15 終焉の幻
鐘が鳴っている。
――高く、高く。
空は抜けるように青く澄みわたって雲一つない。
何て清浄な空気、こんなに爽やかな気持ちは久しくなかった。
私は息をしても苦しくない状況に戸惑った。
私は不治の病を抱えていたはずだ。なのにいつも私を苛む胸の痛みも、肺から込み上げて来るような嘔吐感もない。こんな状態は何年ぶりだろうか。
鐘の音は高く高く、空に響く。
この鳴らしかたには記憶がある。これは、鎮魂の鐘だ。
私は即座に理解した。
ついにこの時が来たんだと――私は死んでしまったのだと。
自分の未来に希望など持つことは諦めていたから、絶望はない。けれど、とても悲しかった。愛する人たちとの別れが辛かった。
私は自由になった体で、王宮の中を進む。どれだけ走っても疲れることのない体に違和感を感じたが、今はそれが有り難かった。見慣れた回廊も、こうして改めて柱に施された細かい彫刻や、壁の絵画、天窓のステンドグラスから射し込む虹色の光を見て、私は感嘆の息をつく。これまでは日常的で意識にも掛からなかったことが、今はこんなにもいとおしい。
私は当たり前だったことにすら感慨を覚える自分は、いよいよ現し世を離れるのとのだと実感した。
そのまま回廊を抜けた先に、私の探していた人がいた。
いつもは意思の強い光を湛える蒼い瞳が今は涙に濡れていた。棺に横たわる私の頬を、髪を撫でて何事か囁いているようだったが、その声は小さ過ぎてこの私には届かない。
――ああ、大好きな兄様。どうか泣かないで……
彼の悲しみが痛いくらい伝わってくる。私と彼は同じ魂を分かった双子。死の別離による喪失は何物にも代えがたい痛みをもたらす。けれど、今の私には彼を慰める言葉も、涙を拭う指先も、抱き締める腕も持たない。身を引き裂くような悲しみに心が悲鳴を上げているのに、流す涙もない。ああ、私は本当に死んでしまったのだと再認識する。
―― 兄様、どうか泣かないで……
『――陛下、もうすぐ刻限です……』
二人だけだった空間に、静かな闇が差し込んだような気配に振り返るとそこには漆黒の礼装を纏ったアレスディールがいた。彼の表情はとても厳しく、その身を包む気配は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていて、生身の体であれば背を震わせただろう。
彼は大きな純白の箱を抱えていた。
兄がそれに気付いて、けれど振り返ることなく指示を出した。
『済まない、ご苦労だった。それはここに置いてくれ』
私の棺に傍らに、アレスディールはその箱を慎重な手つきでそっと置いた。
『陛下、これは……』
『ああ、これのことか?』
アレスディールは自分が運んできた箱の中身を知らなかったようだ。兄は小さく口元だけに微笑を浮かべてゆっくりと箱の中身を取り出した――あれは……! 私は『それ』に見覚えがあった。
『これはフィリアの婚礼衣装だ。母上からの最後の贈り物だった。これをもらった時のフィリアの喜び様は今でもよく覚えている』
私も覚えている。お母様が私に下さった最後の贈り物。繊細なレースや刺繍の施された豪華な衣装に、幼いながら胸を踊らせたものだ。いつかあの純白のドレスを着て、私だけの騎士の花嫁になることを夢見た。これを着るのはその時だけだと心に決めて、私は一度もこの美しいドレスに袖を通すことはなかった。
『未婚の王女は聖セディナの元に嫁ぐのだという。なら、華燭の宴にはこれが相応しいだろうと思ってな……』
兄はドレスを広げて横たわる私の体に宛がった。
『思った通りだ……とても美しい。これ以上の花嫁はこの世にはいない』
恍惚の笑みを浮かべながら兄が囁いて、それをアレスディールは痛ましげに見つめていた。
『フィリアリーゼはルーシェリリアと違って自分をよく魅せることに関心がなかっただろう? 化粧もほとんどしない。しなくても充分美しいから必要なかっただろうが、今日は特別なんだ。最後だから、とびきりにしてもらった』
見ると、私の顔には綺麗に化粧が施されていた。まるでただ眠りについているだけのように血色もよく見える。
『身内贔屓と言われようが、フィリアリーゼは最高の姫だ。彼女は容姿だけじゃない、心根が美しい。俺はフィリアリーゼが愛しくて、誰よりも愛してた。だから、誰よりも幸せにしてやりたかった』
『…………』
『なあアレス、どうしてフィリアには彼女の騎士が迎えに来てくれなかったんだろうな。神が嫉妬したんだろうか』
アレスを見据える兄の目は厳しい。私の想いを知っていた兄だから、言外に彼を非難していたのだろう。
――けれど兄様、それはアレスのせいでは決してないのです。私がアレスを好きになったのに自分が傷つくことを恐れて、自分が永くないことを言い訳にして、自分の気持ちから逃げていたのは他でもない私だから……
兄とアレスディールは葬儀の執行を執り行う神官たちが呼びに来るまで、重苦しい空気のなか押し黙ったままだった。二人は神官の先導に従って聖堂を後にする。私は立ち去る後ろ姿を見送って、やるせない気持ちに胸を押さえた。
――私は愛する人たちの幸せな未来を信じられる
本当にそうなの? 彼らはこの先の未来で愛する人と幸せになれるの?
――お前と妃という新しい家族を得て、この上なく幸せだ……
どこからか、兄に似た声が聞こえる。その声はとても優しく、温かな響きだったが、どこか淋しげに聞こえた。
――お許しを、とは申し上げられません。ただこの罪を、我が身を持って贖うことだけはどうか、どうかお許し下さい
悲痛な声。何かを必死に絞り出すかのような、切ない声は――アレスディールのもの? その嘆きは深く、幸せなどどこにも見つけられない。
――貴女が、貴女が勇気を出さなかったから彼はこんなに苦しんだのよ!
誰かの悲鳴が聞こえた。とても悲しい。とても悲痛な声だった。そう、私には勇気がなかった。自分が傷つくことが怖かった。それは相手よりも自分が大事だからだ。なんと身勝手なんだろう。
――返して…………連れて行かないで!!
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………
これはきっと未来。私の居ることの叶わない未来。
私の愚かな振る舞いが愛する彼らを不幸にしたなら、私は聖セディナの元に逝くことなく、深淵の闇に堕ちるのだろう。
どうして償ったらいいのだろう? 私に出来ることはないのだろうか?
縋るような思いで祈る。
――……え、天使が……
祈りに呼応したのかは分からない。ただ、誰かが耳元で囁く。懐かしい声、でも知らない声。そして視界を目映い光が包み込む――――
――もうすぐ、貴女がそっくりの天使が堕ちてくる………
貴方は誰?
――どうかわたしを見つけてください
光の中の人が私に語りかける。逆光となりその顔を見ることができないが、何故かとても温かく、いとおしい。
――どうか私に出会ってください
目覚めた時、私は今までにないくらい酷い顔をしていた。
涙に濡れた目元は真っ赤に腫れあがり、侍女が驚いて手に持っていた洗顔のための桶を落として床を水浸しにしてしまったほどだ。すぐに別の侍女が用意してきた冷やした手巾を腫れた目元に当てながら、私は昨日の夢を思い返していた。
夢にしてはあまりにも現実味がある。
あれは未来視なのか。これから起こりうる未来なのか?
ダメだ、そんな未来はダメだ。私のせいで彼らの未来に陰を落とし傷をつけるようなことはあってはいけない。
夢は夢だ。現実ではないけれど、私はこのとき何故だかこの夢がこのまま行き着く未来であると確信していた。
どうしたらこの未来を回避できる?
私は自問する。その時夢の中で聞いた言葉を思い出す。
目覚める直前、誰かの声を聞いた。その声はなんと言っていたか。
わたしを見つけてほしい、出会ってほしい。そう、言ってなかったか?
そして、私にそっくりな天使が堕ちてくる、と。
一体どういうことなのだろう?
「王女、すぐにお支度を。今日は午後から出陣式もございます。慌ただしくなるかとは存じますが、予定が詰まっております。どうかお急ぎを」
侍女頭の言葉に頷いて、私は寝台から滑り降りた。夢の出来事について疑問は多い。でもそれについてじっくりと考えている時間はなかった。
立ち上がった瞬間、私は貧血の時のような目眩に襲われたが、侍女に気取られないように、僅かにこめかみを指先で押さえて何とかやり過ごした。
戦地へ向かう兄を見送った後、私は予想通り倒れてしまいお父様の手を煩わせてしまった。そして、目覚めた時、夢の続きに出会った。
陽光のような美しい金色の髪に、澄んだ青空色の瞳。私とは正反対に瑞々しい生気に満ちた、同じ容姿の少女が私の顔を覗き込んでいた。
――こうして私は私の運命を変える『天使様』に出会ったのだ。




