19 戸惑い
王宮を数日空けることがあった時、何時もなら王宮に戻ってくるなり真っ直ぐこちらにやって来るのだが、思ったよりのんびり現れた兄は、ひどく厳しい顔つきをしていた。けれども、私の顔を見るといつものような明るい笑顔を見せる。しかし明らかな作り笑いで、無理しているのが明らかではあったけれど、兄が何も言わず私の前ではいつもの通りにしようとしているのなら、今はそれに触れないでいた方がいいと思った。
「兄様、無事のご帰還安堵致しました」
いつものように 扉まで出向いて迎え入れると、兄は無言でいきなり抱きついてきた。普段のように過剰な愛情表現というよりは甘えるような態度に、何かあったことを感じ取ったがまずは様子を見てみることにする。
兄は滅多なことで弱音を吐かない。
特に私の前では特に強がって、『頼りがいのある兄』でいようとする。私はそんな兄を頼もしく思っていたが、同時に寂しくも思っていた。
「国境のでのご活躍、私の耳にも届いていました。さすがは兄様だと…」
「フィリア」
私の言葉を遮ったあと、兄は静かに抱擁を解く。
「……フィリア」
兄の顔は先ほど部屋に入ってきた時と同じく、今までになく真摯で、厳しい。
「何がありましたか?」
ただならぬ様子に声を潜めて問うと、兄は小さく息をついて呼吸を整え、静かに首を振った。
「いや、初めての大役に疲れていてお前の顔を見たらホッとしたんだ」
次に見たときには兄の顔にはいつもの優しい笑みすら浮かんでいた。
そのとき、兄の背の向こうに天使様がそっと部屋に入ってくる姿が見えた。相変わらず天使様の姿は私にしか見えていないようだ。天使様は私と目が合うとこちらも何故か厳しい顔つきだったが、そっと自らの唇に人指し指を当てた。何か知っているのだろうが、今は聞くことができない。
「そうでしたか……。兄様、お疲れでしょう?今お茶の用意をしていますから、どうぞお寛ぎになってくださいませ」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらう」
「はい、こちらへどうぞ」
私は兄に窓側の長椅子に座るよう勧めてから、侍女に用意させていた茶器に兄好みの濃さになる分量の茶葉と湯をゆっくりと注いだ。兄のお茶を淹れるのは私の仕事の一つだ。好みにうるさい兄の嗜好を熟知している私の淹れたお茶でないと、彼は不味いと言って口にしない。多分私にお茶を淹れてもらう口実なんだろうけれど、兄が望むならお茶くらいいつでも淹れて差し上げる。そうすることで、何だかんだと実は多忙な兄を癒してあげられるのなら易いものだ。
砂時計を使って正確に時間を計り、十分に茶葉が蒸れたことを色と香りからも確認してからカップに注いで、兄に差し出す。
目の前に置かれたカップを両手で包むように持って、ぼんやりと見つめる姿にいつもの覇気はない。しかし、落ち込んでいるといった様子も見受けられない。しいて言えば何か思い悩んでいるという感じだろうか。
国境で一体何があったと言うのか?
「フィリア」
呼びかけに応えて顔をあげると、兄はカップから静かに手を離してそのまま私の頬に触れた。
「……詳しくは言えない。こんなことを言って不安がらせるのは本意じゃない。でもこれだけは覚えていてほしいんだ」
視線を上げて兄の目をまっすぐに見つめると、彼も同じように視線を合わせてくる。
「この先何があっても、俺はフィリアの騎士だからな! 絶対にお前の味方で、お前の剣でありお前を守るものだということ、それだけは信じていてほしいんだ」
一体突然何を言い出すのかと、私は瞬きをした。……今までの空気の流れから、これから良くないことが起こるのだろうが、それをまだ私に話すことはできない。けれど、兄は何らかの想いがあってここへそれを告げにきたのだろう。中途半端な告げ方をされて正直不安はあるが、兄のことを信じない理由はない。
「何をおっしゃるのですか? 私の心はいつも兄様のお側にあります。兄様の御心を疑うようなことはありえないでしょう」
何を不安がっているのか、話してくれない以上はわからない以上、私が言えるのはこれくらいだ。
「兄様のことは誰よりも信じていますから、時が来たら私にも教えてくださいね」
「ああ、もちろんだ。ありがとう、フィリア……」
ようやく落ち着いたのか、兄は私が入れた熱いお茶を一気に飲んでから立ち上がった。そのままゆっくりとした動作で外套の裾を翻して部屋を後にした。
何だったというのか、部屋の隅に控える侍女も微妙な顔をしながらも立ち去る兄に腰を折る。
私は侍女に茶器を片づけるように指示する。心得た彼女が手早くワゴンに乗せて一式を片づけるために部屋を辞して行ったことを見届けてから、窓際の椅子にちょこんと腰かけている天使様に向き直った。
「天使様は何かご存じですよね?」
質問ではなく、確認するような私のセリフに天使様は困ったように目を逸らしていたが観念したのか椅子から立ち上がってこちらに近づいてきた。その間、何やらぶつぶつ言っていたみたいだが、私の耳はその内容まで拾うことはできなかった。
「嵐が来るのよ」
大真面目に、天使様は言い切った。
「信じていた世界が崩れる様な、全てを奪い去るような嵐が来る」




