三章一節 - 龍姫と女官
「あ~あ」
与羽は自室から開け放った戸の外を見てため息をついた。視線の先には桜の木。すでに花は散り、赤のがくが申し訳程度に色を添えている。新芽はまだわずかに赤く透けているが、緑のものも多い。
今年は気付いたら桜が咲き、散っていた。城を出る回数も例年に比べれば少なく、城下町を歩いていたら「風邪でもひいていたのか」と聞かれる始末だ。
「月日の丘に行ったら、スミレが満開なんじゃろうなぁ」
行きたいが、暇がない。与羽の目の前には、辰海から借りた書物が積まれている。兄に代わり政務を執るために必要な基礎知識を学んでいるのだ。
「『政を為すに徳を以ってす――』って……。私に徳なんかあるかなぁ」
「そうやって自問できているうちは大丈夫だよ」
与羽はぼんやりと声のした方を見た。
「辰海……。ええ時に来たね」
ずっと部屋のそばで声をかける時機を見計らっていたのだとは言わず、辰海はただやさしくほほえんで与羽の向かいに座った。
「あとどれくらい?」
「これと、あれ」
与羽は今開いている本と机の端に一冊だけ分けて置いてある本を指した。
「良く読んだね」
辰海が与羽に貸した本は数十冊に及ぶ。
「歴史書とかはもう読んどったのが結構あったから。――辰海の方は?」
「終わったよ。やっと絡柳先輩に『これで良い』って言ってもらえた」
「じゃぁ、あとは本番を待つだけか」
「そうだね。二日……、がんばろう」
「ああ、そうじゃね」
「お茶ですぅ~」
その時、開けたままにしていた戸口から一人の少女が入ってきた。野火竜月。古狐の使用人だが、与羽がかつて古狐家で暮らしていた時、与羽の遊び相手だった名残で、今ではほとんど彼女専属の侍女になってしまっている。
普段の与羽は大抵のことを自分でやってしまうので、彼女の出る幕はないが、最近は忙しい与羽のために食事を運んだり、着物を選んだりと色々世話を焼いてくれていた。
今も慣れた手つきで机の上に茶と茶菓子を並べている。
「ご主人さまぁ、ご主人さまが政務を行われる日は私がとってもきれいに飾ってさしあげますからねっ」
彼女――竜月は与羽や辰海より一つ若いだけだが、舌足らずなしゃべり方と背が低いこともあり年齢よりも幼い印象を与える。
「え……?」
「まさかご主人さま、いつもの格好で良いと思っていらっしゃるんですか!? ダメですよ。威厳ある美しい姿をしていただきます! ねぇ? 辰海殿」
竜月は甘えるように与羽の腕にすがりついている。
「うん、そうだね」
竜月の問いに、辰海は素早く答えた。与羽のめかしこんだ姿は、ぜひ見てみたい。
「む……」
相手が辰海ならば怒鳴りつけることもできるが、竜月だとどうも反論しにくい。与羽は立ちあがった。
「与羽?」
「逃げちゃだめですよぉ」
辰海と竜月が口々に声をかけるが、それについては反論しない。実際半分以上は逃げなのだから。
これ以上ここにいたら、「ためしに着てみましょう!」という流れになりそうだ。きれいな着物は好きだが、今は勘弁願いたい。
「そろそろ政務が終わる時間だから、ちょっと乱兄のとこ行ってくる」
与羽はいたずらっぽく笑むと、外の風を入れるために開けていた障子戸から飛び出した。




