレーの配合も、僕が試行錯誤して一番合うと思った分量で出しているから」
まずは、カレーペーストを作っていくようだ。
ミキサーに不思議な材料を投入していく染さん。
「楓ちゃん、棚からスパイスを取ってもらえるかな。ホールスパイスのクミン、コリアンダー、クローブを小さじ一ずつ」
「了解です!」
ホールスパイスは、原型のままのスパイスのことだ。粉にしているものは、パウダースパイスという。
楓は、いつも染さんがするように、小さな皿にスパイスを取り出していった。
コリアンダーは粒が跳ねるので、こぼさないよう気をつける。
まずは、熱したフライパンに油を引き、ホールスパイスを入れて香りを移すのだ。
弱火で五分ほど加熱すればいいだろう。これをテンパリングと呼ぶ。
ちなみに、チョコレートの粒子を整えることもテンパリングというけれど、スパイスのテンパリングとは全くの別物である。
次に、鍋にココナッツオイルを入れて油が分離してくるまで煮る。
そして、いよいよ、ミキサーで作ったカレーペーストを投入。
野菜を入れて味付け。今回使うのは、オクラとナスだ。
煮詰めたら、コブミカンの葉を乗せ、さらに十分ほど煮込む。
最後に冷蔵庫から出した処理済みのエビを加え、火が通ったらナムプラーを垂らす。
ナムプラーは魚醤といって、鰯を塩で漬け込み、底に含まれるタンパク質を発酵、熟成させて作った調味料である。
臭いけれど、大量のアミノ酸が入っているので、おいしい。
「わあ、グリーンカレーの匂いがします」
「うん、問題なさそうだね。今日はこれでいこう。楓ちゃん、食べていいよ」
「ありがとうございます、いただきます!」
実は、楓は朝ご飯を食べていない。染さんの実験カレーを当てにしているのだ。
彼は開店前に、その日店に出すカレーを作って、状態を確かめる習慣がある。
使う素材によって、カレーの味が異なるそうだ。
朝からカレーはきついと思われがちだが、慣れればそうでもない。
楓と染さんは、毎朝おいしくいただいている。
マイルドなココナッツ風味の中に、ほのかに香るナンプラー。
ぷりぷりのエビもカレーに合っている。
そして、市販のレトルトカレーとは異なるフレッシュな味わい。
これは、生の材料を使ったからこそ出る風味だろう。
グリーンカレーのグリーンは、ピッキーヌの色だったという発見もあった。
ちなみに、アジアンカレーのレッドカレーは甘口の赤唐辛子、イエローカレーはターメリックの色らしい。
つまり、グリーンカレーが一番辛い。
「今日はエビだけど、チキンを入れてもおいしいよ」
「チキンバージョンも食べてみたいです!」
楓は、しっかりとリクエストしておいた。
「それと、これもどうぞ」
差し出されたのは、最近メニューに加えられたライムソーダだ。
炭酸にライム果汁を搾ったもので、こちらもドリンクメニューに書かれている。
スッキリとしたのどごしは、グリーンカレーにマッチした。
洋燈堂のライムソーダには、スペアミントやカルダモンも入っている。
「おいしいです」
「お酒を入れても合うんだよ」
「家で作ってみます」
今は業務中なので、飲酒はできない。
もともと染さんのお祖父さんが経営していたバーだったからか、隅にある棚には使われていない外国の酒のボトルが並んでいた。
窓の外を見ると、まだ雨は降り続いている。空はさらに暗くなり、遠くで雷も鳴っているようだ。
開店休業という文字が、楓の頭に浮かんだ。
(うーん、暇)
以前、楓が提案した店内の飾り付けは大体完了している。
メニュー表は、料理の名前の横に説明書きを入れた。
オススメの食べ方も書いて、辛さの調整が可能なことも記載しておいた。
店の名刺は自由に取れるよう、レジの横に置いている。店の名前と連絡先、兎のイラストが描かれた名刺だ。
この兎は、染さんが飼っているヘメンをモデルにしている。
照明や曼荼羅模様のタペストリーは、染さんのアイテムをそのまま使用し、他は楓がカフェ風に改造していた。
音楽も、落ち着いた曲を流している。
古くて黄ばんだカウンターの壁紙も、タイル風のものに張り替えている。
鞄がかけられるよう、机の下にフックも取り付けてみた。
男性客は財布をポケットに入れて持ち歩くが、女性は鞄を持ってくる率が高いからだ。
壁にもフックをつけて、ハンガーをかけている。
これまでは足下に籠を置いていたが、これからの季節、かさばるコートが籠に収まるか微妙なので。
寒さに備えてエアコンの掃除もし、床もきれいに磨いてある。
倉庫から電気ストーブも出してきた。
客用の膝掛けも購入したし、冬支度はバッチリだ。
「雨、止まないですね」
「最近ずっと忙しかったし、たまにはこんな日もあるよね」
静かな時間が店内に流れる。
二人とも口数は少ないけれど、不思議と心が落ち着く。
お店としては困るけれど、楓は心地よい一日を堪能したのだった。