三章二節 - 龍姫と龍王
歩きなれた縁側を通り、乱舞の部屋の前までやってくる。与羽と乱舞の城主一族は城の最も奥にある屋敷に住んでいる。同じ建物内なので、移動は比較的楽だが、ほとんど屋敷の対角に部屋を取っているので、気軽に訪れるにはやや遠い。
ちなみに、親しい侍女や近衛などが控室として使い仮眠をとったりすることもあるが、この屋敷に住んでいるのは与羽と乱舞のみ。ほとんどの部屋が空き部屋で物置と化している。
しかも、与羽は客間の一室で寝起きすることも多く、辺りはほとんどいつも静かだ。
この屋敷の南にあるもっとも大きな建物が、文官たちと政治について議論する朝廷や客間のある公の場。
その西南が客室のある客殿。
さらに西には、城常駐の武官や城下に家を持たない官吏たちや使用人の男性が住む建物。雷乱の部屋もそこにある。
その北が竜月も住む女官用の部屋。
他にも書庫ばかりの棟や武器庫などの倉庫も建ち、八つの屋敷と三つの蔵、一つの厩と天守閣から城が成り立っていた。
与羽は乱舞の部屋の前で兄の帰りを待った。
縁側に腰かけ、他の棟から見えないように目隠しとして植えられた生け垣と、その手前の木々をぼんやりと眺める。
やはり山桜は散っているが、八重桜がほころびはじめていた。まぶしい若緑を添える柳の枝がそよ風に音もなく揺れ、生け垣の下方を占めるつつじのつぼみが膨らみつつある。まだ春は始まったばかりだ。
「与羽!?」
聞きなれた声がかかる。
声のした方を向くと、廊下の先に小さく兄の姿があった。与羽を見つけた瞬間彼女の名を呼んだらしい。
乱舞が足を速めてくる足音を聞きながら、与羽は立ち上がって兄を迎えた。どうもうつむき気味になってしまうのは、ニヤニヤ笑いを隠せないからだ。こういうとき、長い前髪が顔を隠してくれるのでありがたい。
「与羽?」
目の前まで来た乱舞が与羽の顔を心配そうに覗き込んだ。うつむいた様子が落ち込んでいるように見えたのだろう。
「乱兄! あんたクビ!」
与羽はその瞬間、彼に指を突き付けてそう叫んだ。
「……はい?」
困惑する乱舞をよそに、与羽は懐から一枚の紙を出した。
まだ戸惑った状態で、乱舞はその紙を受け取る。
紙の下方に中州を支える上位六人の文官の直筆署名を見た瞬間、顔つきが変わった。
「これ――?」
「とりあえず内容確認」
与羽に言われて、乱舞は読みやすく整った字で書かれた文章に目を通す。
「まぁ、二日休みをやろうってこと」
辰海にその提案を書かせ、こっそりと中州の大臣たちに打診して署名してもらった。正式に明日と明後日の二日間、乱舞の政務はなしだ。代わりに与羽が城主代理になる承認も得ている。
「え、でも……」
「皆がやるって言んだから、もらっといて」
「ね?」とさらに促す。
「――ありがとう」
それでやっと、乱舞ははにかんだようにほほえんだ。
「どういたしまして」
与羽も明るい笑みを浮かべる。
「けどさ、一つ乱兄の承認がいるもんが残っとった。これ、署名して」
乱舞は与羽から筆と墨つぼを受け取り、差し出された紙を見た。
「ここ」
与羽が紙の下方を指差す。
「ちょっと手ぇどけて。文が見えない」
しかし、乱舞は筆の先を墨つぼにつけただけで、すぐに署名しない。
「私が確認したから、大丈夫だって」
「だめ。城主の僕がそんないい加減なことできん。見せて」
普段の好青年然とした様子からは想像できない、強い眼光と厳格な雰囲気に与羽は仕方なく全文を乱舞に見せた。
「…………」
その瞬間乱舞は固まった。
「これ――」
「『婚約届』?」
与羽は開き直ったようにいたづらっぽい笑みを浮かべて言った。
「何で今こんなもの――?」
乱舞はわずかに顔を赤らめている。
「明日、沙羅さんとこに行って署名もらっといで」
「そんなこと――」
「まぁ、強制はせんけど……。じゃ、明日早いから私は戻るよ。せっかくの休みなんだから、悔いのないようにね」
「ちょ……、与羽!」
そう声をかけたが、彼女が立ち止まるわけがない。
背中を向けたままひらひらと手を振って去っていく与羽を、乱舞はその場に棒立ちになったまま見送った。




