4:<火曜日> ポークビンダルー
引っ越しや荷物の開封も一段落し、楓は今日から仕事に入る。
庭の葉っぱが赤く染まり、少し寂しい風が路地を吹き抜けていった。
(秋だなあ)
朝の掃除を終えたあとは、食材の買い出しだ。
いつもは、染さんが市場に野菜や肉を買い出しに出かけるのだが、この日はワインビネガーが足りないので、楓がスーパーへ向かうことになったのだ。
お金は、あらかじめ、店用の財布を渡してもらっている。
「まだ時間はあるから、ついでに楓ちゃんの好きなものも買ってきていいよ。お菓子とか」
あれから緊張もほぐれ、染さんは敬語ではなくなった。お客さん扱いではなくなって、不思議な気分だ。
「どうか、お気遣いなく」
お菓子って、小さな子じゃあるまいし。
染さんは、楓のことを「ちゃん付け」で呼ぶ。
彼には、楓が子供に見えているようで、なんとなく複雑な気分だ。
長袖ブラウスにデニム、スニーカーというラフな格好で、楓は買い物に出かけた。
スーパーに入ると、ワインビネガーはすぐに見つかる。買ったことがないので心配だったのだが、発見できて一安心だ。
近くにスパイスの棚があったので、興味本位で覗いてみる。様々な種類の小さなスパイス瓶が並んでいた。
(ふぅん、パセリやバジル、ローズマリーもスパイスの扱いなんだ。生姜やニンニク、オニオンやパプリカのパウダーも置いてある)
ハーブや野菜もスパイスに含まれていたのは、意外な発見だった。
「これはなんだろう。サフラン……って、高い!」
サフランの価格を見た楓は、目を剥いた。小さな瓶に入ったそれが、一グラム千円で売られていたからだ。
(なんで、こんなに高価なの!? 黒胡椒の瓶なんて、たくさん詰まって三百円なのに)
楓は混乱しつつ、他のスパイスに目を移す。
原形を残したままのスパイスとパウダーのスパイスがあり、値段は全体的にパウダーの方が安い。
(あ、カルダモンだ……こっちも少し高い。五百円? バニラビーンズも高い。二本しか入っていないのに、八百円!)
いろいろショックを受けつつ、楓はスーパーをあとにした。
店に帰って、ワインビネガーと財布を染さんに渡す。
「どうしたの、楓ちゃん? 魂が抜けたみたいな顔をしているけど」
「新しい世界を知ったというか、なんというか。スパイスって、高いんですね」
「ものによりけりだけれど」
「サフランなんて、一グラムで千円もしていましたよ」
真剣な顔で伝えると、染さんは面白そうに笑う。
「楓ちゃん、知ってる? サフランって、世界一高価な香辛料なんだよ」
「えっ、世界一ですか!?」
「うん。サフランは番紅花のめしべの柱頭部分を乾燥させたスパイスなんだけど、一つの花にめしべは三本しかないから、一グラムを採取するためには、二百個から三百個の花が必要なんだって。収穫できるのは開花している朝だけだし、全部手摘み。手をかけたサフランほど高価なんだよ」
「なんと! すごいスパイスですね」
サフランは薬用としても用いられるが、妊娠中は避けた方がいいらしい。
「ちなみに、値段の高いスパイス二位はバニラビーンズで、三位はカルダモンなんだ。まあ、ランキングは日々変動しているけれど。レモングラスやライムリーフも高いよ」
サフランは全食材の中でも上位に入る高価さなのだとか。
話をしている間に、染さんは黒板に今日のメニューを記入している。
<火曜日>
本日のカレー(ポークビンダルー)
初めて聞く名前のカレーだった。
「ポークというからには、豚肉のカレーなんですよね」
基本的な仕事を教えてもらっているのだが、その間も楓はカレーが気になって仕方がない。まかないが楽しみだった。
(それにしても、染さんは丁寧に説明してくれるなあ。ちょっと感動)
前の仕事との落差に、戸惑ってしまう。
「わからないことがあれば、なんでも聞いてね」
「……染さんは優しいですね」
「そうかな。新人さんに仕事を教えるのは普通じゃないかな」
キッチンに戻った染さんは、手を洗って冷蔵庫から出した大きなタッパーを開く。
ぷわんと、ニンニクの強い香りが広がった。
「なんですか、それ」
「下ごしらえをした豚肉だよ。こうやって、液体に浸けていたんだ」
角切りの豚肉をニンニクと生姜、スパイスとワインビネガー、塩胡椒に浸して、しばらく保存していたようだ。
これに使ったから、ワインビネガーが少なくなってしまったらしい。
「この、小さくてつぶつぶしたものは?」
「楓ちゃんもよく知っているスパイスだよ。マスタードシードというんだ」
「ああ、マスタードに入っているつぶつぶですね。言われてみれば、見たことがあります」
「今日使ったスパイスは、マスタードにターメリック、コリアンダー。昨日から丸一日漬け込んだから、よく味がしみていると思うよ」
楓は豚肉をじっと見つめる。これを焼くだけで普通においしそうだ。
「ポークビンダルーは、ポルトガルからインドのゴアという地域に伝わったカレーだよ。イスラム系の王朝下にあった当時のゴアが、ポルトガルに占領されていた時代だね。ポルトガルではワインビネガーを使った煮込み料理が多いんだ。それをカレーにすると、酸味と辛みが調和した素晴らしい味になる」
染さんの説明に熱が混じり始めた。スイッチが入ったようだ。
彼はスパイスやカレーのことになると、熱く語り出してくれる。
楓はそれを聞くのが好きだ。未知のスパイスやカレーの話は面白い。
「まあ、ゴアにいたイスラム系のインド人は、宗教上の理由で豚肉を食べられないんだけどね。食べていたのはポルトガル人たち」
「なんというオチ」
準備ができたところで、お客さんを待つ。
刻んだタマネギを炒めたり、煮込んだりするのは、注文が入ったあとだ。
(お客さん、いっぱい来てくれるといいな。せっかく、おいしそうな豚肉だもの)
楓は期待しながら客が来るのを待ち続ける。
しばらくすると、小さく音を立てドアが開いた。ドアについているウインドチャイムが涼やかな音を奏でる。
現れたのは強面でガタイのよい男性、以前カレーの甘口スペシャルを頼んでいた人物だ。
名前は、確か田中さん。
(無愛想で、怖い感じの人なんだよね)
彼の格好は、とび職の人のものだ。今は休憩時間なのだろうか。
楓は急いでお水を運ぶ。ちなみに、水を出すのは最初だけで、あとはカウンターに置いてある水さしから自分で入れるスタイルだ。
「カレーの甘口スペシャル。ラッシーと同時にくれ」
「か、かしこまりました!」
目つきも鋭く、凄みのある声の田中さんを前にして、小心者の楓は恐れおののいた。
縮こまりながらも、なんとか仕事をこなす。
新人アルバイトの様子を、染さんは微笑ましげに眺めている。
料理途中のフライパンを見ながら、楓はそんな彼に尋ねた。
「甘口スペシャルのカレーって、どうやって作るんですか?」
「カイエンペッパーを極力入れなければいいんだよ。カイエンペッパーは、チリペッパーとも呼ばれていて、赤唐辛子の粉なんだ。唐辛子には、いろいろな種類があるね」
「スナック菓子に出てくるハバネロとか?」
「普通に調理できる唐辛子の中で、ハバネロは一番辛い種類だね。ブートジョロキアやトリニダード・モルガ・スコーピオンは、調理に防護服が必要だし、キャロライナ・リーパーは食べるものじゃないからね」
呪文のような唐辛子の名前に、楓は首を傾げた。
「辛さがマシなのはハラペーニョ。カイエンペッパーは、鷹の爪とハラペーニョの間くらいの辛さかな。鷹の爪は、日本でよく使われている唐辛子だよ」
染さんの説明によると、世界で二番目に辛い唐辛子はドラゴンズブレス、一番辛いのはペッパーXという名で、食べると命の危険があり、素手で触ると炎症を起こす代物のようだ。
(なんで、そんな品種を生み出してしまったのか……)
唐辛子って地味に怖い。
染さんは、楓に教えながら、今度はラッシーを作り始める。
「ヨーグルトには、辛みを緩和させる効果があるんだよ。だから、田中さんはいつも、カレーと一緒にラッシーを頼むんだ」
なるほどと思いつつ、できあがったカレーとラッシーを田中さんへ届ける。
「お待たせいたしました」
「おう、サンキュな」
ボソリと礼を言った彼は、さっそくポークビンダルーを口へ運ぶ。
「このカレーも、なかなかうまいな。先週の火曜とはメニューが違うようだが」
彼の質問に、染さんが答える。
「月替わりで、ちょくちょく内容を変えているんです。いろいろ作ってみたいですし」
「なるほどな。ところで、アルバイトを雇ったのか?」
「はい、今日から働いてくれている、楓ちゃんです。僕のスパイス語りを飽きもせず聞いてくれる、いい子ですよ」
「話し相手が見つかってよかったな。俺が長話の被害に遭わずに済む」
「酷いなあ、田中さん。カレーは面白いんですよ?」
そうしているうちに食べ終わった田中さんは、満足そうに会計を置いて店を出る。
「また来る」
田中さんが帰ったあとは、まばらにお客さんが来た。
コミュニケーションの苦手な楓は、接客に緊張しっぱなしだったが、特に問題を起こさず、一日働けたことにホッとする。
(もっと余裕を持って、仕事をできるようになりたいな)
洋燈堂は、午前十一時から午後八時まで、ずっと営業している。
飲食店は、厳しい労働条件のところばかりだと聞いていた。
けれど、洋燈堂は長めの休憩時間も何回かあり、昼と夜はまかないも食べられる。楓にとって、この環境は助かった。
染さんはカレーに使う材料で手際よく食事を作ってくれる。
残り物のカレーが多いけれど、たまに焼きめしやサラダも出る。
以前より、ずっと健康的な食事だ。
多忙すぎないので、落ち着いたペースで仕事をできているというのもある。
(でも、やっぱり、今のままでは商売が成り立たないのでは?)
たまに、心配になる。この店が好きなので、潰れて欲しくはない。
楓はあることを提案しようか迷った。
(働き始めたばかりの私が、こんな話をしていいのか不安だな。何もわからないくせに、余計なことを言うなと叱られてしまうかな)
前の会社でのように。
楓が迷っているのに気づいたのか、染さんが不思議そうに顔をのぞき込んでくる。
「どうかしたの?」
「えっと、その。お客さんがカレーをたくさん注文してくれる方法を、私なりに考えていて」
生意気だと思われないだろうかと心配になりつつ、楓は聞かれたことに正直に答えてしまう。
けれど、染さんは「初日から、仕事熱心だね」と、嬉しそうに目を細めた。
彼の態度に勇気づけられ、楓は考えていた内容を口に出してみる。
「あの、ウーバーイーツをしてみてはどうでしょうか?」
「ウーバーイーツ? 大きなリュックを背負って、自転車で走っているアレだよね。たまに見かけるけれど」
「そうです! ウーバーイーツなら、お店の存在を多くの人に知ってもらえます! ここのカレーを食べれば、おいしいと思ってもらえるはず!」
話す声に力が入ってしまった。
提案をしながら、楓は自身のことを不思議に思っていた。
こんなにも熱心に、自分から何かに取り組むのは初めてかもしれない。
けれど、お店のために役に立ちたいという衝動に駆られてしまう。
「ウーバーイーツかぁ、いいかもしれないね。僕の方で少し調べてみるよ」
染さんは、楓の意見を前向きに受け止めてくれた。そのことが嬉しい。
「わ、私の方でも、他に役に立てないか、もっと考えます!」
どもりながらも、一生懸命、楓は自分の意見を彼に伝えた。