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16:<金曜日> イドリ


 流されるまま、楓は近くの古びた喫茶店へ入った。落ち着いて話のできる場所が、ここしかなかったのだ。静かなジャズが流れる空間、染みついたたばこの匂い。

 緊張状態の楓は、くたびれたソファーへ静かに腰を下ろした。

 素早く、理さんが飲み物を注文する。


「ホットコーヒーをブラックで一つ。君は?」

「あ、温かい紅茶をミルクで……」


 客が少ないため、すぐコーヒーと紅茶が運ばれてくる。

 何を言われるのかと、楓がビクビクしながら待っていると、理さんがゆっくり話を始めた。


「君は、染とはどういう関係なんだ?」

「えっ、ただのお店のアルバイトですけど!?」

「その割に、親しい様子だが? 同居しているのか?」


 部屋を借りていることがバレてしまったようだ。


(干していた洗濯物が見えたのかな?)

 

 仕方がないので、変な誤解をされないうちに、全てを洗いざらい話す。

 

「以前、私が駅で体調を崩したことがあって、染さんに助けていただいたんです。その縁で雇ってもらって。部屋もご厚意で貸していただいています」

「見ず知らずの他人を同じ建物に住まわせるなんて、どういう神経をしているんだか」


 理さんの言うとおりだった。思わず心の中で同意してしまう。

 染さんが、ただただ親切なのである。

 ため息を吐いた理さんは、無表情のまま話を続ける。


「カレー屋になる前、あいつは一時期、医者をしていたんだ。と言っても、免許取りたての研修医だが」

「えっ……!?」

「その様子じゃ、何も聞かされていないようだな」

 

 聞いてもいないのに、理さんは実家での染さんについて教えてくれる。

 なんでも、染さんは、とても頭がよく、子供時代から真面目な人生を歩んできたらしい。

 どうりで、雛ちゃんの英語を見られるわけだ。

 

(医者からカレー屋って、すごい経歴だな)


 けれど、染さんは以前口にしていた。

 

『親の言いなりで、彼らに決められた将来に向かって、何も考えず勉強してきた。大人になって、やっと違和感を覚えてね、敷かれたレールを外れて祖父の手を借りて、海外に逃亡した』

 

 彼は、きっと苦しかったのだ。

 正しいことをしているはずなのに、息のできないような閉塞感がなくならず、誰にも現状を相談できずにただ疲弊していく。その感覚は、楓自身も覚えがある。

 優秀でエリート街道まっしぐらな人でも、そういう気分に陥るのだと知った。

 

「頼む。君からも伝えてくれないか、カレー屋なんか辞めて、医者としてやり直せと」

 

 理さんの言いたいことはわかったが、楓は首を横に振った。

 

「ごめんなさい、言えません。それに、カレー屋は素敵なお仕事ですよ」

 

 染さんがカレー屋をしていてくれたからこそ、楓は彼に助けられたのだ。

 確かに、店はまだまだ成長途中だし、医者に比べれば収入も多くない。

 でも、カレーについて話す染さんは生き生きと楽しそうで、とても幸せに見える。それを壊したくない。

 

「好待遇のアルバイト先なら紹介する。なんなら、正社員の道だって……」


 正社員、それは楓の求めていた就職先だった。

 でも、いざ目の前にそれをぶら下げられても、不思議なくらい楓の心は動かない。


(……ああ、そういうことなんだ)


 自分が何を望んでいたのか、どうしたかったのか。

 理さんに言われて、楓は初めて自覚した。

 

「ありがたいお話ですが、すみません。私、あのお店が好きなんです」

 

 アルバイトかつ居候の身。店もようやく軌道に乗り出したところで、全く安定していない状態。

 今の暮らしは、いずれは崩れてしまうかもしれない。けれど……


(そのときは、そのときだ。実際に崩れたら考えればいい)

 

 楓の就ける職なんて、今就活を始めても、後で始めても知れている。そんな人生を歩んできた自分の責任だ。

 でも、だからこそ、この選択ができる。

 

「私、洋燈堂のアルバイトを続けます。もし部屋を出て行けと言われたら、新しく住める場所も探してみます。条件を選ばなければ、安い物件があるかもしれませんし」

「君に将来設計や夢はないのか?」

「洋燈堂で働くことが、あのお店のよさを広めることが、今の私のやりたい仕事なんです」


 ようやく、わかった。

 どうして洋燈堂のために、いろいろ試そうと頑張っていたのか。それが全く苦にならなかったのか。

 それが、楓の大好きな仕事だったからだ。

 最初から、カレーやスパイスを見て興味を持った。

 働き始めてからも、休日に店のインテリアを買いに行くのが楽しみで率先して出かけたり、自分でカレーを作ってみたりした。

 前の仕事では、考えられない。

 

 なんとなくわかる。こういう風に思える仕事は、実はそれほど存在しないのだと。

 好きになれる仕事に出会えたのは、とても幸運な出来事だと。

 将来どうなるかは予想できない。

 理さんの話している将来設計とは、安定した職に就き、毎月ある程度のお給料が保証される生活を指しているのだと思う。運がよければ、ボーナスだって手に入る。

 所属している限り、社会の輪から外れることもない。

 

「私の選択は世間的にも、『無計画で馬鹿な考え』と言われると思います。でも、できることを全てやってみたい」

「何故だ? 君はまだ若い。なにもカレー屋でアルバイトをしなくてもやっていけるだろう? カレー屋は時給も高くない、高校生でも勤務可能な仕事だ」

「ぜ、全部、あなたの言っていることが正しいです。わかっています。ただ、私は自分がやりたいからやるだけなんです。できる限り、洋燈堂で働きたい」


 あの場所にいたい、あの場所が好き、あの場所をもっと素敵にしたい。

 企業のエントリーシートに書けば、一発で落とされる志望動機だ。

 

 染さんは、楓を雇ってよかったと言ってくれた。

 明るく社交的じゃなくても、優秀な新人ではなくても、楓を必要としてくれる。

 洋燈堂で一緒に働く仲間として、受け入れてもらえた。だから、ますます頑張ろうと思えるのだ。

 

「どうして君は、そんな風に考えられるんだ。俺には理解できない」

「自分でもわかりません」

 

 どもったり、早口になったりしながら、楓は自分の考えを一生懸命理に伝えた。

 話は平行線のまま、喫茶店を出る時間が来てしまったけれど、後悔はない。

 理さんは染さんの行動に反対しているものの、悪い人ではない。話していて、ものすごく真面目に物事をとらえる人なのだと知れた。

 とっつきにくいところもあるけれど、楓や染さんを心配してくれている。

 きちんと話し合えば、きっとよくないことにはならないと思った。


「あ、あの、これから染さんと話をされるんですよね」

「ああ。君には申し訳ないが、俺は染を説得する気でいる」


 ついて行きたいが、家族の話に楓は立ち入らない方がいいだろう。

 だから、洋燈堂に向けて歩きだす理さんに、楓は声をかけた。


「あ、あの! よかったら、お店にカレーを食べに来てください。おいしいので」


 そう伝えると、理さんは面食らった様子で楓を見る。


「……俺の話、聞いていただろう? カレー屋の経営に反対しているのに」

「で、でも、食べてもらいたいです」


 カレーを口にしたくらいで、理さんの考えが変わるとは思えない。

 けれど、染さんの意気込みは伝わるはずだ。

 理さんは困り顔で頭をかくと、「わかった。気が向いたら」と答えてくれた。

 社交辞令かもしれないが、頭から拒否されなくて嬉しい。勇気を出してよかった。

 楓は洋燈堂へ歩いていく理さんを見送ると、日用品を買うため反対方向へ走りだした。


(帰ったら、ミックス粉でイドリでも作ろうかな)

  

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