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FLAT LINE PROTOCOL  作者: のがみん
第1章 どうしてこうなった
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act.03

 近藤爽太は激怒――というほどではないが、それなりに腹を立てていた。

 プロのギタリストを目指して音楽系専門学校に入学し、在学中に組んだバンドは卒業する前に「音楽性の違い」で解散した。

 卒業を目前にしてさてどうするか……と悩んでいた時、先輩からの紹介でとあるインディーズバンドを紹介された。

 そのバンドが作る楽曲に魅了されてメンバーとなり、約二年。

 着実にCDの売り上げを伸ばし、ライブの集客実績もあり、メジャーデビューが見えてきたつい先日、声をかけてきた大手レコード会社から、思わぬ要求を突き付けられた。


 すなわち「必要なのはバンドの名前とボーカルだけ、あとのメンバーは入れ替える」というやつだ。

 メジャーデビューの話をもちかけてきたレコード会社の担当からそう言われた時、最初は「マジか、そんなの都市伝説だと思ってた」と、半ば冗談ごとのように感じていた。

 だって爽太に言わせれば、このバンドで一番目立っているのは確かにボーカルかもしれないが、実際にバンドを支えているのはリードギターを担当することが多い、もう一人のギタリストである。

 バンドの楽曲、特に人気が高い曲の約六割はリードギターのギタリストが作曲したものだ。

 彼は作詞作曲だけでなくミックスやマスタリングもこなせるだけの知識と技術を持ち、バンドの舵取りを行ってきた重要人物だ。

 このバンドのリーダーは間違いなく、リードギターの彼である。

 なのにボーカルだけ引っこ抜いたところで、バンドが成立するわけがない。

 少なくとも爽太はそう考えていたのだが、残念ながら当のボーカル本人が、このふざけた条件に乗ってしまった。

 

「トラウォのライブ観に来てる奴らは、オレが歌うのを観たくて来てるんだよ。だったらバックは誰でも同じだし、そもそもアンタの作る曲ってオレにはあんまし合わねーんだもん」


 ……というなんともふざけた台詞を吐いてくださったボーカルの顔面に拳を叩き込まなかった己の自制心を、爽太は心の底から褒め称えてやった。

 まあ他にも「オレのボーカルの良さを引き出す曲作れつってんのに、アンタいっつも歌いにくい曲ばっか作るよな」とか「そもそもドラムがオッサンすぎんだよ、オレのカラーと合ってないし」とか「リズムギター超うぜぇ、オレとキャラかぶせてきてんじゃねえよ」とか「DJっている意味あんの?」という、もうギャグか? ギャグなのか? としか思えない暴言の数々を吐いてくださったおかげで、少なくともこのボーカルと一緒にやっていこうという気は、木っ端みじんに砕け散った。

 ただ一人、ボーカルが「オレと一緒にやれよ、お前だったらついて来てもいいわ」と声をかけたのが、このボーカルとほぼ同時期に加入したべーシストである。

 声をかけた理由はなんとなくわかる、べーシストの外見はモデルもかくやという、長身の美青年だからだ。

 中性的な雰囲気が魅力的(笑)で、熱心なファンからは「妖精のような」と称されるクソッタレボーカル様とはタイプの異なる、どこかミステリアスな雰囲気の美形で、彼もまた作詞作曲ができるとなれば、そもそも気が合わなかったリードギターがいなくてもどうにかなる、と考えたのだろう。

 しかしクソッタレボーカル様のせっかくのお誘いを、イケメンべーシストはあっさりと断った。


「え、無理。俺は児嶋さんと一緒にやるのが楽しいから」

「――ハッ、何それ。オレとじゃつまんねーってこと?」

「うん」


 べーシストのこの簡潔にして明確な返事を耳にしたクソッタレボーカル様は中性的な美貌(笑)を引きつらせ、同席していたレコード会社の担当者(この女はもはやボーカルの信者と言った方がいいかもしれない)は、険しい顔で爽太達を睨みつけてきた。

 三年前の同時期に加入したということで、なんとなくセット扱いだったクソッタレボーカル様とべーシストだが、どうやら特別仲が良かったわけではないらしい。

 彼らよりもさらに遅れて加入した爽太にはなんとなく「同じ時期に入ったんだからこいつはオレの手下」みたいなクソッタレボーカル様の無意識の思い込みが、手に取るように理解できた。

 だってこの二人よりもさらに半年遅れて加入した自分は完全に、クソッタレボーカル様からは格下扱いされていたからだ。

 一触即発の空気の中、リードギターのギタリスト……児嶋和由季が、ゆっくりと口を開いた。


「わかりました。じゃあ今回の『Trash the wall』としてのデビューは、ボーカルの戸川響メインのプロジェクトということで――楽曲などは、どうすればいいんですかね?」

「ハ? オレが作詞した曲がほとんどだろ? お前らがトラウォじゃなくなる以上、トラウォの曲をお前らが使えるわけねーじゃん」


 つまりはバンドで演っていた楽曲の権利も全て、こちらによこせということである。

 ねーわ、ありえねーくらい非常識な話だわ!! と、爽太は心の底から憤ったが、作詞作曲を担当していた二人……すなわちリードギターの児嶋と、べーシストの小野寺誠は、あっさりと頷いた。


「じゃあそういうことで――いいか? 誠」

「うん」


 ちょっと待て中にはお前が作詞担当してない曲もあるんですけど? 作詞したつっても、横から手を出して無理やり書き換えたとかそんな曲も多いんですけど? と突っ込みたい気持ちが爽太の中にこみあげてきたが、児嶋と小野寺はそのあたり、あまり気にしていないらしかった。

 それどころか、バッグから楽譜やらCDやらUSBメモリやらを取り出し、デスクの上に積み上げている。

 おそらくはこういった流れになることを予想して、事前に準備していた――あるいは実質的なリーダーである児嶋には、事前に何らかの形で通達があったのだと思われた。


「『Trash the wall』として発表した楽曲のデータは以上です……CDの売上などについてはまた改めて、弁護士に相談したうえで書類作成して、そちらにお届けするということでいいですかね。ああ、あんまりややこしい条件をつける気はありませんから、ご安心ください」

「……では、そういうことで」

「――ちょっと待てよ」


 意外にもストップをかけてきたのは、クソッタレボーカル・戸川響様だった。

 彼は一部の熱烈なファンからは「天使のような」と称される中性的な美貌(爽太からすると、さすがに眼科に行って診てもらった方がいいのでは?と思いたくなる表現だ)に面倒くさそうな表情を浮かべ、手を伸ばして三つのファイルを抜きとると、デスクの上を滑らせた。


「この三つはいらねー。オレこの曲嫌い」

「……ああ、この曲か。じゃあこのUSBメモリ持っていくわ。この中に三曲分のデータ入れてるから」


 クソッタレボーカル様が「嫌い」だといったのはおそらく、彼が加入する前に作られた、いわゆる「初期の名曲」といわれる曲に違いない。

 古参ファンの間でも人気が高かったがゆえに、クソッタレボーカル様も「歌いづれーから手直ししてやるよ」という名目で手を出すことができなかった曲だと思われた。


「じゃあ、失礼します。メジャーデビュー上手くいくといいですね」


 聞き様によっては完全に皮肉ともとれる台詞をさらりと口にすると、今や元『Trash the wall』のメンバーとなった面々は、レコード会社の会議室を後にした。


     ※     ※     ※


「……ほんっと申し訳ない。俺の一存で勝手に話を決めちゃった感じになって」


 そう言うと児嶋和由季は、所属事務所のオフィスの片隅で、黙って自分についてきてくれたメンバーに深々と頭を下げた。

 「Trash the wall」――ファンからはTTW、あるいはトラウォと略されるこのバンドの、ボーカル以外のメンバーが、そこには揃っていた。

 とはいえ彼らは既にTTWのメンバーではなく、元メンバーである。

 リードギターの児嶋和由季、リズムギターの近藤爽太、べーシストの小野寺誠、DJ&サンプリングの笹山諒平、ドラムの渡辺研介。

 それにボーカルの戸川響を含めた六名が「Trash the wall」のメンバーだった。

 音楽性を評価されたTTWはインディーズバンドでありながらワンマンライブを行えるほどの集客力があり「次にブレイクするバンド」として、ネットや雑誌の記事で取り上げられることも多かった。

 実際、大手レコード会社が声をかけてきて、さあメジャーに殴りこみだ……と、思っていたのだが。

 蓋を開けてみればレコード会社が欲しているのはボーカルだけ、後のメンバーはお荷物扱いときたもんだ。

 これはなかなかにがっくりとくる展開だった。


「まあ、しゃーないわな。正直、俺はお役御免になるとばっかり思ってたから」


 最初に口火を切ったのは、ドラムの渡辺研介だ。

 レコード会社の会議室で戸川から「ドラムがオッサンすぎ」と言われた渡辺だが、年齢が十歳近く離れているため、レコード会社から声がかかったと聞いた時、真っ先に「あっこりゃ自分はクビだな、多分もっと見栄えのする若い奴と入れ替えだ」と思っていた。

 とはいえスタジオミュージシャンとしての実績もあるし、三十三歳という年齢を考えれば、ドラマーとしてはまだまだこれからである。

 キャリアに傷がついたわけでもなし、むしろ楽曲を強奪された児嶋と小野寺に対する同情心のほうが強かった。


「戸川はそもそも、ウチの本来の音楽性とは若干ズレてたからな。むしろ今までよく持った方じゃないのか」


 そう続けたのは、DJ&サンプリングの笹山諒平である。

 戸川からは「いる意味あんの?」と言われたDJだが、実は児嶋や小野寺が作成する楽曲において、かなり重要な要素を占めている。

 バンドのコンセプトを決めてきた児嶋との付き合いが長いこともあり、音作りにあたっては欠かせない人材だ。

 そもそもそれが理解できていなかった時点で、戸川のほうがズレているともいえた。


「でも……曲まで全部寄こせってのは、ちょっとないんじゃないすかね。バンドの名前まで持っていくとかひどいっすよ」


 唇を尖らせながらそう呟いたのは、リズムギターの近藤爽太だった。

 メンバーの中で一番若い彼は、なにかとボーカルの目の敵にされていた。

 それでも腐らずにやってこられたのはひとえに、児嶋こそをバンドの要として信頼していたがゆえである。


「曲は全部、ボーカルが歌いやすいように手を抜いて作ってた曲だから、俺は気にしてない」


 最後の最後にさらりとぶっちゃけたのは、べーシストの小野寺誠だった。

 よりによって「手を抜いて作ってた」なんてドン引きの発言だが、かつて小野寺が作り、戸川に「何だよこれ歌いにくいよセンスねーなお前」と却下された楽曲の幾つかを思い出したメンバーは「ああ……」と納得せざるを得なかった。


「まあこれからどうするかって話だわなあ」


 缶コーヒーを開けて一口飲むと、渡辺はそう切り出した。


「『Trash the wall』は、戸川一人のモンになっちまったからなあ。俺らは新しくボーカル探すか、解散して別々に行動するかの二択だわな」

「ボーカル探そう」


 間髪入れずそう答えたのは、意外にも小野寺だった。

 マイペースで何を考えているのかよく判らない、などと言われる小野寺だが、ボーカルを除いたこのメンバーへの愛着は、相当にあるらしい。


「ずっとボーカルに違和感あったんだ。俺はむしろ、最高のタイミングで切り捨てることができたって思ってる。ボーカル以外は理想的だから、このバンド」

「……案外言うね、お前」


 笹山が苦笑しながらオフィスチェアに凭れ直し、ふと真面目な顔になった。


「新しいボーカルを探すのはいいんだが、まずは俺達の方向性をある程度決めておいたほうがいいんじゃないのか?」

「っあー……少なくともトラウォと全く同じことをやるのはアレですよね。つかトラウォって児嶋さんが方向性決めてはいたけど、実質的には戸川さんの無茶振りにすっげー合わせてたって感じだし」

「まあ大手レコード会社なら、戸川がやりたかった方向性に沿って、きっちりプロデュースしてくれるだろ」


 だから自分たちのやりたいことをやったところで、被ることを気にする必要はないんじゃないか――言外にそう匂わせると、渡辺は缶コーヒーを飲みほした。


「そもそも俺ら、好みはかなりバラけてるからな。そこが個性になってたわけだが……まあ、最近は戸川の好みに思いっきり寄せてたからなあ」

「実際戸川がボーカルになってから『TRASH』時代のファンは結構離れていきましたからね――まあ、戸川自身についたファンの数は太かったですが」

「あー知ってます、トラウォになってからはV系化したとか言われてたやつでしょ? 戸川さんの方向性思いっきりそっちでしたもんねー。」

「まああいつの見た目には嵌ってたからなあ」


 ……そういえば戸川信者とでも言うべき熱狂的なファンの中には、ドラム担当の渡辺を指して「美女と野獣」などとかなり失礼な表現を使う者もいた。

 渡辺は確かに、どちらかといえばかなり男くさいタイプだが、決して醜男ではない。

 むしろ「雷神」とも称される彼の力強いドラムプレイに惚れ込んだファンも少なくない。

 なにしろ「ボーカルが変わってもナベさんがドラムをやるならついていく」と公言するつわものもいるくらいだ。


「別にいいと思う、こっちに興味のないファンはボーカルが全部連れていってくれたようなもんだし」

「まあ、そう言われればそうなんだが」

「ボーカル抜けてバンド名も変わるとなりゃ、まあ一から仕切り直すようなもんだわなあ」

「それで『TRASH』時代の雰囲気に回帰するっていうんなら、オレはむしろ大歓迎っす」


 そうやって皆がだらだらと喋っていると、最初に頭を下げてからだんまりを決め込んでいた児嶋が、いつになく強い口調できっぱりと言い切った。


「回帰じゃない、そこから進化しよう」


 戸川から切り捨てられた元「Trash the wall」のメンバー内で、実はもっともボーカルとしての能力を高く評価していたのが、この児嶋だった。

 自己中心的な上にプライドが高く、我儘で本当に腹の立つ男だったが、ボーカルとしての戸川響は、天性のセンスを持っていた。

 特に透き通ったハイトーンボイスは圧巻で、甘さと色気を乗せた歌声に魅了された女性ファンは多かった。

 ゆえに自分達が本来やりたかった方向性を捻じ曲げてでも、戸川の意向を尊重していたのだが――その結果がこれである。

 しかし裏切られたにもかかわらず、今の児嶋に怒りや悲壮感といったマイナスの感情は、これっぽっちも見えてこない。

 何よりも児嶋自身が、いつかこんな日がくることを予想……否、覚悟していたのだと思われた。


「……言いきったな、カズさん」

「まあ、あのボーカルじゃ進化できなかったし」

「小野寺さんきびしー!」


 進化しよう――その一言にメンバー全員が、腹の底から揺さぶられた。

 ボーカル一人に振り回されるバンドではなく、全員で作りあげていく……諸事情により辞めざるを得なかった先代ボーカルが抜け、戸川が加入してからはすっかり忘れてしまったその感覚を取り戻す。

 その意欲と熱量が「進化」という言葉に込められていた。


「大変だとは思うけど、協力してくれるかな」

「まあ、知り合い片っ端から当たってみるかね。条件あるか?」

「そのあたりは皆の感覚に任せるよ。『Trash the wall』のことはいったん忘れて探してみてほしい。あれは戸川のものだから」

「目安として『TRASH』に合いそうかどうかってのはありなのか?」

「あーうん、まあそのあたりはね。でも雄吾さんに似たタイプのボーカルじゃなくてもいいよ」


 戸川が加入する前のバンドは「TRASH」という名義で活動していて、そこでボーカルを担当していた山本雄吾は、戸川とは全く異なるタイプだった。

 雄吾は児嶋や笹山と共に「TRASH」を立ち上げた初期メンバーの一人であり、高音が売りの戸川とは違って、どちらかといえば男臭い低音ボイスが魅力だった。

 しかし喉を痛めてしまい、治療のかいなく引退せざるを得なかった。

 もしボーカルが雄吾のままだったら、おそらくとっくの昔にメジャーデビューを果たしていたことだろう。

 実際、今回戸川を引き抜いたのとは別のところからそういう話がきていたのだが、ボーカルの交代により、いつの間にか消滅してしまった。

 先代ボーカルの雄吾とは面識のない爽太だが、戸川が加入してからの「Trash the wall」よりもむしろ、その前身である「TRASH」に魅力を感じていた。

 だからこそボーカル以外のメンバーはそのまま在籍しているという「Trash the wall」に誘われ、二つ返事で加入したのだが……まあ、結果は見ての通りである。


「……でも残念っすね。オレ、雄吾さんがボーカルやってた『TRASH』すげー好きだったから。戸川さんに全部持っていかれたようで腹立つっつうか」

「全部じゃないよ、『TRASH』時代の曲は三つ残ってる。戸川が要らないって言ってくれたからね」


 戸川が「嫌い」だといった三つの曲はいずれも、先代ボーカルの雄吾が楽曲制作に携わっていた。

 その曲が未だに人気だというのも、戸川にとっては面白くなかったに違いない。


「じゃあ、その三つの曲を歌ってくれるボーカル、探しましょうよ」


 うきうきと声を弾ませた爽太とは対照的に、今度は渡辺が平坦な口調で児嶋に向かって問いかけた。


「なあカズよ、もしボーカルが見つからなかったら、お前どうする気だ」

「うえっ……不吉なこと言わないでくださいよ、ナベさん。最初から試合終了とかマジでナシですって」

「気持ちは判るけどな爽太、こいつは大事なことだぞ。そりゃ俺もコネを総動員して探してみるがな、それでも見つからなかったらどうするかって話だ」


 そこでいったん言葉を切ると、渡辺はぐっと顎を引き、正面から児嶋を見据えた。


「お前歌えるだろ、カズ。実際雄吾がいた時は、ほぼツインボーカルみたいなもんだったろ」


 渡辺のその言葉に、爽太は思わず児嶋の方を振り返った。

 そういえばそうだった――TRASH時代の音源を幾つか聞いたが、楽曲のうち半分はツインボーカルだった。

 児嶋がバースを担当し、雄吾の力強いボーカルがサビを歌う……そのスタイルはいつのまにか、戸川が一人で歌いあげるものへと作りなおされた。

 児嶋が一人で歌った楽曲は聞いたことないが、しかしTRASH時代の曲を聞いた限りでは、ボーカルとしての力量は充分にあるはずだ。

 しかし渡辺の言葉に、児嶋はゆっくりと首を横に振った。


「俺のボーカルじゃ、少なくとも俺が理想とする音にはなりません。足りないものが多すぎる」

「そうか」

「だから、もしボーカルが見つからなかったら、俺は完全に裏方に回ろうと思います」

「――プロデュース業に専念するってことか」

「前から勧められてたんですけどね。プロデューサーとしての俺は、案外需要があるらしいし」

「誠はお前とやりたいから残るつったが、それでも裏方に回る気か?」

「……ボーカルがどうしても見つからなければ、皆それぞれの道を歩むのも、ひとつの選択じゃないかと思います。それぞれ積み上げてきたキャリアもあるし、もしバンドとしてやっていきたいなら、特にまだ若い誠と爽太には、こっちに縛られるよりも他に目を向けた方がチャンスがある」

「じゃあどんな手使ってでもボーカル探すってことで」

「小野寺さんマジマイペースっすね……」

「俺はこのメンバーでやりたいし」


 小野寺のその言葉はまさに、メンバー全員の偽らざる心情だった。


 しかし戸川響が抜けてから一月……新たなボーカル探しは全く進まず、それどころか声をかけた端から断られるという事態が相次いだ。

 そして顔の広い児嶋や渡辺の耳に、戸川をデビューさせようとしているレコード会社がひそかに手をまわし、ボーカル探しを妨害しているという情報が入ってきた。

 何故今になって、戸川の方から「いらない」と切り捨てたはずの元メンバーに対して、そんなことをする必要があるのか。

 ある情報筋は「王子様はべーシストの彼に戻ってきてほしいみたいだよ、レコード会社が探してきた新しいベースは合わないみたいで」と言い、別の業界人は「王子様本人はともかく、レコード会社としては、児嶋ちゃんに楽曲提供だけはしてほしいみたいだね」と言った。

 なるほど確かに、新しいボーカルが見つからなければ解散せざるを得ない……そうなると小野寺が戸川の再度の要請に応える可能性もゼロではないだろうし、プロデューサーとしてであれば、児嶋も仕事を引き受けるかもしれない。

 そもそもボーカル不在のバンドなんて、成立するわけがない。

 元Trash the wallのメンバーはあっという間に、崖っぷちへと追い込まれた。

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