28:<火曜日> コーンカレー2
コーンカレーは、コーンの甘みが広がる優しい味だった。
スーツ姿の理さんが、ふと楓の方を向き口を開く。
「君にあんなことを話した身だが、一人で自分の仕事について考えてみたんだ」
かつて、理さんは私に、安定した会社の正社員として社会復帰するよう告げた。
「俺はずっと、堅い仕事に就きさえすれば、それが正解なのだと思い込んでいた。だが、続けられてこそ……なのだな。君の言っていた意味が、ようやく理解できた」
彼は以前より、落ち着いている。
自分で、考えた末に決めたのだろう。
「君の言うような『やりたいこと』を探してみるつもりだ。天職でなくとも、少しでも自分に向いていると思えるような、興味を持てる仕事を」
どこか吹っ切れた様子の理さんに、染さんが嬉しそうな目を向ける。
「じゃあさ、理。店を手伝ってよ」
「は?」
「次の仕事が見つかるまででいいからさ。どう?」
「……考えておく。……それで、染に頼みがあるのだが」
視線を落とした理さんは、歯切れが悪そうに告げる。
「お前の家に泊めてもらえないか。情けない話、教師を辞めようと決めてから、実家に居づらくてな」
楓は、理さんに初めて出会った日を思い出した。
あのときは、隠れて話を聞いていただけだが、彼らの両親がとても厳しい人たちだと十分に伝わった。
「それなら、うちに来るといいよ。広くないけど、部屋はあるし」
「再就職の目処が立ったら、出て行くから」
「焦る必要はないんだよ?」
やはり、染さんは誰に対しても親切なのだ。朝から妙にそわそわしていた気持ちが完全に落ち着く。
少しして、理さんが楓に目を向け言った。
「そういうわけで、俺が三階に住まわせてもらっても、大丈夫だろうか?」
「もちろんです。というか、この建物は二人のお祖父さんの持ち物だと聞いています。私が一階を出て行った方が……」
ここで暮らして、安い物件なら、なんとか家賃を支払えそうだとわかった。
楓がこの建物を出るのが正しいのに、二人は同時に叫ぶ。
「駄目だ!」
「駄目だよ!!」
剣幕に圧倒された楓と、互いの顔を見合う双子。
「その、なんだ。あとから来たのは俺の方だから、君は遠慮せず今までの暮らしを続けるといい。出て行かれると、俺が気まずい」
「そうだよ、楓ちゃん。君が出て行くくらいなら、理を追い出すよ」
思わず、楓は「追い出すのは駄目です!」と声を上げてしまった。
「そろそろ仕事に行かなければ……俺は失礼する。荷物は明日送る」
仕事用の鞄を持った理さんは、扉を開けて慌ただしく階段を下りて行ってしまう。ゴンゴンと鉄の階段が大きな音を立てていた。
※
開店まで、まだ時間がある。
店の掃除や副菜の用意をしていると、突如楓の携帯電話が鳴った。マナーモードにし忘れていたようだ。
普段は仕事中に個人の電話を取ることはないけれど、染さんが「お客さんもいないし、出て大丈夫だよ」というので、彼の言葉に甘える。
着信元は、前の会社の……元上司だった。
「ご無沙汰しております。天野楓です」
もう関係のない人だけれど、話すとやはり緊張で声が震えた。今さら、なんの用だろうかと身構えてしまう。
すると、元上司は電話越しに朗らかな声で告げた。
「天野、うちの会社に戻ってこないか?」
「えっ……?」
予想もしない言葉に、驚きの声が漏れる。
「最近人手不足でさあ、ちょっと厳しいんだよね。猫の手も借りたいというかさあ。だから、辞めた奴に声かけて回ってんの」
「そうだったんですね。ですが、申し訳ありません。私は復職いたしませんので」
挨拶して電話を切ろうとすると、元上司の声がワントーン高くなった。酒の席などで、彼が他人をいじるときの声だった。
ターゲットの多くは新入社員で、仕事が遅いだの、見た目が気に入らないだの、彼は好き勝手に喋っていた。楓も「暗い、女のくせに愛嬌がない、映画で見た幽霊みたい」などと、嗤われた経験がある。余計なお世話だ。
「そういえば天野、聞いたぞ。お前、会社を辞めてから、カレー屋でアルバイトしているんだってな。再就職に失敗したのか?」
おそらく、カレーフェスに来た先輩社員が彼に告げ口したのだろう。
「いいえ、そういうわけではありません。好きで働いているので」
楓はそう伝えたが、元上司は信じていないようだ。
「強がるなよ。飲食バイトなんてするくらいなら、うちに戻ればいいじゃないか。待遇は契約社員で給与は元の七割だが、このままカレー屋にいるよりマシだろ」
勝手な思い込みによる上から目線の提案を受け、スマホを持つ手に力が入る。
なんで、決めつけるのだろう。
話が通じない相手に、どう納得してもらうか。咄嗟に良い考えが浮かばない。
もう通話を切ってしまおうかと魔が差した瞬間、明るい声の元上司が思いがけないことを言い出した。
「じゃあ、今夜、お前の店に行くから」
「えっ……!?」
「お前の先輩社員から、店の場所は聞いているんだ」
「あの、わざわざお越しくださらなくて結構です!」
「冷たいこと言うなよ~」
「私はカレー屋で働きたいので、そういうお気遣いは不要なんです」
しかし、元上司の返事はなく、そのまま電話を切られてしまった。




