第拾話
「破入、起きているのかい?」
「破入さん…」
半日経っても、一向に下りてくる気配がない。
夕方、女学校から帰ってきた采華と、二人、日が落ちるまで待ち。
それでも顔を見せない破入を不審に思い、二人は相談して、静か過ぎる二階へ、破入の部屋、その前に立つ。
「具合が悪い…? いや、でも…」
「………そうなら…いいけれど…」
しっかり閉ざされた木製の引き戸を前に、二人は顔を見合わせ。
「……破入、はいるよ」
緊張した表情の雨谷が、引手に手をかけて、開く。その背へ、すがりつくように采華が続く。
あっさり開いた扉を前にし、二人は靴を脱ぎ、破入の部屋へと足を踏み入れる。
「破入? 寝ているのか…?」
「………」
完全に照明が落ちた部屋は暗く、灯りを探す雨谷に、采華が気付いて、電球を操作する。
「有難う、采華さん」
「ええ…」
薄らぼんやりと照らされた室内に、特段異変はない。
空白が目立った本棚も、整頓された文机も、寝台も、そこに横たわっている男も。
「そんな……破入さん…」
やはり体調を崩して、と考える雨谷を押しのけ、采華は部屋をぐるりと見回した後、破入が横たわる寝台へと駆け寄る。
「……起きて…破入さん」
「采華さん?」
「お願い……目を…覚まして…」
突然必死な表情で、破入を揺さぶりだす采華。けれど、寝台に横たわった男が目を覚ます気配はない。
破入のそれはそれで不自然ではあるが、何故采華が必死になっているのか分からない雨谷は、首を傾げつつ問いかける。
「采華さん、どうしたんだい? そんなに慌てて…」
「いない……いないのよ」
「いない? 破入はここに…」
「黒い…大きな…鳥…いないのは……あの鳥」
「…えっ?」
焦りを帯びた指摘に、背筋があわ立つ。
雨谷は慌てて鏡になるものを探し、闇夜を映す窓ガラスに目を留める。
「………本当だ。いない…」
「破入さん……起きて…起きて…」
数日前から破入に憑いていた、黒い鳥の、影も形もない。
まるで、最初から異形など存在しなかったかのように、ガラスは、目を閉じた破入の姿しか映さない。
「………起きて…」
「采華さん、僕が…」
「………」
采華は沈んだ表情で、雨谷と場所を交代する。両手を握り締め、じっと破入を見つめる采華。
「破入、起きてくれ。破入」
入れ替わった雨谷は、厳しい表情で友人の体に手をかけ、乱暴に、それこそ容赦なく揺さぶる。
「もう夜…………えっ」
瞬間、雨谷の動きが止まる。
「雨谷さん? どう…」
「家が……古い家……羽………女の、人…」
動きが止まったと思えば、雨谷の目、その焦点が現実から離れていく。そして徐々に、徐々に、ガラス球のような、感情のない目へと変わっていく。
その変化を前に、何かに思い当たった体の采華は、身を乗り出すと、破入を掴んだままの、雨谷の腕を引っ張り始める。
「雨谷さん、駄目…その手を…早く離して…」
「奥………赤い……が…」
「その先はいけない……見ては……」
言いかけた采華の視界が、黒く塗りつぶされた。




