序章一節 - 月日本家
中州城下町の北にある月日の丘。現在では風景に溶け込んでいるが、この丘はもともと城下町の西を流れる中州川同様、人工的に造られたものだった。さらに言えば、中州川を作るときに掘られた土砂の一部を積み上げた――中州川と同時に生まれた双子の片割れのような存在で、頂上が広く平らにならされているのも、斜面が緩やかで形が整っているのも、人為的に作られたと聞けば納得できる。
この季節、なだらかな丘には春の野草が咲き乱れ、若葉の緑が輝く。
月日の丘は城下町から近いこともあり、中州有数の観光名所として知られていた。
そして、その丘のふもとにある大きな屋敷が開放する庭園も、名所の一つ。屋敷の持ち主は、中州を支える有名文官家の一つ――月日一族だ。
城の敷地内に間借りして建つ古狐家。
城下町の南に広大な屋敷を構える橙条家と紫陽家。
城下町をやや離れた西の街道沿いにある漏日家。
そして北――月日の丘のふもとにある月日家。
この五家が長年、中州を支えてきた主要文官家だ。
そして、彼女が今立っているのは、月日本家の立派な門の前だった。門前には大きな梅の木が紅の花弁を散らし、左右には漆喰の塀が延々とつづいている。
城下町から離れているからこそ持てる広大な土地は、季節の草木を楽しめる美しい庭園となっていた。
ほとんど年中、一般公開されている庭園だが、今はぴったりとその門扉を閉ざしてしまっている。ちょうど梅と桜の変わり目であり、冬が終わり文官の仕事が多い今は、数少ない庭園の非開放時期となっていた。
彼女は一度振り返って太陽の位置を確認した。低く、赤みを増した光。時は既に夕刻。
彼女はこぶしを握り締めると、意を決して門を叩いた。気の強い姫君として有名な彼女でも緊張する時はある。今がそうだ。
何度もこの場所に来たことはあるが、それはいつも庭園を開放している時期か、そうでない場合は誰かが一緒にいた。
しかし、今は一人だ。
「ごめんくださーい」
戸を叩く音だけでは不安があり、彼女はそう声を張り上げた。よく響く声は、宝石のようにきらめく髪色同様彼女の自慢だ。
少し待つと、門の脇に備え付けられた通用口から少年が顔を出した。歳は十二、三位。やや質素な身なりだが、清潔な着物を身につけ、長めの髪もきれいに結われていた。使用人の息子だろうと彼女は見当をつけた。
「あ……、姫様」
少年は彼女の顔を知っていた。たとえ知らなくても、光の加減で青や黄緑にきらめく黒髪と紫の目、左頬にある『龍鱗の跡』と呼ばれるあざで彼女が何者かは判別可能だろうが……。
「水月絡柳大臣はこちらにおりますか?」
少女は丁寧な口調でそう問う。
「あ、はい! 旦那様と今年の予算の最終確認をしておられます」
「よかった」
あらかじめ絡柳の家を訪れ、ここ――月日家にいることを確認していたが、入れ違いにならなくてほっとした。
「すぐに呼んでまいりましょうか?」
彼女は中州の姫。中州城主である兄の使いとして何か大事な伝令を言付かってきたと思ったのだろう。
「いえ。さほどに重要な話ではないので、待ちます」
「では、中でお待ちください。暦の上では春と言え、これから寒くなる時間ですから」
少年は彼女の返事も待たずに通用口を閉め、重たそうな門扉を開けた。
丁寧な動作で中に入るよう示される。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
彼女は澄まして応えて敷居をまたいだ。