44:<土曜日> 四色カレー2
「おいしいわね。重くなくて、食べやすいわ」
意外にも、母は好意的にスパイスカレーを見ているようで、どんどん皿の中身が減っていく。
嫌いなものは口にしない人だから、よほどカレーが気に入ったのだろうと思う。
カレーを完食した母は、一息ついて楓に話しかける。
「で、転職のことだけれど、どうするの?」
「……し、しないよ。ここで働く」
縮こまりながら答えると、母は信じられないというように目を見開く。
「何を言っているの? まさか、一生ここにいる気?」
「……それは」
将来どうなるかはわからないが、できる限り洋燈堂にいたいと思っている。
「カレー屋で働くのなら、なんのために大学へ通ったの?」
「…………」
聞かれても困る。なんのためでもなかったのだから。
行けと言われたから、学区で一番の高校を受験した。
行けと言われたから、両親の勧める大学を受験した。
本当に、当時の楓は何も考えていなくて、彼らの言いなりで動いていた。
「自分が悪かったのは理解しているよ。学費、少しずつだけど、返す……」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「……やっと、やりたい仕事が、見つかったの」
「カレー屋での接客が、あなたのやりたいことなの? 接客なら、他にもあるでしょ?」
母の言葉と楓の意見は根本的に食い違っている。
接客がしたいとか、限定的な内容ではないのだ。
(染さんと一緒に洋燈堂を作っていきたい、良くしていきたい)
働きたいのは、この店だからなのだ。
けれど、母を前にして言葉で説明するのは、口下手で臆病な楓にとって酷く難しい。
「それに、カレー屋の接客って、アルバイトじゃないの? やめてよ、恥ずかしくて近所の人に言えないわよ、同級生のお母さんたちになんて言えばいいか」
「なんで他人にいちいち私のことを報告する必要があるの? カレー屋のどこが恥ずかしいの? お母さんもおいしいって言ったのに……」
どうして、洋燈堂を悪く言うのだろう。
楓にとって、この店での仕事は素晴らしいものなのに。
(非正規なのがいけないの?)
話さなくては、説得しなくてはと思うのに。感情が乱れて、思考がまとまらない。
母の視線が痛い。今にも心が折れてしまいそうだ。
すると、また染さんがさりげなく助け船を出してくれた。
「あの、すみません。前の会社で働いていた際に、か……天野さんが体調を崩して倒れたのはご存じですか?」
楓を睨んでいた母は、ぎょっとした様子で染さんの方を向いた。
「それは、本当ですか?」
「はい、たまたま、僕がその場に居合わせて、彼女を病院へ送り届けたんです」
「あらまあ、それは、ご迷惑をおかけしまして。体調管理すらできない駄目な娘で……」
昔から、母は息をするように他人の前で楓を貶める。
「そういうことではなくて、前の会社の業務内容や勤務時間、社内環境が祟って、天野さんは体を壊したんですよ。聞けば、早朝出勤や終電後の帰宅は当たり前、休日出勤や泊まり込みでの仕事もあったようです。それでは、体を壊すのは不思議ではないと思うのですが」
「社会人なのだから、それは仕方がないでしょう? 一度勤めた会社を辞めるなんて、いい大人のする行動ではないわ。入社したからには、一生そこで働く覚悟を持たないと。せっかく、他人に自慢できるような会社に入ったのだから」
世代が違うからか、母とは根本的に話がかみ合わないことが頻繁にあった。
染さんもそれを感じているだろう。
「うちは見ての通り小さな店ですが、天野さんのおかげで、食事時には行列ができるようになりました。最近では、雑誌でも紹介していただいて」
楓は近くに置いていた雑誌を手に取り、洋燈堂の載っているページを開く。
そこには、でかでかと四色カレーと店の説明が書かれてあった。
ペアー出版の鈴木さんは、一ページを丸々使って、洋燈堂を紹介してくれたのだ。
「確かに、天野さんはアルバイトとして勤務してくれています。ですが、彼女の功績と店の売り上げの増加に伴い、来月から彼女を正社員として雇いたいと考えています」
染さんの言葉に、楓は驚いて顔を上げた。
(もしかして、営業が終わってから話があると言っていたのは……このこと?)




