6:<火曜日> ダルカレーと和風味噌キーマカレー
田中は、この日も洋燈堂へ向かって歩いていた。
高校生の時に父親を亡くし、それからはとび職として働き、母や妹を助けている。
母は介護士として田中の収入で足りない分を支え、現在高校生の妹は家事全般を引き受けていた。
家族三人、なんとか上手くやれている。
そんな田中のささやかな楽しみが、週に一、二回のカレーなのだった。
幼い頃から、田中は辛いものが苦手だった。そんなものを喜んで食べる人間が理解できなかった。
(舌、痛くならねえのか? 甘いものの方が旨くねえか?)
ただただ、疑問だった。
だから、カレー好きにもかかわらず、一般的なカレー屋は苦手だった。
絶対に辛いからだ。
たとえ甘口メニューがあっても、横に「お子様向けに」なんて書かれていた日には、注文できずに大人向けを頼んでしまう。そして、後悔する。
そんな田中が美味しそうな匂いにつられて迷い込んだのが、路地の奥の錆びた階段を上った先にある、洋燈堂だった。
田中がこの店で最初に食べたのは、「マトンカレー」と「ダルカレー」のセットだ。
マトンカレーは羊肉の入った普通のカレーだが、ダルカレーは黄色い色で、おおよそカレーっぽくない見た目だった。だが、香りだけはカレーだ。
最初に口を付けたのは、マトンカレー。
中辛程度の辛さなので、食べられないことはない。
(旨い。けれど、やっぱり、辛いな)
食べる速度が遅くなり、水を飲むペースが上がる。
それを見抜いたのが、洋燈堂の店主だった。
ニコニコしながら、「そちらのダルカレーを混ぜると、辛さが緩和しますよ」などと、話しかけてきたのだ。
幸いというべきか、田中の他に客はいなかった。
大の大人が「辛いものが苦手」なんて恥ずかしいので、誰にも聞かれずに済んでホッとする。
(カレーでカレーの辛さを緩和させるなんて、馬鹿げた話だ)
疑いながら、ダルカレーを口へと運ぶと……
「お? 辛くない?」
スパイスの香りはするし、味もカレーっぽいが、辛くはなくまろやかな味がした。
(なんだこれは)
田中は店主に言われたように、マトンカレーにダルカレーを混ぜてみる。
すると、確かに辛さが激減した。
「カレーの辛さは、唐辛子の量で決まります。こちらのカレーには、入れていませんので。それから、お水を出しといてなんですけど、水で辛さは緩和されません」
「え……」
「それどころか、余計に辛くなります。人間の舌は、カプサイシンという化学物質が痛覚受容器にくっつくことで辛いと感じます。なので、水を飲むと、それが口中に広がってしまう悪循環に陥ります」
「じゃあ、俺はどうすればいいんだ!?」
水で救済されないなら、ダルカレーを食べ続けるしか辛みを和らげる方法がなくなる。
すると、店主は笑顔でグラスに入った白い液体を差し出した。
「ラッシーです。今日はサービスしますので、どうぞ」
「牛乳か?」
グラスを鼻先に近づけて嗅いでみると、ヨーグルトの匂いがした。
「これはヨーグルトドリンクで、牛乳の成分が辛さをブロックしてくれます。他には、コーヒーを飲むという方法もあります」
疑わしく思いつつ、田中はラッシーなるものを口に含む。
(甘いな)
ラッシーは飲みやすく、田中好みの味がした。
ダルカレーとラッシーの力で、全てのカレーを美味しく完食する。
「このダルカレーというのは、いつも置いてあるのか?」
田中が問いかけると、店主は首を横に振った。
「いいえ~。日替わりなので、今日はたまたまです」
「そうか……」
せっかく、気に入ったカレーがあったのに残念だと思いつつ、田中は会計を済ませる。
すると、店主がこっそり囁いた。
「特別に辛くないメニューをお作りすることはできますよ。注文の際に言っていただければ、唐辛子を減らしたり抜いたりできますので」
これは、良いことを聞いた……と、田中は嬉しくなった。
辛いのが苦手なだけで、カレー自体は大好きだ。
だから、いつも外食では歯がゆい思いをしていた。どうして、外で出されるカレーは、あんなにも辛いのかと。
それが解決されるなら、素晴らしいと思った。
こうして、田中は洋燈堂へ通い続けることになったのだ。
暇なのか、会う度に店主にカレーのうんちくを語られたり、「甘口スペシャルですね!」と顔を見るなり笑顔で言われたり、色々思うところはあるけれど、田中は洋燈堂を気に入っている。
自分から「甘口スペシャル」と注文するようになってしまったくらいには。
そして、最近、洋燈堂には店員が増えた。
新卒くらいの年齢の、楓という女性店員で、主に注文を取ったり、皿を片付けたりしている。
最初は脅えられていたが、近ごろは彼女も慣れてきたようだ。
「カレーの甘口スペシャルと蜂蜜増し増しラッシー、あとキールですね!」
などと、店主譲りの笑顔で接客している。
なんとなく、この仕事に向いているのではないかと思った。
店主の長ったらしい「カレー語り」についていけるだけですごい。
しかも、喜んで聞いている雰囲気だ。
そしてなにより、店主がずっとデレデレしている。
傍目にはわかりにくいが、この店に通い詰めている田中だからこそ見えてくるものがある。
店主は、あの店員をかなり気に入っている感じがした。
「そうそう、田中さん。うちの店も、今度から注文を配達できるようにしたんですよ。ウーバーイーツというやつです」
「そうなのか。それはいいな」
田中が住んでいるのは、洋燈堂の隣の駅だ。
少し割高になるが、店に行けない日でもカレーが食べられるのは嬉しい。
そしてなにより……
(家族にも、ここのカレーを食べさせてやれる)
母と妹と田中は、それぞれの生活が忙しい。
家で一緒にいることはあっても、三人で外食など、もう何年もしたことがなかった。
配達してもらえるのなら、三人で店のカレーを楽しむことができるのだ。
教えてもらったアプリをダウンロードし、田中は洋燈堂からの帰路についた。
※
数日後、珍しく家族全員が夕食で揃う日があった。
いつもは時間が合わず、家族バラバラに食事しているのだ。
「せっかく家族が揃ったんだし、久々に、出前でもとってみようよ!」
そう提案したのは、妹の雛だ。
今日くらいは、家事を休ませてやりたいと思った田中も同意する。
母も異論はないみたいだった。
(そうだ。あのカレー屋で注文してみるか)
せっかくなので、頼んでみたいと思った。
アプリをダウンロードしていた田中は、検索で洋燈堂を探し当てる。
「カレーはどうだ? いい店を知っているんだ」
「ええ~。レトルトのが家にあるし~」
「そんなのとは比べものにならないほど旨い」
「そこまで言うなら、カレーでいいけど。お兄ちゃん、辛いの駄目じゃなかった?」
母は「なんでもいい」と言うので、カレーを注文した。
(オススメに出ている、和風キーマカレーにしよう)
備考欄には、一人分を甘口スペシャルにするよう記入した。
最近の出前はすごい。宅配員の顔と現在地までわかってしまう。
(ん……? こいつは……?)
しばらくすると、インターホンが鳴ってカレーが届いた。
「こんばんは~」
現れたのは、新人アルバイトの楓だ。
「注文が多い時間帯で、配達員さんが捕まらなくて。運動がてら来ちゃいました。やっぱり田中さんでしたか」
おそらく「甘口スペシャル」でバレたのだろう。
最初は口数の少なかった楓は、店主に影響されてか、少しずつ会話ができるようになってきた。
「お待たせしました。こちら、お店で出している通常のキーマに焦がし味噌をかけた特別メニューです」
そして、新人なのに彼女のカレーへの熱意もすごい。
あっという間に、様々なカレー知識を吸収している。
最低限の会話を終えた楓は、自転車で店へと帰っていった。一駅だが、片道十五分はかかる距離だ。
部屋に戻ると、雛がニヤニヤした顔で立っていた。
「さっきの人、お兄ちゃんの知り合い? 彼女?」
「そんなわけあるか」
袋の中から、容器に入れられたカレーとサフランライスを出す。
「わあっ、いい匂い! 香ばしい香りがする」
サービスでつけられたサブジを混ぜつつ、全員が好き勝手にカレーを食べ始めた。
「美味しいねえ!」
「普段食べているカレーと、全然違う! 重くない!」
洋燈堂のカレーは、田中の母と妹にも好評だ。
雛が店に行きたいとせがむので、田中は「休みの日にでも連れて行こう」と、ぼんやり考えた。